帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

「小倉百人一首」 (九十七) 権中納言定家 平安時代の歌論と言語観で紐解く余情妖艶なる奥義

2016-04-10 19:30:02 | 古典

             



                      「小倉百人一首」余情妖艶なる奥義



 「百人一首」の和歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、定家の父藤原俊成の歌論と言語観に従って、歌の「表現様式」を知り「言の心」を心得て、且つ、歌言葉は「浮言綺語に似て」意味が戯れることも知って、和歌を聞けば、
「心におかしきところ」や「言の戯れに顕れる深い主旨・趣旨」が心に伝わる。ものに「包む」ように表現されてある。

和歌は、俊成の言う通り「煩悩」、言い換えればエロス(性愛・生の本能)が表現されてある。歌言葉の戯れを利して、「清げな姿」の裏に、貫之のいう「玄之又玄」なる情態で秘められてある。今の人々は、一義な国文学的解釈に久しく連れ添い、離れ難いでしょうが、そろそろ、平安時代の和歌の文脈に一歩足を踏み入れてみれば、和歌の真髄が心に伝わるはずである。


 

藤原定家撰「小倉百人一首」 (九十七) 権中納言定家


   (九十七)
 来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに 焼くや藻塩の身も焦れつつ

(来ぬ人を・我を、松帆の浦の夕凪時に、待つ女は妬きもきしているかなあ、焼く藻塩のように、心も・身も恋い焦がれながら……来ぬ人を待つ女の心の、夕凪に・心すみ心風吹かぬのに、我は恋し・身も乞いし、こ涸れ、つつ・筒)

 

言の戯れと言の心

「まつほ…浦の名…名は戯れる。松帆、松穂、待つお」「松…待つ…言の心は女」「ほ…お…男…おとこ」「うら…浦…言の心は女…心」「ゆふなぎ…夕凪…夕方風が止み波が静まること…ものの果て方に心静まり波立たないこと…(たぶん女は恋心が果てて)心冷めた状態にあること」「に…時を表す…となった・のに…変化の結果・逆接を表す」「焼くや藻塩…塩の製法」「焼く…妬く…身を焼くような痛々しさ」「や…疑問・詠嘆を表す」「こがれ…焦がれ…いちずに恋慕うこと…恋の炎に焼け死にそうなこと…こ枯れ…こ涸れ…おとこの果てざま」「つつ…継続を表す…筒…空しくなったおとこ」。

 

歌の清げな姿は、待つであろう女の情態を夢想する、男の恋。

心におかしきところは、女心は澄んで春風も吹かない、夕凪情態にある。男は恋い焦がれ、身も「こ涸れて」空しき筒となる・おとこの乞い。

 

新勅撰和歌集(新古今和歌集の次、第九代目の勅撰集) 恋歌三、建保六年(順徳天皇の御時・1218)の内裏歌合の恋歌。権中納言定家(11621241)、五十六歳頃の歌となる。

 

 

父俊成の歌論に従った表現であることは言うまでも無い。「歌言葉の戯れに、趣旨が顕れている」。それは、言わば煩悩であり即菩提である。

定家は「毎月抄」に「秀逸の歌」について述べている。(当ブログ1月1日にも引用した)。

「先ず、心深く、たけ高く巧みに言葉の外まで余れる様にて、姿けだかく、詞なべて続け難きが、しかも安らかに聞こゆるやうにて、おもしろく、幽かなる景趣たち添ひて、面影ただならず、気色は然るから、心も、そぞろかぬ歌にて侍り」。


 この歌論を、この歌に当てはめてみよう。

男の恒常的な恋心と乞い心を詠んで「先ず、心深い」。夕凪に天高く上る煙は「丈高く」、民の営みであり、恋と乞いの炎の気色であり、これらの言葉は「歌として・並べて続け難いが、安らかに聞こえ、おもしろい」。しかも「幽かなる景趣たち添って余るほどで、乞いの・面影はただならぬ様子である」。「このように・歌の・気色だけではなく、歌の心も・心におかしきところも、むやみやたらなさまではない」のを、優れた歌という。

この定家の歌論が、今のところ、我が「聞き耳」には、、このように聞こえる。