■■■■■
帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って「古今和歌集」を解き直している。
貫之の云う「歌の様を知り」とは、歌には多重の意味があり、清げな姿と、心におかしきエロス(生の本能・性愛)等を、かさねて表現する様式と知ることである。先ずそれを知らなければ、歌の解釈など始まらない。
古今和歌集 巻第六 冬歌 (334)
(題しらず) (よみ人しらず)
梅の花それとは見えず久方の 天霧る雪のなべてふれゝば
この歌、ある人の曰く、柿本人麿が歌也。
(梅の花、それとは見えず、久方の天空、濃霧のように雪が全面に降ったので……男木の花・我れ、それとは見ることできず、久堅の吾女きる、おとこ白ゆきが、全て降ってしまったので・身も心も萎え)。
この歌、或る人が言うには、柿本人麿の歌である。
「梅の花…木の花…男花…はる待つおとこ花」「それ…冬の男花…罪人・流人…おとこ花」「久方の…枕詞…久堅の(万葉集の表記にある)…盤石の」「天霧る…四面五里霧の中…あまきる…女きる…吾女被る…吾女限る」「それとは見えず…それとは世の人々には見えない…それとして見ることは出来ない」「見…覯…まぐあい」「雪…おとこ白ゆき」「なべて…全て」「ふれれば…降ってしまったので」「れ…り…完了した意を表す」。
白梅の花咲いても、それとは見えず、天空濃霧のように白雪が全面に降った情景――歌の清げな姿。
おとこ花、それとは見得ない、盤石の吾女きる、おとこ白ゆきがすべて降ってしまったので・――心におかしきところ。
流人とされた時、目の前も頭脳も真っ白の、男の心情を詠んだ歌のようである。
古今和歌集 巻第六 冬歌 (335)
梅の花に雪の降れるをよめる 小野篁朝臣
花の色は雪にまじりて見えずとも 香をだにゝほへ人のしるべく
(梅の花に雪が降ったのを詠んだと思われる・歌……男木の花に白ゆき降ったのを詠んだらしい・歌) おののたかむらあそん(流人となった人・人麿を詠んだのか、自身の事を詠んだのかなわからない)。
(花の色彩は、白雪にまじりて見えずとも 香だけでも匂え、人々が知ることができるように……おとこ花の気色は、白ゆきにまじり、見得ずとも、香りだけでも匂え、女が、知り・汁ることができるだろう)。
「花…木の花…梅の花…男花…おとこ花」「雪…おとこ白ゆき」「見えず…目に見えない…見ることができない」「見…覯…まぐあい」「人…人々…女」「しる…知る…汁…にじむ…うるむ」「べく…べし…することができるだろう…するはずだ」。
花の色彩は、白雪にまじりて見えずとも 香だけでも匂え、人々が知ることができるように――歌の清げな姿。
おとこ花の気色は、白ゆきにまじり、見られなくとも、香りだけでも匂え、妻女が知り、汁るだろうよ――心におかしきところ。
流罪は誰にも知らされず、闇から闇へ粛々と行われ、その人が、都から忽然と居なくなるものらしい。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)