帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

古典和歌のほんとうの解釈に必要なことを気付いたままに記す。その2

2017-12-18 21:05:13 | 古典

            

                      帯とけの「古今和歌集」

                     ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

古今和歌集巻第七の終りに、古典和歌のほんとうの解釈に必要なことを気付いたままに記す。その2である。前は抽象的な言葉で、国文学を嘲笑したことを反省して、貫之の歌を一首とりあげて説明する。

 

『拾遺和歌集』巻第四 冬


     題しらず              つらゆき

思ひかね妹がり行けば冬の夜の 河風さむみ千鳥鳴くなり

(思いに、堪えかねて、恋人の許へ行けば、道中・冬の夜の川風寒くて、千鳥が鳴いているのが聞こえる……思いに、堪えかねて、恋人の許へ行けば、宿で・冬の夜のおんなの心風寒々として、女は侍女ともども泣いているのが聞こえる)。

 

「河…川…言の心は女…おんな(そう心得るべきことで理由はない)」「千鳥…鳥の言の心は女(平安時代の人はそう心得ていたことで理由はない)…群れている小鳥…複数の女たち」「風…心に吹く風」。

言の心を知れば、誰でも、歌を上のように聞く事ができる。

 

 

明治三十年ごろ、正岡子規は「貫之は下手な歌詠みにて、『古今集』はくだらぬ集に有之候」と、貫之の歌と古今集の歌を全否定したが、或る人にこの歌は如何ですかと問われ、「この歌ばかりは趣味ある面白き歌に候」と言ったという。子規自身は、この歌をどのように聞き取ったかは不明であるが、明治の国文学的解釈に準じた解釈だっただろう。現在の古語辞典に「恋しい思いに耐えきれず、愛する人の許に訪ねて行くと冬の夜の川風が寒いので、千鳥も寂しそうに鳴くのが聞こえるよ」とあり、また或る書「――千鳥もわびしそうに鳴くのが聞こえる、思慕の情と千鳥の鳴き声が通い合う」とある。明治時代も大差なかっただろう。


 『拾遺集』には、この歌の後に「よみ人しらず(女が匿名で詠んだと聞く)」の歌が数首並べられてある。それらには、女が泣いていた理由がはっきり詠まれてある。その一首、

夜を寒み寝覚めて聞けばをし鳥の うらやましくもみなるなるかな

(夜が寒いので寝覚めて聞けば、をし鳥が、うらやましくも、見為り身成るかな……)、わたしは今宵も独り捨て置かれていると、おんなは泣いていたのである。

 

「をしどり…夫婦仲の好い鳥…夫婦仲のよい女」「鳥…言の心は女」「見為る…まぐあいなる」「身成る…身は山ばに成る」「かな…詠嘆の意を表す」。

 

(拾遺和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)