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帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの小町集 69 千早振る神もみまさば

2014-03-06 00:03:38 | 古典

    

   

                帯とけの小町集


 

小町の歌は、清げな姿をしているけれども、紀貫之のいう、歌のさま(歌の表現様式)を知り、言の心(字義以外に孕む意味)を心得て聞けば、悩める美女のエロス(生の本能・性愛)が、「心におかしきところ」として、今の人々の心にも直に伝わるでしょう。


 

 小町集 69


  日のてりて侍りけるに、あまごひの和歌よむべきせんじありて
日が照っていたので、雨乞いの和歌を詠むべしという宣旨があって)

 千早振る神もみまさば立ち騒ぎ 天のとがはのひぐちあけたまへ

 (ちはやぶる神も、日照り続くのを・ご覧になられるなら、立ち騒いで、天の門川の樋口開け給え……血早振る女も、君が・見にいらっしゃれば、たち騒いで、吾間の門川の秘口開け給え)。

 

言の戯れと言の心

詞書「宣旨…勅命の主旨…勅命を伝えること」。

歌「ちはやぶる…枕詞…霊力盛んな神にかかる…血気盛んな氏や人にかかる」「かみ…神…上…女の敬称…女」「みまさば…見ていらっしゃれば」「見…目で見ること…覯…媾…まぐあい」「あま…天…女…吾間」「と…門…女」「かは…川…女」「ひぐち…樋口…緋口…秘口」。

 


 をかし(おもしろい・趣きがある・笑いたくなる・みごとである)と言える歌。

 

古事記によると、弟神の乱暴狼藉が止まないために、天照大御神は天の岩屋戸の内に籠られたので、世は常夜となってしまった。天のうずめの女神は、松明に、わが胸乳を見せ、裳の緒を陰(ほと)に垂らし、集う神々に見せたところ、大騒ぎとなり八百万の神が笑ったので、何事ならんと、大御神が岩門を細めにお開けになられた時、天の手力男の神が力ずくで門を開けたのである。大御神はお出ましになられ、この国は明るさをとりもどした。

 

天の岩屋戸を開けられたのは、女神の淫らな振る舞いによる笑いの所為である。小町は、淫らな和歌で、日照り続きで、うんざりしていた上の人々を笑わせ和ませたのでしょう。

 


  『群書類従』和歌部、小町集を底本とした。歌の漢字表記と仮名表記は、適宜換えたところがあり同じではない。


 

以下は、歌を恋しいほどのものとして聞くための参考に記す。

 

古今集真名序には「彼の時、澆漓(軽薄な)歌に変わり、人々は奢淫(おごって・淫らな)歌を貴び、浮詞は雲と興り、艶流れ泉と湧く、歌の実皆落ち、その華独り栄える」とある。彼の時は、小野小町等が歌を詠んだ時代のことである。

 

紀貫之は古今集仮名序の結びに、「歌の様を知り、言の心を心得える人」は、古今の歌が恋しくなるだろうと述べた。

歌の様(和歌の表現様式)については、藤原公任に聞く。公任は清少納言、紫式部、和泉式部、藤原道長らと同じ時代を生きた人で、詩歌の達人である。

優れた歌の定義を、『新撰髄脳』に次のようにまとめている。「心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」。歌は一つの言葉で複数の意味が表現されてあることを前提にした定義である。

 

貫之と公任の歌論を援用して、歌を紐解いて行けば、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。それは、言いかえれば、エロス(性愛・生の本能)である。もう一つ言いかえれば、「煩悩」である。

藤原俊成は、『古来風躰抄』に次のように述べた。歌の言葉は「浮言綺語の戯れには似たれども、言の深き旨も顕れ、これを縁として仏の道ににも通はさんため、かつは煩悩即ち菩提なるが故に、―略― 今、歌の深き道を申すも、空・仮・中の三諦に似たるによりて、通はして記し申すなり」。

歌の「心におかしきところ」に顕れるのは、煩悩であり、歌に詠まれたそれは、即ち菩提(煩悩を断ち真理を知って得られる境地)であるという。

 

清少納言の言語観は『枕草子』(3)にある。「同じ言なれども、聞き耳異なるもの、法師の言葉、男の言葉、女の言葉」。同じ言葉でも、聞く耳によって異る『意味に』聞こえるもの、それが我々の言葉であるという。

 

上のような平安時代の言語観と歌論を無視して、江戸時代以来、国学と国文学によって、歌集や歌物語の歌の注釈と、「清げな姿」のみから憶測する解釈が行われてきたけれども、それらは根本的に間違っている。