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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
国文学が無視した「平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観」に従って、古典和歌を紐解き直している。古今和歌集の歌には多重の意味があり、その真髄は、公任のいう「心におかしきところ」である。人のエロス(生の本能・性愛)の表現で、俊成がいう通り、歌言葉の浮言綺語に似た戯れのうちに顕れる。
歌のエロスは、中世に秘事・秘伝となって「古今伝授」となり、やがて、それらは埋もれ木の如くなってしまった。はからずも、当ブログの解釈とその方法は「古今伝授」の解明ともなるだろう。
古今和歌集 巻第四 秋歌上 (230)
朱雀院女郎花合によみて奉りける、 左大臣
女郎花秋の野風にうちなびき 心ひとつを誰によすらむ
朱雀院にて行われた「亭子院女郎花合」に詠んで奉った・歌、 左のおほいまうちぎみ(藤原時平)
(女郎花よ、秋の野風に、なびき・しなだれ伏して、真の心を、誰に寄せているのだろう……遊び女たちよ、厭きのひら野の心風に、しなだれて、まことの心ひとつを、誰に寄せているのだろう)。
歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る
「女郎花…草花の言の心は女…草花の名…ものの名は戯れる、をみな圧し、をみな部し、遊びめたち、年中春のもの売る女たち」「秋…飽き…厭き」「野風…野原に吹く風…山ばでなくなったひら野に吹く心風…涼しい・寒い・寒々しい心風」「うちなびき…うちひしがれて伏す…しなだれ寄り伏す」「うち…接頭語」「心ひとつ…一心…一途な情愛…ほんとうの情愛」「誰に…(不特定多数の男どものうち)誰に」「よす…寄せる…心を寄せる」。
女郎花、秋の野風に揺らめいているが、ほんとうの心は誰に寄せているのだろう。――歌の清げな姿。
遊び女たちよ、厭きのひら野に、しなだれ伏すけれども、ほんとうの情愛を、誰に寄せているのだろう。――心におかしきところ。
年中春のもの売る女を「心ぞ知れぬ」と思う男にも、同情寄せる心はある。
この歌、「亭子院女郎花歌合」では、次の、よみ人しらずの歌に合わされてある。女の歌として聞く、
秋の野をみなへしるとも笹わけに 濡れにし袖や花と見ゆらむ
(秋の野を、女郎花湿っぽくとも、笹分け歩む時に、濡れた衣の袖、花模様と見るでしょうか……飽きの厭きの野、おとこを皆、へし折り・汁とも、ささ分け入りに、濡れてしまった男の身の端、咲いた白いお花と、遊び女たちは・見るのでしょうかあ)。
「ささ…笹…細・小…接頭語…とりわけおんなの美称」「わけ…おし分け…分け入り」「袖…衣の袖…そで…端…身の端」「や…疑問・感動・詠嘆を表す」「花…花模様…そでの花…おとこ花」「見…観…覯…媾…まぐあい」「らむ…推量の意を表す」。
遊び女の心のありさまを推定し、宮廷の女官か女房が匿名で、皮肉を込めて詠んだ歌のようである。「清げな姿」にするためか、「をみなへし」という色々な意味を孕む言葉は崩し隠してある。実は、より具体的な情況「おとこを、皆、圧し、汁る(溶解する)」と、言い出してある。
歌合では、左大臣の男歌との対比を楽しんだのだろう。あの菅原道真を流罪にした左大臣時平の歌の方が、初な乙女の感傷的な歌のように見えてくる。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)