帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第四 秋歌上 (230)女郎花秋の野風にうちなびき

2017-05-18 19:59:04 | 古典

            

 

                      帯とけの古今和歌集

                      ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

国文学が無視した「平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観」に従って、古典和歌を紐解き直している。古今和歌集の歌には多重の意味があり、その真髄は、公任のいう「心におかしきところ」である。人のエロス(生の本能・性愛)の表現で、俊成がいう通り、歌言葉の浮言綺語に似た戯れのうちに顕れる。

歌のエロスは、中世に秘事・秘伝となって「古今伝授」となり、やがて、それらは埋もれ木の如くなってしまった。はからずも、当ブログの解釈とその方法は「古今伝授」の解明ともなるだろう。

 

古今和歌集  巻第四 秋歌上 230

 

朱雀院女郎花合によみて奉りける、   左大臣

女郎花秋の野風にうちなびき 心ひとつを誰によすらむ

朱雀院にて行われた「亭子院女郎花合」に詠んで奉った・歌、  左のおほいまうちぎみ(藤原時平)

(女郎花よ、秋の野風に、なびき・しなだれ伏して、真の心を、誰に寄せているのだろう……遊び女たちよ、厭きのひら野の心風に、しなだれて、まことの心ひとつを、誰に寄せているのだろう)。

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「女郎花…草花の言の心は女…草花の名…ものの名は戯れる、をみな圧し、をみな部し、遊びめたち、年中春のもの売る女たち」「秋…飽き…厭き」「野風…野原に吹く風…山ばでなくなったひら野に吹く心風…涼しい・寒い・寒々しい心風」「うちなびき…うちひしがれて伏す…しなだれ寄り伏す」「うち…接頭語」「心ひとつ…一心…一途な情愛…ほんとうの情愛」「誰に…(不特定多数の男どものうち)誰に」「よす…寄せる…心を寄せる」。

 

女郎花、秋の野風に揺らめいているが、ほんとうの心は誰に寄せているのだろう。――歌の清げな姿。

遊び女たちよ、厭きのひら野に、しなだれ伏すけれども、ほんとうの情愛を、誰に寄せているのだろう。――心におかしきところ。

 

年中春のもの売る女を「心ぞ知れぬ」と思う男にも、同情寄せる心はある。

 

この歌、「亭子院女郎花歌合」では、次の、よみ人しらずの歌に合わされてある。女の歌として聞く、

秋の野をみなへしるとも笹わけに 濡れにし袖や花と見ゆらむ

(秋の野を、女郎花湿っぽくとも、笹分け歩む時に、濡れた衣の袖、花模様と見るでしょうか……飽きの厭きの野、おとこを皆、へし折り・汁とも、ささ分け入りに、濡れてしまった男の身の端、咲いた白いお花と、遊び女たちは・見るのでしょうかあ)。

 

「ささ…笹…細・小…接頭語…とりわけおんなの美称」「わけ…おし分け…分け入り」「袖…衣の袖…そで…端…身の端」「や…疑問・感動・詠嘆を表す」「花…花模様…そでの花…おとこ花」「見…観…覯…媾…まぐあい」「らむ…推量の意を表す」。

 

遊び女の心のありさまを推定し、宮廷の女官か女房が匿名で、皮肉を込めて詠んだ歌のようである。「清げな姿」にするためか、「をみなへし」という色々な意味を孕む言葉は崩し隠してある。実は、より具体的な情況「おとこを、皆、圧し、汁る(溶解する)」と、言い出してある。

 

歌合では、左大臣の男歌との対比を楽しんだのだろう。あの菅原道真を流罪にした左大臣時平の歌の方が、初な乙女の感傷的な歌のように見えてくる。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)