■■■■■
帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
国文学が全く無視した「平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観」に従って、古典和歌を紐解き直せば、仮名序の冒頭に「やまと歌は、人の心を種として、よろずの言の葉とぞ成れりける」とあるように、四季の風物の描写を「清げな姿」にして、人の心根を言葉として表出したものであった。その「深き旨」は、俊成が「歌言葉の浮言綺語に似た戯れのうちに顕れる」と言う通りである。
古今和歌集 巻第四 秋歌上 (198)
題しらず よみ人しらず
秋萩も色づきぬればきりぎりす 我が寝ぬごとや夜はかなしき
(詠み人知らず・女の詠んだ歌として聞く。これより三首の女歌が並ぶ)
(秋萩も色付いてしまえば、コオロギよ、わたしが眠れぬように、秋の・夜は哀しいのか……厭き端木も、色尽きてしまえば、胸キリキリす・ものキリキリしめつけす、わたしが、眠れないように、夜は、すも・もの愛しいのね)。
歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る
「秋…飽き…厭き」「はぎ…萩…草であるが、端木などと戯れて、おとこ…木の言の心は男…男の身の端」「いろづく…色づく…紅葉する…色つく…色尽く…色情果てる」「ぬ…してしまう…完了の意を表す」「きりぎりす…コオロギ…鳴き声はキリキリと聞けば聞こえる…鳴く虫の言の心は女…胸しめつけられるさま」「す…する…棲・巣・洲などの言の心は女・おんな」「ごとや…如くや…同じようにか」「や…疑いを表す」「夜…秋の長夜…よ…余…余りの(夜)」「かなしき…哀しい(ことよ)…愛しい(のよねえ)…体言を省略した体言止め、余情がある」。
秋萩も色づいてしまえば、キリキリと鳴く、わたしが眠れないように、コオロギも・秋の夜は哀しいのか。――歌の清げな姿。
飽きた男の身の端も、色情尽きてしまえば、締めつけキリキリ、す、おんなよ、わたしが眠れないように、余りの夜は、すも、ものが愛しいのね。――心におかしきところ。
女の心に思うことを言い出した。厭きの端木、はかないおとこに遭遇したおんなのありさまが、歌の「心におかしきところ」に顕れている。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)