帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの土佐日記 二月四日(かぢとり)

2013-02-13 00:08:18 | 古典

    



                              帯とけの土佐日記


 土佐日記 二月四日(かぢとり)

 
 四日。かぢとり(楫取…船頭)「今日、風雲の気色ひどく悪い」と言って、船出さずじまいだった。それなのに、終日、波風立たず。この船頭、日和も予測できない、かたゐ(ひどい奴…物乞い)だった。この泊りの浜には、種々の麗しい貝、石など多くある。それで、たゞむかしのひとをのみこひつゝ(ただ昔の恋人を恋しがりながら…ただ亡き娘を恋しがりながら)、ふねなるひと(ふねの人…男親)が詠んだ。

 よするなみうちもよせなむわがこふる ひとわすれがひおりてひろはむ

(寄せる波、打ち寄せてくれ、わが恋しい人を忘れられる忘れ貝を拾いたい……――)。

と言ったので、あるひと(或る女…女親)が耐えられずに、ふねのこゝろやり(船上の暮らしの憂さ晴らし…船なる人の歌の憂さ晴らし)に詠んだ、

 わすれがひゝろいしもせじゝらたまを こふるをだにもかたみとおもはむ

(わたしは・忘れ貝、拾ったりしない、白珠を恋しがる心も、あの児の形見と思う……――)。

と言った。女児のためには、おやおさなくなりぬべし(親は幼くなったようだ…歌に艶なる情が無いようだ)。

 「珠ほどではないかもね」と他人は言うようである。それでも、「死んだ児、顔良かった」というようでもある。

 
 なお同じ所に日を経ることを嘆いて、或る女が詠んだ歌、

てをひてゝさむさもしらぬいづみにぞ くむとはなしにひごろへにける

(手を浸して、つめたさも知らない泉で、水汲むとも無しに日ごろ経たことよ……手をつけて、水ぬるみ春を迎えている女なのに、組むともなしに日ごろ経たことよ)。


 言の戯れと言の心

 「ただむかしのひとをのみこひつゝ…ただ昔の恋人を恋しがりつつ…ただ以前亡くなった人を恋しつづけて」「ふねなるひと…船なる人…夫根なる人…わが夫…男親」「ふねのこころやり…船人の憂さ晴らし…夫根の心を払いのける」「おやおさなくなりぬべし…親の歌に艶なる余情がない、幼くなってしまったのだろう」。

 「さむさもしらぬ…つめたさも感じない(二月四日は、今の暦では三月中頃)…水温む春である…身も心も春である」「いづみ…泉…水…女」「くむ…水を汲む…心を汲む…組む…つがう」。

 


 船君には体面とかがあって、娘の死をめめしく嘆けないためか、もとの愛人を偲ぶかのような歌をよんだ。珍しく品のよくない余情はないけれども、妻には不評、たちまち掃い除けられた。

 貫之は、三十年以上前のことであるが、ここ、和泉国に長逗留していたことがあったのである。古今和歌集に友人の藤原忠房の歌がある。詞書に「貫之が、和泉国にはべりける時に、大和よりまうできて、詠みて遣はしける」とある。

 君を思ひおきつの濱になく鶴の たづね来ればぞありとだに聞く

(君を思いおき津の濱で泣く鶴の、声を尋ねて来れば、やはりだ、君が居るというではないか)
 
「たづ…鶴…鳥…女」という「言の心」を心得ていれば、「心におかしきところ」がわかる。


 伝授 清原のおうな
 聞書 かき人知らず(2015・11月、改定しました)


 原文は青谿書屋本を底本とする新 日本古典文学体系 土佐日記による。