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帯とけの土佐日記
土佐日記 二月四日(かぢとり)
四日。かぢとり(楫取…船頭)「今日、風雲の気色ひどく悪い」と言って、船出さずじまいだった。それなのに、終日、波風立たず。この船頭、日和も予測できない、かたゐ(ひどい奴…物乞い)だった。この泊りの浜には、種々の麗しい貝、石など多くある。それで、たゞむかしのひとをのみこひつゝ(ただ昔の恋人を恋しがりながら…ただ亡き娘を恋しがりながら)、ふねなるひと(ふねの人…男親)が詠んだ。
よするなみうちもよせなむわがこふる ひとわすれがひおりてひろはむ
(寄せる波、打ち寄せてくれ、わが恋しい人を忘れられる忘れ貝を拾いたい……――)。
と言ったので、あるひと(或る女…女親)が耐えられずに、ふねのこゝろやり(船上の暮らしの憂さ晴らし…船なる人の歌の憂さ晴らし)に詠んだ、
わすれがひゝろいしもせじゝらたまを こふるをだにもかたみとおもはむ
(わたしは・忘れ貝、拾ったりしない、白珠を恋しがる心も、あの児の形見と思う……――)。
と言った。女児のためには、おやおさなくなりぬべし(親は幼くなったようだ…歌に艶なる情が無いようだ)。
「珠ほどではないかもね」と他人は言うようである。それでも、「死んだ児、顔良かった」というようでもある。
なお同じ所に日を経ることを嘆いて、或る女が詠んだ歌、
てをひてゝさむさもしらぬいづみにぞ くむとはなしにひごろへにける
(手を浸して、つめたさも知らない泉で、水汲むとも無しに日ごろ経たことよ……手をつけて、水ぬるみ春を迎えている女なのに、組むともなしに日ごろ経たことよ)。
言の戯れと言の心
「ただむかしのひとをのみこひつゝ…ただ昔の恋人を恋しがりつつ…ただ以前亡くなった人を恋しつづけて」「ふねなるひと…船なる人…夫根なる人…わが夫…男親」「ふねのこころやり…船人の憂さ晴らし…夫根の心を払いのける」「おやおさなくなりぬべし…親の歌に艶なる余情がない、幼くなってしまったのだろう」。
「さむさもしらぬ…つめたさも感じない(二月四日は、今の暦では三月中頃)…水温む春である…身も心も春である」「いづみ…泉…水…女」「くむ…水を汲む…心を汲む…組む…つがう」。
船君には体面とかがあって、娘の死をめめしく嘆けないためか、もとの愛人を偲ぶかのような歌をよんだ。珍しく品のよくない余情はないけれども、妻には不評、たちまち掃い除けられた。
貫之は、三十年以上前のことであるが、ここ、和泉国に長逗留していたことがあったのである。古今和歌集に友人の藤原忠房の歌がある。詞書に「貫之が、和泉国にはべりける時に、大和よりまうできて、詠みて遣はしける」とある。
君を思ひおきつの濱になく鶴の たづね来ればぞありとだに聞く
(君を思いおき津の濱で泣く鶴の、声を尋ねて来れば、やはりだ、君が居るというではないか)
「たづ…鶴…鳥…女」という「言の心」を心得ていれば、「心におかしきところ」がわかる。
伝授 清原のおうな
聞書 かき人知らず(2015・11月、改定しました)
原文は青谿書屋本を底本とする新 日本古典文学体系 土佐日記による。