帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの枕草子〔百二十五〕七日の日の若菜

2011-07-23 06:06:50 | 古典

 


                   帯とけの枕草子〔百二十五〕七日の日の若菜


 言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」のみ。「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。


 清少納言枕草子〔百二十五〕七日の日の若菜

 
七日の日の若菜を、六日、人のもてき、さはぎ、とりちらしなどするに、見もしらぬ草を、こどもの取もてきたるを、なにとかこれをばいふ、ととへば、とみにもいはず、いま、などこれかれ見合せて、みゝな草となんいふ、といふものゝあれば、むべなりけりきかぬかほなるは、とわらふに、又いとをかしげなるきくのおひいでたるをもてきたれば、
つめど猶みゝな草こそあはれなれ あまたしあればきくもありけり
といはまほしけれど、又これもきゝいるべうもあらず。

 文の清げな姿
 
正月七日の日の若菜を、六日に、人が持って来て、騒いでとり散らしたりするときに、見も知らぬ草を、子供が取って来たので、「何と、これをば言うの」と問えば、すぐには言わず、「いまに」などと互いに顔見合わせて、「耳無草とね、言うの」という者がいたので、「なるほどそうだったのだ、聞こえない顔していたのは」と笑うと、またとってもかわいらしい、菊の生え出たばかりのを持って来たので、
 
摘めど猶みゝな草こそあはれなれ あまたしあればきくもありけり
 (摘んでも、やはり耳無草は哀れなり、数多く草があれば中には、菊も・聞くも、あったのねえ)
と言いたかったけれど、またこれも、(子供に)聞き入れられるはずもない。

 心におかしきところ
 
何ぬかの日の若い女草を、その前の日、人が持ってきて騒ぎ、とりちらかしなどするときに、見も知らぬ草を、子どもがとり持ってきたのを、「何にと、此れをば、言うの」と問えば、すぐには言わず、「井間に」などと、あちらこちら見合わせて、「身見無くさとね、いう」という者がいるので、「なるほどそうだったのだ、効かない、かおなのは」と笑うときに、またかわいらしいきくの生え出たばかりのを、持ってきたので、
 つめどなほみゝな草こそあはれなれ あまたしあればきくもありけり
 (
娶っても、なお、身見無くさは、哀れなり、あま多しあれば、効くもあったのにね)
と言いたかったけれど、またこれも(子供に)聞き入れられるはすもない。

 
言の戯れと言の心
 
「若菜…若い女」「菜…草…女」「六日…若菜摘む前日…若菜より若い…幼い」「人…他人…或る人…若菜より若い草の親」「見も知らぬ…見たことも無い」「見…覯…媾…まぐあい」「みみな草…耳無草…聞き分けの無い女…おとなでない女…身見無し女」「つむ…摘む…採る…引く…娶る…まぐあう」「草…ぬえ草のめ(古事記)、わか草の妻(万葉集)と用いられいたときすでに言の心は女」「なほ…猶…なお…汝男」「あまたし…多く…あま多し…女多く」「あま…女」「きく…菊…聞く…聞き分ける…おとなである…効く…(見る)効がある…巧みである」。


 長保元年(999)、道長のむすめ彰子十二歳、入内し女御となる。(なお、紫式部が女房となったのは数年後の事)
 
彰子の幼さ、親の道長の性急さを、揶揄した文。ただし、子ども相手のたわいも無い会話に聞こえるように、清げに包んであるので、「あの人を、からかっている」とわかるのは、言の心のわかる人だけ。
枕草子は、われらの女房たちが読んで「をかし」と笑える読物。


 
伝授 清原のおうな
 
聞書 かき人知らず    (2015・9月、改定しました)
 
 
原文は「枕草子 新 日本古典文学大系 岩波書店」による