帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第五 秋歌下 (271)うへし時花まちどをにありしきく

2017-09-25 19:00:46 | 古典

           

 

                     帯とけの「古今和歌集」

                         ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って、古今和歌集を解き直している。

清少納言は天才である。枕草子の初めの方に、言語観を次のように示した。「おなじ言なれども、きき耳異なるもの、法師のことば、男のことば、女のことば。げすのことばにはかならず文字あまりたり」。同じ一つの言葉であっても、聞き耳によって、意味が・異なるもの、それが・法師の言葉、男の言葉、女の言葉・即ち我々の用いる言葉である。この言語圏外の人の言葉には、必ず、文字の意味が余っている。さらに翻訳すれば、一つの言葉に複数の意味候補があるが、結局、受け手の聞き取った意味が、その言葉の意味であるという。

20世紀の初め頃より、西洋の哲人達を悩ましはじめた言語という合理的思考では捉きれない不思議なものについて、1千年前に、清少納言はズバリ結論を述べていたのである。言語の意味はどのように伝達されようと、「受け手の聞き取った意味が、その言葉の意味である」とは、清少納言の哲学的言語観である。

 

古今和歌集  巻第五 秋歌下271

 

寛平御時后宮歌合の歌        大江千里

うへし時花まちどをにありしきく うつろふ秋にあはむとや見し

(寛平の御時、后宮の歌合の歌)       大江千里

(植えた時、花咲くのが待ち遠しかった菊、萎え衰える秋に逢うだろうと思っただろうか・思わなかったなあ……うえつけた時、お花咲くのが待ち遠しかった、貴具、衰え萎える厭きに、遇うだろうと見ていたかなあ)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「うへし…うゑし…植えし…(菊を)植えた…植え肢」「し…過去…強調…肢…身の枝…おとこ」「花…菊の花…貴具のお花…おとこ花」「うつろふ…変化する…悪い方に変化する…色情などが衰える」「や…疑問の意を表す…反語の意を表す…詠嘆の意を表す」」「見る…思う」「見…覯…媾…まぐあい」。

 

植えた時、花咲くのが待ち遠しかった菊、萎えて色衰える秋に逢うだろうと思っただろうか・思わなかったなあ。――歌の清げな姿。

ものうえた時、おとこ花咲くのが待ち遠しかった、わが貴具、衰え萎える厭きに、遇うだろうと見ていたかなあ・みるのに無我夢中よ。――心におかしきところ。

 

無我夢中で、みとのまぐあひの山ばに達して、厭きと共に、みずのない池に堕ち逝き、ものには果てがあることを知る。

 
 (古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)