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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って、古今和歌集を解き直している。
歌は、姿清げで、心におかしきところがある。「読み上げもし、詠じもしたるに、艶にも、あはれにも聞こゆるものである」と藤原俊成は『古来風躰抄』に述べた。
古今和歌集 巻第五 秋歌下 (274)
菊の花のもとにて、人の、人待てる形を読める 友則
花見つゝ人まつ時は白妙の 袖かとのみぞあやまたれける
(菊の花の許にて、人が人を待っている模型を詠んだと思われる・歌……貴具のおとこ花の下にて、女が男を待っている形を詠んだらしい・歌) とものり
(花を眺めながら、人待つ時は、白菊が、ふと、待つ人の白妙の衣の袖かとばかり、見誤まったことよ……すでにおとこ花を見つつ、女の果てを、待つ時は、白絶えの身の端かとばかり、吾や待たれていたことよ・二見乞うとか)
「花…菊…貴具の花…おとこ白ゆきの花」「見…覯…媾…まぐあい」「つつ…つづける…筒…中空…おとこの自嘲的表現」」「人待つ…女を待つ…女の果てを待つ」「白妙…白絶…おとこの果て」。
古今和歌集 巻第五 秋歌下 (275)
大沢の池の形に、菊うへたるをよめる 友則
一本と思いし花をおほさはの 池のそこにも誰か植へけむ、
(大沢の池の模型に菊植えてあるのを詠んだと思われる・歌……多いなる多情おんなの逝の形に、我が貴具植えているのを詠んだらしい・歌) とものり
(一本と思った菊の花を、大沢の池の底にも、誰が植えたのだろう・水澄んで映っている……一本と思ったき具の花を、大いなる多情な、あんなの逝けの底にも、誰が植えたのだろう・このき具も見よとか)。
「大沢…池の名…名は戯れる、大いなる女・大いなる多のをんな」「さは…沢…湿地帯…言の心はおんな…多…多情」」「いけ…池…逝け…ものの果て」。
歌の「心におかしきところ」は、俊成のいう通り「艶にも、あはれ(何とも言えない思い・哀れ・憐れ)にも聞こえる」。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)