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帯とけの拾遺抄
和歌の表現様式は平安時代の人々に聞き、藤原公任の撰んだ優れた歌の集「拾遺抄」を、公任の教示した優れた歌の定義「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」(新撰髄脳)に従って紐解いている。この「心におかしきところ」が蘇えれば、和歌の真髄に触れることができるだろう。
藤原俊成は、歌の言葉について「浮言綺語の戯れには似たれども、ことの深き旨も顕る」(古来風体躰抄)と教えている。歌の主旨や趣旨は歌言葉の多様な戯れの意味の内に顕れると理解してよさそうである。これを、公任のいう「心におかしきところ」を探り当てる助けとした。
拾遺抄 巻第六 別 三十四首
しなののくにへまかりける人によみてつかはしける つらゆき
二百八 つきかげをあかず見るともさらしなの 山のふもとにながゐすな君
信濃の国へ出かける人(使者として行く部下であろうか)に、詠んでやった 貫之
(月影を飽かずに眺めて居たとしても、更級の山の麓に長居するなよ君・早く無事に帰って来いよ……尽き陰のおを、飽かず長めに見ていても、更にはしない山ばの麓で長居するなよ、貴身・おをば捨てさせられるぞ)
言の心と言の戯れ
「つきかげ…月影…尽き陰…つき人をとこの陰り」「を…対象を示す…お…おとこ」「あかず見る…飽きること無く眺めている…飽かず見している」「見…覯…媾…まぐあい」「とも…たとえしたとしても」「さらしなの山…更科山…月の名所…姨捨て伝説の山(幼いころ母を失くして伯母が継母となって育った男が成人して、嫁を娶ったが嫁と姑の仲、例の如く旨く行かず継母が老いて役立たずになったと言って、腹立てた嫁が夫を責め立て、老い屈んで役立たずのおをば捨てていらっしいという、おんぶして、高い山の峰に捨てて、帰って来たが、眠れず、山の上の照る月を見ていたが、をばが・伯母が・おの端が、可哀想で愛しくなって、迎えに行った。そんなわけでその山、をばすてやまと名がついたのだとさ・大和物語)…山の名…名は戯れる、更にしない山、をばを捨てる山、おとこを棄てる山」「ふもと…麓…山ばのふもと」「君…きみ…貴身…おとこ」
歌の清げな姿は、月の名所なので眺めていてもいいが、長居するな。
心におかしきところは、更し無の山ばの麓で長居すな、おをば捨てさせられるぞ、すぐ京へとつて返せ。
「月」「見」「さらしなのくをばすて山」は、この歌でのみ、このように戯れているのではなく、和歌の文脈で同じような意味に戯れていたのである。
一度は、をばを捨てた男の歌を聞く、古今集雑上、題しらず、よみ人しらず、
我が心慰めかねつさらしなや をばすてやまに照る月を見て
(我が心慰められそうもない、更級や、伯母を捨てた・姨捨山に照る素晴らしい月を見ていても……捨ててはみたものの・わが心慰められそうもない、言いふらすなよ、お端捨て山に、照りかがやく月人壮士を見て・やはり立て直そう)
伊勢よりのぼりけるにしのびてものいひ侍りけるをんなのあづまにまかりくだり
けるがあふさかのせきにまかりあひたりければよみてつかはしける 能宣
二百九 ゆくすゑのいのちもしらぬわかれぢは けふあふさかやかぎりなるらむ
伊勢より上って来たときに、忍んで情けを交わしていた女が東国に下ったので、逢坂の関で出遭って詠んでやった、(大中臣能宣・伊勢神宮祭主)
(お互い・行く末の命もわからない別れ路は、今日の逢坂、この世で逢うのは・最後であろうか……逝く、洲と枝・おんなとおとこ、その命も知れぬ別れ路は、京・今日合う山ばや、これが・最後であるなあ)
言の心と言の戯れ
「ゆくすゑ…(別れ行くお互いの)行く末…逝く末路…逝く洲と枝の末路…逝くおんあなとおとこ」「す…洲…言の心は女」「ゑ…枝…肢…言の心は男」「わかれぢ…別れ路…生涯の岐路…山ばの峰の末路」「けふ…今日…京…峰の上…絶頂」「あふさか…逢坂の関…逢う山坂…別れの山坂」「や…疑問の意を表す…感嘆の意を表す」「かぎり…限り…限度・限界…最後」「らむ…推量に言う表す…現代の事実を詠嘆的に述べる」
歌の清げな姿は、懐かしい女と逢坂で偶然出遭って別れる。逢うのは最後かもしれぬ感慨。
心におかしきところは、偲ぶ女と懸命の京での和合の末路、これが最後だろうと思う詠嘆。
『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。歌番もそのまま附した。群書類従に別系統の底本の原文がある、参考とした。