帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの拾遺抄 巻第六 別 (二百二)(二百三)

2015-05-19 00:09:34 | 古典

          


 

                         帯とけの拾遺抄



 和歌の表現様式は平安時代の人々に聞き、藤原公任の撰んだ優れた歌の集「拾遺抄」を、公任の教示した優れた歌の定義「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」(新撰髄脳)に従って紐解いている。この「心におかしきところ」が蘇えれば、和歌の真髄に触れることができるだろう。

藤原俊成は、歌の言葉について「浮言綺語の戯れには似たれども、ことの深き旨も顕る」(古来風体躰抄)と教えている。歌の主旨や趣旨は歌言葉の多様な戯れの意味の内に顕れると理解してよさそうである。これを、公任のいう「心におかしきところ」を探り当てる助けとした。


 

拾遺抄 巻第六 別 三十四首

 

題不知                           読人不知

二百二 わかれてふ事はたれかははじめけむ  くるしき物としらずや有りけむ

題しらず                         (よみ人しらず・男の歌として聞く)

(別れという事は、誰が、始めたのだろう、苦しいものと知らなかったのだろうか……ものの・別れということは、垂れ、なのか、端、絞めただろう、苦しい物と、おんなは・知らないのだろう、あゝ)

 

言の心と言の戯れ

「わかれ…別れ…人と人の別れ…ものの別れ…身の端のものどうしの別れ」「たれ…誰…垂れ…垂らたもの…たれたおとこ」「かは…疑問を表す…(誰)かは…(たれ)が端…だれの身の端」「はじめ…始め…端締め…身の端で端を締める」「くるしき物…(おとこはそれでなくとも垂れた後)すでに苦しいもの…おんなは知らなくて当然の事柄」「やありけむ…あったのだろうか…疑問・過去推量…や・ありけ・む…あるのだろうか…あって当然かあ…あっていいのだがあ」「や…か…疑いの意を表す…かあゝ…感嘆・詠嘆の意を表す」

 

歌の清げな姿は、愛するものとの離別の苦しみ。その源への問いかけ。

心におかしきところは、もの垂れた後は苦しきものを、締めると嘆くありさま。

 

 

(題不知)                        (読人不知)

二百三 わかれてはあはんあはじぞさだめなきこのゆふぐれやかぎりなるらん

(題しらず)                       (よみ人しらず・女の歌として聞く)

(別れてしまえば、逢う逢わないは、定めがない、この夕暮れが、もしや、限りかもしれないでしょう・お互い無事を祈ろうね……和、涸れてしまえば、つぎ・合う合わないは、定めがない、この果てが限度なのでしょうか・暁のつき見ること無く)

 

言の心と言の戯れ

「わかれ…別れ…遠くへ行く別れ…身の端の分かれ…和涸れ…和合の果て」「て…つ…完了した意を表す」「あはむあはじ…遭う遭わない…逢う逢わない…合う合わない…和合するしない」「この…今の…此の…この貴身の」「ゆふぐれ…夕暮れ…ものの果て方」「やかぎりなるらん…限りなのでしょうか…限度なのでしょうか…これっきりなのでしょうか」

 

歌の清げな姿は、一寸先の世は闇、先のことなど誰にもわからない。遠いところへ行く人(たとえば、父と共に地方の国へ行く女友だち)との別れ。

心におかしきところは、身離れれば次は合うかどうかわからないのよ、このこれは、これっきりなのでしょうか・暁のつきを見るぞと言ったじゃないの。

 

 

和歌は、このようなことまで表現していたのである。

「やまと歌は、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける」と古今集仮名序の冒頭に有る。「人の心のたね」とは、「こと(言、人の発する言葉)・わざ(人の業、必ず何らかの報いを受ける行為)」のこと。これは、しげき(繁き・頻繁に繁殖する)ものなので、「心に思うことを、見る物、聞くものに付けて、言ひだせるなり」という。

 人の心根をも、表現する方法と言葉が、和歌にはあったのである。清げな姿にことつけて、言の戯れを利して、言いだすのである。


 

『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。歌番もそのまま附した。群書類従に別系統の底本の原文がある、参考とした。