帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの拾遺抄 巻第五 賀 (百九十二)(百九十三)

2015-05-13 00:17:10 | 古典

          


 

                         帯とけの拾遺抄


 
 現代の学問的解釈では、「賀」の歌に限らず、全ての和歌は「心におかしきところ」のない「清げな姿」が解き明かされ、それ以上の意味も以下の意味もなさそうである。客観的で論理実証的な方法で解明したので正解だと思わせている。ほんとうに満足な解釈を得たと思われているのだろうか。古今集仮名序や真名序に散見する、和歌が「色好み」になったとか、「奢淫」「艶流」「好色」になったとはどのような事か、また古今伝授の秘事となって埋もれ朽ちた、木の名や鳥の名にあったいう秘密の意味など、何だったのかは封印されたままである。藤原公任や藤原俊成の歌論を無視した江戸時代以来の学問的解釈とその手法に疑念をもつべきである。

 和歌はどのように詠まれ聞かれていたかは、平安時代の人々に聞けばいい。藤原公任の撰んだ優れた歌を、公任の教示した優れた歌の定義「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」に従って紐解いている。

「心におかしきところ」が蘇えれば、和歌の真髄に触れることができるだろう。歌の主旨や趣旨は歌言葉の多様な戯れの意味の内に顕れると、藤原俊成が教えてくれている。


 

拾遺抄 巻第五 賀 五十一首

 

鏡てうぜさせ侍りてよみ侍りける                伊勢

百九十二 千年ともなにかいのらんうらにすむ たづのうへをぞみるべかりける

鏡を調達させて詠んだ、 伊勢。(拾遺集では・鏡を鋳造させた裏に鶴の絵を鋳つけさせて、伊勢)

(千とせと、何を祈りましょうか、浦に住む鶴の、身の上を・千年の齢を、貴女も・みるだろうことをよ……千年と、何か、井乗るのでしょう、女の・心の澄む、鶴のよはいの数を、見るといいのにねえ)

       

言の心と言の戯れ

「鏡…彼が見…彼が身…おとこ」。

「千年…鶴の齢…長寿」「なにか…何か…何をか…何が」「いのらん…祈るのだろう…井乗るのだろう」「うら…裏…心…浦…言の心は女」「すむ…棲む(鋳こんである)…澄む」「たづ…鶴…鳥の言の心は女」「うへ…上…女の尊称…身の上…生命…齢」「みる…観る…体験する…めをみる」「見…覯…媾…まぐあう」「べかりける…(観ること・体験すること)出来るに違いないよ…(見る)でしょうよ…(見ると)いいね」

 

歌の清げな姿は、賀(成人となる日か)をする女人への贈物に添えた歌。

心におかしきところは、もののついでに、ご女人の身の端の幸せをも言祝いだ。


 

「鏡」が「彼が見…彼が身…おとこの身・おんなの身」と戯れていると知り、素直にそうと心得た時、かねがね疑問に思っていた、清少納言枕草子の一伝本にある一文の意味にふと気付いて「をかし」くなった。


 かがみは八寸五ぶん
  枕草子(別本十八)

 (鏡は八寸五分……彼が身は八寸五分……わが彼の貴身は八寸五分)


 台付きの鏡なら普通の寸法。背丈なら小さすぎる。貴身ならばいずれにしろ大きい、そこがおかしいところで、大きい、馬や、旨や、うらやましい、浦こぐ小舟が気の毒などなど、反応さまざまにあって、女たちを笑わせるのに十分だろう。これだけでなく、枕草子には、このたぐいの事は多くある。清少納言の宮仕えは「笑奉仕…笑い奉仕…ゑぼし」かと誰かが言った(枕草子の何処かに有ったが今思い出せない)。「いみじう侍る…大変すばらしい侍りざまです…ひどい侍りざまです」これは、紫式部日記にある清少納言批判の一節である。

 

 

題不知                          読人不知

百九十三 きみがよはあまのは衣まれにきて なづともつきぬいはほなるらむ

       題しらず                         (よみ人しらず・女の歌として聞く)

(きみの世は、天の羽衣まれに来て、撫でても尽きない、常磐の・巌石でしょう・未来永劫……貴身の夜は、あ間の端に、儚いおとこが・頃も稀に来て撫でても尽きない、あ間は・大岩石なのでしょうね)

 

言の心と言の戯れ

「きみ…君…貴身…おとこ・おんな」「よ…世…夜」「あまのは衣…天の羽衣…女の端、頃も…吾間の端、頃も」「まれに…稀に…時たまに」「きて…着て…来て」「なづ…撫でる…(衣の袖で岩石を稀に)撫でる…(たまに来て女の身の端)撫でる」「つきぬ…尽きない…(女の思いは)尽きない…(京の絶頂に)逝きつかない」「いはほ…巌…岩ほ…巨大な岩石」「岩・石の言の心は女」「らむ…目には見えない今の状態を推量する…今の情態の原因・理由を推量する…婉曲に表現する・ようよ・らしいね」

 

歌の清げな姿は、婦人の四十か五十歳の賀に女友だちが贈る言祝ぎ。

心におかしきところは、吾間の不満を、天の羽衣の端と巨岩石の説話に託して、言の葉に表したところ。


 

「岩…言の心は女」、「雪…白…おとこ白ゆき」、「なでしこ…草花の名…言の心は女」などと決めつけて来た。その根拠は説明できない、和歌の文脈では通用していたことを示すほか無い。それが言葉の意味などというものだからである。

これらの言葉で詠まれた万葉集(巻第十九・4232)の歌を聞く。天平勝宝三年(751年)正月三日、新年を祝う宴会三日目、国守大伴家持とその仲間たちが、この日は介(次官)の館に集っての宴会である。外は四尺ほどの積雪で、その雪の巌の切立った所に、彫られてあったのは草木で、巧みに彩られてあったという。これに付けて詠んだ歌、掾(三等官)久米朝臣広縄の作る歌、


 なでしこは秋咲くものを君宅の 雪の巌に咲けりけるかも

(なでしこの花は、秋に咲くものなのに、君のお宅の雪の巌に咲いていることよ……愛撫した女は、飽き満ちて花咲くものなのに、君の奥方が・貴身の長くの、おとこ白ゆきの山と積み重なった巌に、咲いたのだなあ)

 

言の心と言の戯れ

「なでしこ…草花の名…撫でしこ…愛撫した女」「草花…言の心は女」「秋…飽き…飽き満ち足り」「君…貴身」「宅・家・屋・奥…言の心は女」「たく…長く…長じて…巧みで」「雪…おとこ白ゆき…おとこの情念」「巌…切り立った岩山…白ゆきつみ重なった山ば」「リ…完了しその状態が存続していることを表す」「けるかも…気付き詠嘆する意を表す」

 

歌の清よげな姿は、雪の巌に草花の彩色された浮かし彫り。

家持の前に、介のおもてなしの趣向を紹介しようとする心、我が歌を披露したいという心、男どもを歌で和ませたいと思う心がある。

歌の心におかしきところは、本日の主人の貴身の健在ぶりの誇張に満ちた言祝ぎ。男どもを笑わせ和ませただろう。


 

これにて、巻第五 賀の歌は終わり。


 

拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。歌番もそのまま附した。群書類従に別系統の底本の原文がある、参考とした。