帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの拾遺抄 巻第六 別 (百九十四)(百九十五)

2015-05-14 00:15:27 | 古典

          


 

                         帯とけの拾遺抄


 

 和歌はどのように詠まれていたかを、平安時代の人々に聞く。藤原公任の撰んだ優れた歌の集「拾遺抄」を、公任の教示した優れた歌の定義「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」(新撰髄脳)に従って紐解く。「心におかしきところ」が蘇えれば、和歌の真髄に触れることができるだろう。

藤原俊成は、歌の言葉について「浮言綺語の戯れには似たれども、ことの深き旨も顕れる」(古来風体躰抄)と教えている。歌の主旨や趣旨は歌言葉の多様な戯れの意味の内に顕れると理解してよさそうである。これを、公任のいう「心におかしきところ」を探り当てる助けとした。


 

拾遺抄 巻第六 別 三十四首

 

春ものへまかりける人あかつきに出で立ちはべりける所にてとまり侍りける

人のよみ侍りける                      読人不知

百九十四 はるがすみ立つあか月をみるからに 心ぞそらになりぬべらなる

春、男ばかりで狩りにとか・もの詣とか言って出かける夫、暁に出で立つた所で、留まる妻が詠んだ (よみ人しらず・女の歌として聞く)

(春霞立つ暁の月を見ているので、わたしの・心もよ、空しくまっ白になってしまいそう……春が澄み・張るが済み、絶つ赤突きを・尽きを見ているので、わが心・ここらもよ、白く空しくなってしまったようよ)

 

言の心と言の戯れ

「はるがすみ…春霞…目の前が白くかすむ…春の情が澄む…張る物が済みしぼむ」「立つ…(霞など)発生する…出で立つ…断つ…絶つ」「あか月…暁…暁の月…赤月のつき…元気色のつき人壮士の尽き」「を…対象を示す…お…おとこ」「みる…見る…めに遭う…体験する」「見…覯」「からに…ので…そのために」「心ぞ…こころがよ…ここらもよ」「そらに…空しく…(霞の空のように)真っ白に」「なりぬ…なってしまう…なってしまった」「ぬ…完了を表す」「べらなる…べらなり…のようすだ…なりそうだ」

 

歌の清げな姿は、もの詣だろう、早朝に出で立つ夫、しばしの別れを惜しむ妻の心情。

心におかしきところは、春も張るも済んで出でてゆくおを見おくる女の心根を言の葉にしたところ。

 

 

題不知                           読人不知

百九十五 さくら花つゆにぬれたるかほ見れば  なきてわかれし人ぞこひしき

題しらず                         (よみ人しらず・女の歌として聞く)

(桜花、露に濡れた顔見れば、泣いて別れたあの人が、恋しい……おとこ花、白つゆに濡れた彼お見れば、泣いて別れた、人ぞ・彼おがよ、乞いしい)

 

言の心と言の戯れ

「さくら花…桜花…木の花…男花…おとこ花」「つゆ…露…白つゆ」「かほ…顔…表面…彼お…あのときのおとこ」「見れば…体験すれば…めに遭っては」「見…覯」「こひしき…恋しき…乞いしき…求めたい」

 

歌の清げな姿は、愛するものとの別離のくるしさ。

心におかしきところは、直お、猶もこいしい女の心根を、浅つゆに濡れた桜花につけて、表したところ。


 

これらの歌の深い心は、どこにあるのだろうか。何であるにしても、女のこの心情は、「愛別離苦」であり、「求不得苦」である。言いかえれば煩悩である。こうして歌に詠まれると、「煩悩即ち菩提なり」と藤原俊成は教えている。菩提は「悟りの境地・悟りの智恵」。


 

『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。歌番もそのまま附した。群書類従に別系統の底本の原文がある、参考とした。