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帯とけの拾遺抄
藤原公任『新撰髄脳』の優れた歌の定義「心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」に従って『拾遺抄』の歌を紐解いている。
「心におかしきところ」が蘇えれば、和歌の真髄に触れることができるに違いない。それは、歌言葉の多様な戯れの意味の内に顕れる。
拾遺抄 巻第五 賀 五十一首
右大将保忠がめの賀し侍りけるに 源公忠朝臣
百八十 よろづよもなほこそあかねきみがため おもふ心のかぎりなければ
右大将保忠の妻の賀をしたときに (源公忠朝臣・醍醐、朱雀の両帝の蔵人・優れた歌人)
(万世も、それでもやはり、飽き満ち足りない、夫君の為を思う心が限りないので……万夜も、汝ほこそ・直こそ、飽きない、貴身の所為で、思う情が限りないので)
言の心と言の戯れ
「よろづよ…万世…万夜」「なほ…猶…それでもやはり…汝ほ…君の貴身…直…直立」「あかね…飽きず…飽き満ち足りない」「きみがため…夫君の為…直な貴身の所為で」「おもふ心…思う心…夫婦愛…貴身を思う情」
歌は限りない夫婦愛を思わせる清げな姿がある。
心におかしきところは、万夜も飽きないのは貴君の貴身の所為というところ。
夫婦の長寿を願う心が、微笑みと共に伝わる。ただこのまま、勅撰集に載せられないだろう。この妻は子などあまたいらっしゃる多情な人と聞こえるかもしれない。「拾遺集」では詞書が違う。「権中納言敦忠母の賀し侍りけるに」、これで、同じ歌が、限りない母子愛と長寿を言祝ぐ別の歌となる。
五条尚侍の賀を清貫がし侍りける屏風に 伊勢
百八十一 おほぞらにむれたるたづのさしながら おもふ心のありげなるかな
五条尚侍(女官長・藤原満子)の賀を民部卿藤原清貫がしたときの屏風に、(伊勢・優れた女歌人)
(大空に群れている鶴が、千年の寿命を・目指しながら、貴女もと・思う心がありそうだことよ……おおそらに、むれあふれたるおんなの、然しながら、なおも・思う情のありげだことよ)
言の心と言の戯れ
「おほぞら…大空…天空…雲の上…大いなる女」「空…天…あま・あめ…言の心は女」「むれたる…群れたる…群れ足る…いっぱいになっている…満ち足りている」「たづ…鶴…千年の寿命の鳥…鳥の言の心は女…松と同じ」「さしながら…(千年の齢を)目ざしながら…然しながら…そうしながら」「おもふ心…(長寿を)思う心…(おを)おもう情」「かな…感動の意を表す…詠嘆の意を表す」
歌の清げな姿は、大空に長寿の鶴が群れて舞うさま。
心におかしきところは、有頂天に上り詰めた女ながらなおも思う情ありげなところ。
此の歌は、もしも「たづ(鶴)…女」の戯れの意味が無ければ、「心におかしきところ」は消える。言葉の意味に論理的根拠など無いので、ただそのような意味が、万葉集、古今集を通じて、有ったと示すしかない。
古今集仮名序で歌のひじり柿本人麻呂と並び称される、山部赤人の「たづ」を詠んだ歌でも、女と心得て、歌がどのように聞こえるか、聞いてみる。
万葉集 巻第六 紀の国で詠んだ歌。
わかの浦にしほ満ちくればかたをなみ 葦へをさしてたづ鳴き渡る
(和歌の浦に潮満ち来れば、干潟が無くなるので、葦辺をめざして鶴鳴き渡る……若の裏に肢お満ちくれば、片男波、脚辺をさして、女泣きつづく)
「心におかしきところ」は、歌言葉の戯れの内に顕われている。それは人の煩悩であるという、藤原俊成の歌論も蘇える。
『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。歌番もそのまま附した。群書類従に別系統の底本の原文がある、参考とした。