帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの枕草子〔二百二十四〕清水にこもりたりしに

2011-11-09 00:06:31 | 古典

  

                                              帯とけの枕草子
〔二百二十四〕清水にこもりたりしに



 言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」のみ。「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。



 清少納言枕草子〔二百二十四〕清水にこもりたりしに

 
 清水(清水寺)に籠もっていたときに、わざわざ御使をよこされて賜わされた。唐の紙の赤味のあるのに、草書にて、

山ちかき入あひのかねのこゑごとに  こふるこゝろの数はしるらん  ものを、こよなのながゐや

(山近き寺の夕暮れの鐘の音毎に、そなたを・恋う心の数は知っているでしょうに、これ以上ない長居ですね……山ば近き入り合いの高鳴る声ごとに、乞う女心の数の多さは知っているのでしょうねえ、それで・このうえもない長居なのかな)。

と、お書きになっておられる。紙などの格別なものは取り忘れた旅なので、むらさきなるはちすのはなびら(紫の蓮の花びら)に、お返事を書いて参らせる。


 言の戯れと言の心

 「清水…清水寺…清い水…清いをみな」「水…女」「やま…山…やまば」「入あひ…入り相…夕暮れ時…夕焼けどき…赤く染まるとき…紙の赤色…入り合い」「合…和合」「かね…山寺の鐘…山ばでの胸の高鳴り」「こふるこころの数…女がこいねがう愛情の数…十や百などもののかずではない数…多情の数」「こふ…恋う…乞う」「数…多数」「紫の蓮の花びら…高貴で清く澄んだ花びら…濁りに染まらぬ清く澄んだもの」。

 
 返事の文字は書いていないけれど、「泥沼の濁る我が心が、紫の蓮の花になるための長居でございます」、これは清げな返事。「多情に濁る我が心を、清めるための長居でございます」、これは心におかしきところへの返事。

 すぐれた言葉には「清げな姿」と「心におかしきところ」がある。深き心は、「いまだ情報収集ならず、長居をしております」とお答えすべきことかも。参詣に来る人のありさまを観察し、読み上げられる人の願文を聞いていれば、その人の情況がわかる。

 紫の蓮の花のようなお方の、すぐれた御言葉を思い出し記している。


 
伝授 清原のおうな
 聞書 かき人知らず (2015・10月、改定しました)
 
 原文は、岩波書店 新 日本古典文学大系 枕草子による。