礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

大東亜戦争の完遂を見ずして薨去せられた

2023-01-31 04:45:40 | コラムと名言

◎大東亜戦争の完遂を見ずして薨去せられた

 昨日のコラムの最後に、「対米英開戦を聞いた最晩年の金子が、『聖戦完遂のためには米英を撃つて、八紘一宇の大御心を以て四海を光被すべきだ』と述懐した、と書いている文献もある」と書いた。
 その「文献」というのは、藤井新一の大著『帝国憲法と金子伯』(大日本雄弁会講談社、一九四二)である。金子堅太郎が亡くなったのは、一九四二年(昭和一七)五月一六日だが、『帝国憲法と金子伯』は、同年の六月一二日に刊行されている。
 同書の末尾で藤井新一は、金子堅太郎の死について次のように記している。

 かくて昭和九年〔一九三四〕三月の尿毒症、一昨年〔一九四〇〕春の持病の湿疹と腎臓炎と気管支炎と肺炎、去る〔一九四二年〕三月の腎盂膀胱炎と肺炎、この三度の重患を克服して戦捷に歓喜していた伯は、五月二日腎盂膀胱加多児〈カタル〉のため、突如発熱し、名医が秘術の限りをつくしたが奇蹟は重ねて恵まれず、遂に大東亜戦争の完遂を見ずして、十六日薨去〈コウキョ〉せられた。〈七〇七ページ〉

 そして藤井は、この文章の前に、次のような「追記」を挟んでいる。最後の一段落分のみ紹介する。
 
 しかも伯には、年少にして『弘道館記』で養はれて以来の、愛国忠誠の熱血が漲つて〈ミナギッテ〉ゐる。現大統領ルーズヴェルト〔Franklin Delano Roosevelt〕が、日露戦争当時のルーズヴェルト〔Theodore Roosevelt〕に見る如き正義観に乏しく、また、日露戦後に於ける帝国の隆運、特に第一次世界大戦後における帝国の躍進振りに驚異して、嫉妬にさへ燃えはじめた米国当局が、近時、事毎に〈コトゴトニ〉帝国の頭を抑へよう抑へようとするを苦々しく思つてゐた伯としては、米国の這般〈シャハン〉の暴逆振りには夙に〈ツトニ〉愛想をつかしてゐた。旧臘〔一九四一年一二月〕、湯河原温泉に三週間の療養を終へて、葉山の恩賜松荘〈オンシマツソウ〉に静養しつゝあつた金子伯は、現大統領の不肖に憐愍〈レンビン〉を催しつゝも、聖戦完遂のためには米英を撃つて、八紘一宇の大御心を以て四海を光被すべきだと、染々〈シミジミ〉述懐してゐた。  (昭和十七年二月十七日正午追記)

 おそらく藤井新一は、一九四二年(昭和一七)二月、葉山の別邸で静養する金子を訪ね、対米英開戦に関する「述懐」を聞いて記録し、そのあとこれを、『帝国憲法と金子伯』の「追記」としたのであろう。この「述懐」が、最晩年における金子の「聖戦」観を示しているものと言ってよい。
 金子堅太郎についての話は、このあとも続ける予定だが、明日は、いったん話題を変える。

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ウィキペディア「金子堅太郎」の項の問題点

2023-01-30 01:14:34 | コラムと名言

◎ウィキペディア「金子堅太郎」の項の問題点

 今年になって、ウィキペディア「金子堅太郎」の項を閲覧して驚いた。親交のあった軍人・加藤寛治(ひろはる)の名前が出てこない。ロンドン条約、国体明徴問題、天皇機関説という言葉も出てこない。
 参考文献に、藤井新一の大著『帝国憲法と金子伯』(大日本雄弁会講談社、一九四二)が入っていない。伊東隆ほか編『続・現代史資料 5』〔海軍 加藤寛治日記〕(みすず書房、一九九四)が入っていない。飯田直輝「金子堅太郎と国体明徴問題」(『書陵部紀要』第60号、二〇〇九年三月)も入っていない。礫川全次『日本保守思想のアポリア』(批評社、二〇一三)が入っていないのは仕方ないとしても、清水伸『維新と革新』(千歳書房、一九四二)が入っていないのは、なぜなのか。
「金子堅太郎」の項を執筆しているのが、どういう方かは知らない。しかし、同項においては、金子堅太郎という官僚・政治家における「負」の側面が、巧妙に隠蔽されている。
 特に問題だと思ったのは、次の記述であった。

生涯にわたり、日米友好のために尽力しており、上述のジュネーヴ国際会議出席後はアメリカを経て帰国しており、帰国後、渡米中に調査したことをまとめて「トラストの利害」「米国経済と日本興業銀行」等を発表。日本において憲法制定の功により男爵となった後、ハーバード大学から憲法制定等の功績により名誉法学博士号(L.L.D)を受けている。米友協会会長、日米協会会長を歴任した後、賀川豊彦・松田竹千代・三木武夫らとともに「日米同志会」を立ち上げて会長となる。晩年には日米開戦を憂慮していた。

「晩年には日米開戦を憂慮していた」というのは、本当なのだろうか。
 金子堅太郎が、米友協会会長、日米協会会長を歴任したというのは事実である。しかし、その金子が、加藤寛治海軍大将と連携協力しながら、昭和前期の日本における政情、あるいは世論を、反米反英の方向に誘導していった歴史的事実は、否定できない。また、対米英開戦を聞いた最晩年の金子が、「聖戦完遂のためには米英を撃つて、八紘一宇の大御心を以て四海を光被すべきだ」と述懐した、としている文献もある。【この話、続く】

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1926年6月、加藤寛治海軍中将、金子堅太郎と会談

2023-01-29 06:22:24 | コラムと名言

◎1926年6月、加藤寛治海軍中将、金子堅太郎と会談

 インターネットで、金子堅太郎と加藤寛治について調べていたところ、「ふるさと横須賀 夏島憲法②」という記事を見つけた。以下のようにあった。

 憲法の草案ができると、夏島別荘は他に移転した。その後、夏島には、東京湾防備のために砲台が設けられた。大正三年(1914)に、所管が陸軍から海軍に移り、五年、追浜〈オッパマ〉海軍航空隊が開設された。七年から十五年までの埋め立ての結果、夏島は、かなり削られ、追浜と陸続きになった。十五年〔1926〕六月、横須賀鎮守府司令長官の加藤寛治(ひろはる)海軍大将〔ママ〕は、金子堅太郎と会談、話題が憲法起草の思い出に及び、一緒に夏島を視察している。これがきっかけとなり、同年九月十五日、「明治憲法起草地記念碑」が建立され、発起人に、かつての金子の同僚、伊東巳代治〈ミヨジ〉や海軍大臣の財部彪(たからべ・たけし)らも加わった。高松宮〔宣仁親王〕さまも、ご出席して除幕式が行われた。碑は御影(みかげ)石。外面は七十六個の石からなるが、これは憲法七十六カ条を表している。 基礎の石は二十二尺二寸一分一厘(一尺は約三十㌢)四方。これも憲法発布の「明治二十二年二月十一日」を意味している。さらに、夏島別荘の二十分の一の平面図や伊東の碑文が、銅板に刻まれていた。碑が低いのは、飛行機の発着のじゃまにならない配慮からである。戦後、碑の二つの銅版は何者かに持ち去られたが、航空隊跡にできた富士自動車KKの好意で、昭和二十六年(1951)二月十一日、復元した碑の除幕式が行われた。碑文は、当時の国会図書館長、金森徳次郎氏の筆による「明治憲法草案起草の跡」。ところが、二十八年八月に失われた鋼板二枚のうち伊東巳代治の碑文が、浦郷町〈ウラゴウチョウ〉の古物商で売られていたのを、田浦署榎戸(えのきど)派出所の森山巡査が千二百円で買い取り、元の位置に納め、同年十月九日再び復元披露が行われた、という。

 この記事で私が注目したのは、「十五年六月、横須賀鎮守府司令長官の加藤寛治海軍大将は、金子堅太郎と会談」という部分である。すなわち、金子堅太郎は、すでに一九二六年(大正一五)六月に、加藤寛治と会談している。しかも、この会談がキッカケとなって、同年九月に「明治憲法起草地記念碑」が建立されたというのであるから、金子・加藤の両人は「意気投合」した、と推察される。なお、横須賀鎮守府司令長官時代の加藤寛治は海軍中将であり、海軍大将となったのは、一九二七年(昭和二)四月である。
 なお、両人が、このときが初対面であったかどうかはわからない。それ以前から、交流があった可能性も否定できない。
 昨日のコラムで、飯田直輝氏の論文に、「金子と加藤は、昭和五年のロンドン海軍軍縮問題で加藤が統帥権をめぐる法解釈を金子に依拠して以来親交があった。」という一文があることを紹介した。いずれにしても、そこにある「以来」の二文字は、訂正される必要がある。
 ちなみに、インターネット情報によると、加藤寛治中将が横須賀鎮守府司令長官を務めていたのは、一九二四年(大正一三)一二月から一九二六年(大正一五)一二月までで、その後任は、岡田啓介大将であった。

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統帥権をめぐる法解釈を金子に依拠して以来

2023-01-28 19:13:18 | コラムと名言

◎統帥権をめぐる法解釈を金子に依拠して以来

 今月一二日のコラム「金子堅太郎と加藤寛治」で、飯田直輝氏の論文「金子堅太郎と国体明徴問題」(『書陵部紀要』第60号、二〇〇九年三月)の一部を引用した。引用した箇所の最初のセンテンスを、再度、引用してみる。

〔一九三五年〕三月十七日、軍事参議官海軍大将加藤寛治が金子〔堅太郎〕の子息武麿〈タケマロ〉を招き、「江藤源九郎問題」を相談した結果、同日金子は加藤に電話し、「美濃部は大問題、荒木【貞夫】、徳富【蘇峰】より尋ねられしも断れり、加藤君なれば語る」と述べた。

 原文には、このセンテンスの最後に、(19)という註番号があり、論文の末尾には、次のような「註」がある。

(19) 「加藤寛治日記」昭和十年三月十七日条(『続・現代史資料』五・海軍、二九三頁)。金子と加藤は、昭和五年のロンドン海軍軍縮問題で加藤が統帥権をめぐる法解釈を金子に依拠して以来親交があった。

 この間のブログで見たように、金子堅太郎は、一九二九年(昭和四)一二月、加藤寛治を自邸に招いている。このころから、両人の「親交」が始まったという見方は穏当なところだが、「それ以前」から、両人の親交が始まっていた可能性も否定できない。上記の註の、「加藤が統帥権をめぐる法解釈を金子に依拠して以来」の「以来」の二字は、再考の余地があるのではないか。【この話、続く】

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我が海軍の持論を貫徹せしむる好機会(金子堅太郎)

2023-01-26 00:10:33 | コラムと名言

◎我が海軍の持論を貫徹せしむる好機会(金子堅太郎)

 本日も、『続・現代史資料 5』〔海軍 加藤寛治日記〕(みすず書房、一九九四)の「Ⅲ 書翰」から、金子堅太郎が加藤寛治に宛てた書翰を読んでみたい。
 本日は、一九二九年(昭和四)一二月一三日付の「極秘」書翰を読んでみる。

  7 金子堅太郎書翰    [昭和4年12月13日]

極秘 昨日は態と〈ワザト〉御来訪殊ニ有益なる御高説を拝聴し、倫敦〈ロンドン〉会議ニ対し前途之曙光を発見するの感を懐き、又帰荘後御恵与之秘書を熟読し益々人意を強からしめ、憂国之念大ニ軽減致候。唯此上は内閣之決心如何ニ有之候。御承知之如く華府〔ワシントン〕会議ニ於ける原〔敬〕内閣之腰弱〈コシヨワ〉ニて終ニ帝国之外交を誤まり、米政府をして成功を謳歌せしめ、其余勢に附け込み彼〈カノ〉差別待遇之移民法を通過せしめて帝国之名誉を傷け、次て〈ツイデ〉満洲問題ニ不法之容喙〈ヨウカイ〉をなし候義〈ギ〉実ニ奮慨之至〈イタリ〉ニ候。就而ハ今回の倫敦会議ニは前回ノ覆轍を踏ます、断乎我〈ワガ〉主張を貫徹為致度〈イタサセタク〉候。若し彼米国ニ於て承認せされハ会議を不成功に終らしむるも我罪にあらす、全く米国之我侭〈ワガママ〉ニ有之候。
只今外字新聞を見るに封入之記事有之候。米国政府も我海軍之七割論之案外強剛なるに驚き俄然臨時大使を任命派遣せしむるものと被存〈ゾンゼザレ〉候。是れ米国政府之慣用手段ニ有之候。我権力地内に飛ひ込み来るは宛も〈アタカモ〉夏の虫之愚に似たり。可喜〈ヨロコブベシ〉、呵々。此上は東京に於て我等一致団結して彼の請求を説破し、我海軍之持論を貫徹せしむる好機会到来と存候。只懸念なるは内閣の態度ニ有之候。彼等は常ニ最後に於て腰を抜かして敗を取り、以て帝国之威信を失墜せしめ候間、今回は断々乎として帝国本来之軍略を尻徹する事尤も緊要ニ有之候。之を実現するは全く海軍軍人之一致団結ニ有之候間、何卒為邦家〈ホウカノタメ〉十分御尽力熱望する所ニ御坐候。草々頓首  堅太郎
 昭和四年十二月十三日
 加藤軍令部長殿閣下
 [別紙、新聞切抜] 【略】
  (註)封筒表、東京市四谷区三光町十七、海軍大将加藤寛治殿、書留、秘密親展、スタンプ4-12-13、4-12-14。封筒裏、神奈川県三浦郡葉山村、子爵金子堅太郎。

 文中に「昨日態と御来訪」とある(「態と」は、「わざわざ」の意)。一九二九年(昭和四)一二月一二日に、加藤が金子の自邸(麹町区一番町)を訪ねたもよう。「帰荘後」とあるのは、葉山の自邸(別荘)に帰ったあと、の意味であろう。
 明日は、都合により、ブログをお休みします。

*このブログの人気記事 2023・1・26(9・10位に極めて珍しいものが入っています)

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