◎金子堅太郎と加藤寛治
昨日のコラムに、さらに補足をおこなう。
十年ほど前、私は、『日本保守思想のアポリア』(批評社、二〇一三)という本を出した。
この本を執筆中、金子堅太郎(一八五三~一九四二)という政治家について、いろいろ調べてみたが、金子が加藤寛治という軍人と深く交流していたことを知って意外に思った。
加藤寛治(かとう・ひろはる、一八七〇~一九三九)については、まだ詳しく調べていない。しかし、大正期、昭和前期の政局に積極的に関与し、日本の命運を左右した軍人のひとりであることは間違いない。
前掲書を執筆中に読んだ文献のひとつに、飯田直輝氏の「金子堅太郎と国体明徴問題」(『書陵部紀要』第60号、二〇〇九年三月)という論文がある。その中で、飯田氏は、「天皇機関説問題」をめぐって、加藤寛治が金子堅太郎と面談し、「機関説問題の解決方法を相談した」ことを指摘している。これは、重要な指摘だと思うので、当該部分を引用させていただこう。
〔一九三五年〕三月十七日、軍事参議官海軍大将加藤寛治が金子〔堅太郎〕の子息武麿〈タケマロ〉を招き、「江藤源九郎問題」を相談した結果、同日金子は加藤に電話し、「美濃部は大問題、荒木【貞夫】、徳富【蘇峰】より尋ねられしも断れり、加藤君なれば語る」と述べた。翌日加藤が金子を訪問し、機関説問題の解決方法を相談した。金子は「憲法制定の沿革、法律学者の誤謬」を説明した上、「解決方法は枢府〔枢密院〕官制第六条に依り御諮詢あるへき事を説示」した(「日記」)。金子は四月一日付加藤宛書翰で述べているように、この問題は「司法、内務両省に於て瀰縫策〈ビホウサク〉にて解決するものとは不存〈ゾンゼズ〉候」として枢密院官制第六条第二項に基づく諮詢によつて「将来の禍根を一掃するの必要」を説いたのだつた。四月一日、金子は子息武麿を通じて「意見書」を首相岡田啓介・文相松田源治に手交、加藤寛治に郵送している。翌日松田から「天皇機関説跡始末」について意見の返答があり、再度金子より書翰が送られたというが同書翰は確認できない。また七日には 同様の「意見書」を陸相林銑十郎・海相大角岑生〈オオスミ・ミネオ〉・教育総監真崎甚三郎〈マサキ・ジンザブロウ〉にも送付した(以上、「日記」)。九日、内務省は美濃部〔達吉〕の三著書を発売禁止処分に付し、文部省は各学校に国体明徴の訓令を発した。十日には松田文相が地方長官・大学総長に訓令を与えた。五月二日には松田文相が訓令後の報告に訪れ、「教員等も続々反省改心する情況」を伝えた(「日記」)。
五月以降、陸軍軍人から憲法問題に関する問い合わせが入るようになる。二日、陸軍大佐鈴木某【貞一カ】が、十八日には予備役陸軍中佐山田耕三が来訪して陸軍次官橋本虎之助ら陸軍将校が「特に天皇機関説に付〈ツキ〉余の意見を聴かんことを請求す」る旨を伝えた。これに対し金子は「陸軍大臣及岡田首相よりの請求ならは承諾せんと返答」した。さらに六月八日には参謀次長杉山元〈ゲン〉が訪れ「軍人統一の点」より金子の意見を陸海軍要部に説明することを希望した。金子はここでも陸海相・参謀本部・首相が希望するなら応諾するとし、杉山は再協議の上、さらに訪問すると述べた(「日記」)。ここからは金子が、機関説に対する自身のこれ以降の行動につき内閣・軍部などの公的な依頼に基づくものであるという正当性を確保するための布石を打っている様子が窺える。この訪問の結果、十一日に橋本次官は「[内閣]書記官長【白根竹介】と天皇機関説に付て語り金子伯起用を説」いているが、元老西園寺公望らは金子の関与を嫌っていたようだ。五月二十五日、「金子伯から総理の所に憲法制定の由来を書いたものを送つて来て、その中に機関説に対して憤慨してゐる動きがあつた」という噂を聞いた原田熊雄が西園寺を訪れ、同邸より白根書記官長に電話で確認したところ、「意見書」が首相・文相・陸相に送られたといい、原田は「それをあんまり大きく政府が扱はないやうに」注意を与えている。そもそも金子が機関説問題を枢密院官制により憲法の疑義として桎密院に諮詢すべきことを希望していたことはさきに述べたが、金子自身も記しているように枢密院での機関説問題の追及は美濃部の師でもある枢密院議長一木喜徳郎〈イチキ・キトクロウ〉らの責任問題に発展する恐れがあった。
憲法学者・美濃部達吉の「天皇機関説」が政治問題に発展したキッカケは、一九三五年(昭和一〇)二月一八日に、貴族院議員・菊池武夫が、貴族院本会議において、美濃部達吉の「天皇機関説」を批判したことだった。貴族院議員でもあった美濃部達吉は、これを受けて、同月二五日、貴族院本会議で「一身上の弁明」をおこなった。しかし、問題はこれでおさまらなかった。同月二七日、衆議院議員・江藤源九郎が、衆議院予算総会で、美濃部の著作が不敬罪に当たると告発した。引用した文章の初めのほうに、「江藤源九郎問題」とあるのは、この問題を指している。
加藤寛治は、「天皇機関説」が、深刻な政治問題になってきた情況を踏まえ、憲法起草者のひとりである金子堅太郎を、この政治問題に引き込もうとしたのであろう。この話は、さらに続けるつもりだが、明日はいったん、話題を変える。