◎座談会「憲法は二週間で出来たか?」(1952)を読む
連休前に書棚を整理していたところ、『改造』の第33巻第6号(1952年4月増刊号)が出てきた。興味深い記事が満載されているが、本日からしばらく、「憲法は二週間で出来たか?」と題された座談会記録を紹介してみたい。
《座 談 会》 憲法は二週間で出来たか?
芦田 均(当時憲法発布調査会長)
岩淵辰雄(当時憲法研究会員)
鈴木安蔵(当時憲法研究会員)
三宅清秀(当時憲法研究会員)
《司会》阿部真之助(政治評論家)
近衛・マ元帥会見
阿部 新憲法の起源についていろいろと云われていて、アメリカ側から出したものだといわれているんだけれども、また日本側の方でも、向うの要請以前から、新しい憲法を拵え〈コシラエ〉なければならんという機運があつたというんだが、まずそのことについて口火を切つてもらつたらどうだろう。岩淵君、君はその元祖だといつているんだけれど。
岩淵 そうだな。戟争がすんだ時に、僕は三つのことをやろうと思つた。早急に日本建 直しの基本的な問題としてだね。
一つは憲法を改正すること。そのポイントは大権事項を削る。日本で天皇が大権を行使した歴史というものはない。むしろその大権というものは、側近の茶坊主的な重臣や軍人によつて私〈ワタクシ〉された。その結果がこういう戦争になつた。そうして日本を亡ぼしたんだな。天皇というものを、政治の実際から切り離すことが必要だ。これが僕の憲法を改正しようというポイントだつた。それから戦争裁判は日本人の手でやろう。戦争責任というものを、国際裁判というものが、後にできたけれども、それを日本人の手でやつてみる。そうでないと、ほんとに戦争の責任を明かにすることはできんと思つた。もう一つは長い間、日本の官僚機構の中に、行政機構の中に入りこんでいるこの官僚の勢力を全部こわすには、民主主義といつたつて、とてもできやしない。
この三つをやろうと思つたんだ。これが宮様内閣〔東久邇宮内閣〕の重光〔葵〕に代つて、吉田〔茂〕を外務大臣にしたもとなんだ。その時に憲法改正には、誰も賛成者はなかつたよ。たゞ一人近衛〔文麿〕が賛成した。近衛は戦争中から、皇室を維持することができるなら、どんな条件でも受人れたい。そうして戦争を一日も早く片付けたいというのが近衛の意見なんだな。そうして近衛のたつた一つの条件というのは、皇室を維持するということだけだ。僕が近衛を説いたのは、皇室を維持するには、天皇というものは、実際には戦争にたいして直接の責任はない。実際はあるんだけれども、しかしこの戦争を始めたものは天皇でなく、東条〔英機〕やなんか一部の軍人と官僚なんだ。この事実を明かにすることが必要だ。そこで近衛は賛成した。ところがその当時枢密院、内大臣というものがあつて、これは非常に反対なんだ。憲法改正なんていつたら、戦争が負けた後になつても、非常に不忠の臣のようなことを考えているわけだ。そして近衛に上奏させようというのだが、木戸〔木戸幸一内大臣〕がどうしても拝謁させないんだ。その時、これは別の意味で近衛に薦めたんだけれども、これは僕と小畑敏四郎〈オバタ・トシロウ〉と二人で薦めたんだけれども、近衛にマッカーサーに会え、というのは、マッカーサーが占領軍の司令官として日本に乗込んで来たけれども、日本の事情を知らずに占領政策をやると、非常な食い違いが出て来る危険がある。その結果は日本のためにも、またアメリカのためにもならん。アメリカとしても、向うは向うの方針をもつて来るだろうが、一応日本の事情というものを、日本側からマッカーサーに説明する必要がある。そういうことで、近衛にそれは近衛が一番最適だから、近衛にマッカーサーに会つて、戦争中からの日本の国内事情を説明しろ。そういうことで会見を申し込ませた。そうして何時〈イツ〉だつたか日は忘れたが、マッカーサーは会うと言つたんだ。その時通訳を二人くらい連れて行けといつて薦めた。近衛の側には牛場〔友彦〕君などという英語の達者なものがいるし、それで連れて行くつもりだつた。そして司令部へ問い合せたところ、こつちに通訳があるから、連れて来なくてもいゝということで、玄関までは牛場君を連れて行つて、マッカーサーには一人で会つた。そうしたら向うの通訳というのは二世で、英語は達者なんだけれど、日本語はわからない。それで話にはならなかつた。たゞその時マッカーサーが、日本の民主化のために努力することが、日本のためでもあり、プリンス近衛のためでもあるということをいつたんだ。その時の会見録は、今でも近衛家にあるだろうと思うんだけれども、そこで近衛は帰つて来て、民主化のためだといつたんだがどういうことだろうと言つた。通訳が不十分だつたからだな。その時分に近衛をめぐつての新党運動というものがあつた。金光庸夫〈カネミツ・ツネオ〉、前田米蔵〈ヨネゾウ〉などがやつていて、近衛はそれで、マッカーサーのいう民主化というものは、僕に新党をやれということだろうかというんだ、僕は近衛の新党には反対だつた。むしろ国家の基本法、憲法を改正することが先決問題だ。新党の総裁になつて、近衛が政界に乗出すことは、むしろ末節的な仕事だ――こういつていた。それじやあもう一度マッカーサーに会つて、日本の民主化、マッカーサーのいう民主化は何をいうのか聞いたらよかろう。それで近衛がまたマッカーサーに会見を申込んだ。それで中二日か三日おいて、マッカーサーに会つたら、今度はマッカーサーは出て来ずに、アチソンが出て来たんだな。それでこの間マッカーサーが、民主化のためだといつたが、一体どういうことか。〈13~14ページ〉【以下、次回】
連休前に書棚を整理していたところ、『改造』の第33巻第6号(1952年4月増刊号)が出てきた。興味深い記事が満載されているが、本日からしばらく、「憲法は二週間で出来たか?」と題された座談会記録を紹介してみたい。
《座 談 会》 憲法は二週間で出来たか?
芦田 均(当時憲法発布調査会長)
岩淵辰雄(当時憲法研究会員)
鈴木安蔵(当時憲法研究会員)
三宅清秀(当時憲法研究会員)
《司会》阿部真之助(政治評論家)
近衛・マ元帥会見
阿部 新憲法の起源についていろいろと云われていて、アメリカ側から出したものだといわれているんだけれども、また日本側の方でも、向うの要請以前から、新しい憲法を拵え〈コシラエ〉なければならんという機運があつたというんだが、まずそのことについて口火を切つてもらつたらどうだろう。岩淵君、君はその元祖だといつているんだけれど。
岩淵 そうだな。戟争がすんだ時に、僕は三つのことをやろうと思つた。早急に日本建 直しの基本的な問題としてだね。
一つは憲法を改正すること。そのポイントは大権事項を削る。日本で天皇が大権を行使した歴史というものはない。むしろその大権というものは、側近の茶坊主的な重臣や軍人によつて私〈ワタクシ〉された。その結果がこういう戦争になつた。そうして日本を亡ぼしたんだな。天皇というものを、政治の実際から切り離すことが必要だ。これが僕の憲法を改正しようというポイントだつた。それから戦争裁判は日本人の手でやろう。戦争責任というものを、国際裁判というものが、後にできたけれども、それを日本人の手でやつてみる。そうでないと、ほんとに戦争の責任を明かにすることはできんと思つた。もう一つは長い間、日本の官僚機構の中に、行政機構の中に入りこんでいるこの官僚の勢力を全部こわすには、民主主義といつたつて、とてもできやしない。
この三つをやろうと思つたんだ。これが宮様内閣〔東久邇宮内閣〕の重光〔葵〕に代つて、吉田〔茂〕を外務大臣にしたもとなんだ。その時に憲法改正には、誰も賛成者はなかつたよ。たゞ一人近衛〔文麿〕が賛成した。近衛は戦争中から、皇室を維持することができるなら、どんな条件でも受人れたい。そうして戦争を一日も早く片付けたいというのが近衛の意見なんだな。そうして近衛のたつた一つの条件というのは、皇室を維持するということだけだ。僕が近衛を説いたのは、皇室を維持するには、天皇というものは、実際には戦争にたいして直接の責任はない。実際はあるんだけれども、しかしこの戦争を始めたものは天皇でなく、東条〔英機〕やなんか一部の軍人と官僚なんだ。この事実を明かにすることが必要だ。そこで近衛は賛成した。ところがその当時枢密院、内大臣というものがあつて、これは非常に反対なんだ。憲法改正なんていつたら、戦争が負けた後になつても、非常に不忠の臣のようなことを考えているわけだ。そして近衛に上奏させようというのだが、木戸〔木戸幸一内大臣〕がどうしても拝謁させないんだ。その時、これは別の意味で近衛に薦めたんだけれども、これは僕と小畑敏四郎〈オバタ・トシロウ〉と二人で薦めたんだけれども、近衛にマッカーサーに会え、というのは、マッカーサーが占領軍の司令官として日本に乗込んで来たけれども、日本の事情を知らずに占領政策をやると、非常な食い違いが出て来る危険がある。その結果は日本のためにも、またアメリカのためにもならん。アメリカとしても、向うは向うの方針をもつて来るだろうが、一応日本の事情というものを、日本側からマッカーサーに説明する必要がある。そういうことで、近衛にそれは近衛が一番最適だから、近衛にマッカーサーに会つて、戦争中からの日本の国内事情を説明しろ。そういうことで会見を申し込ませた。そうして何時〈イツ〉だつたか日は忘れたが、マッカーサーは会うと言つたんだ。その時通訳を二人くらい連れて行けといつて薦めた。近衛の側には牛場〔友彦〕君などという英語の達者なものがいるし、それで連れて行くつもりだつた。そして司令部へ問い合せたところ、こつちに通訳があるから、連れて来なくてもいゝということで、玄関までは牛場君を連れて行つて、マッカーサーには一人で会つた。そうしたら向うの通訳というのは二世で、英語は達者なんだけれど、日本語はわからない。それで話にはならなかつた。たゞその時マッカーサーが、日本の民主化のために努力することが、日本のためでもあり、プリンス近衛のためでもあるということをいつたんだ。その時の会見録は、今でも近衛家にあるだろうと思うんだけれども、そこで近衛は帰つて来て、民主化のためだといつたんだがどういうことだろうと言つた。通訳が不十分だつたからだな。その時分に近衛をめぐつての新党運動というものがあつた。金光庸夫〈カネミツ・ツネオ〉、前田米蔵〈ヨネゾウ〉などがやつていて、近衛はそれで、マッカーサーのいう民主化というものは、僕に新党をやれということだろうかというんだ、僕は近衛の新党には反対だつた。むしろ国家の基本法、憲法を改正することが先決問題だ。新党の総裁になつて、近衛が政界に乗出すことは、むしろ末節的な仕事だ――こういつていた。それじやあもう一度マッカーサーに会つて、日本の民主化、マッカーサーのいう民主化は何をいうのか聞いたらよかろう。それで近衛がまたマッカーサーに会見を申込んだ。それで中二日か三日おいて、マッカーサーに会つたら、今度はマッカーサーは出て来ずに、アチソンが出て来たんだな。それでこの間マッカーサーが、民主化のためだといつたが、一体どういうことか。〈13~14ページ〉【以下、次回】
最後に出てくる「アチソン」というのは、マッカーサーの政治顧問ジョージ・アチソン(George Atcheson Jr. 1896~1947)のこと。アメリカ合衆国第51代国務長官のディーン・アチソン(Dean Gooderham Acheson、1893~1971)とは別人。
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