◎木戸日記は自己の立場の弁解にすぎない(堤一郎)
堤一郎執筆の「つくられた木戸日記」(『改造』1952年4月増刊号)を紹介している。
本日は、その五回目(最後)。
運 命 の 関 頭
最後に運命の関頭において、東条〔英機〕を推薦するにいたつては、もはや何んとも弁解の余地はない。これでも木戸は反軍国主義といえるであろうか。しかもこの時若槻〔礼次郎〕が持ち出した対立候補である宇垣〔一成〕に対して、何んと彼れは批評しているであろうか。その反対の理由として陸軍の支持の少なさをあげている。何故宇垣に随取の支持が少ないか、それはいうまでもなく阿部〔信行〕も指摘しているように、陸軍を抑えるとみるからに外ならない。木戸の反軍国主義は、その打倒せんとする対象に好都合な人物を反つて登場せしめたのである。ここに彼れの実体が遺憾なく露呈されている。当時のいわゆる新興上層部は、政治をも一種の道楽趣味と解していた。したがつて自分のもたない奇抜さ、いわゆる強硬分子というのがお気に召したのである。近衛にしても木戸にしてもその点同様で、常識的人物は古臭く感じ、大言壮語のタイプを好んだ。先きには荒木、末次あり、いままた東条を好むのもその傾向の現われであつた。また後になつては批難せるも、第二次近衛内閣に松岡〔洋右〕を『適当な人物』として外相としたのも、同工異曲である(木戸は閣僚の任命も内大臣は非難される人物をさける意味から相談をうけるといつている)つまり威勢のよい景気のよい言動を吐くタイプが好きなのである。
こう解さない限り木戸らの人物鑑識の基準がわからない。東条推薦の重臣会議においても、木戸は自ら米国側の懸念として、『日本は陸軍が支配しているとみているので容易に最後の腹を打ち明けない、』とあげているに拘わらず、その当の陸軍から人物を進んで詮衡するといつた矛盾を敢えてしている。これで平和工作が行われると期待したとするなら、余程頭がどうかしている。また平和主義者といいながら、南方への発展を是認している。もつともこの場合『平和的』発展としているが、他国の勢力圏の中に当時の大東亜共栄の思想でもつて、どうして平和的発展が出来るだろうか。武力を伴うことは必至で、当時においてかかる論が、軍の進出に力をかす結果となることはわかり切つたことである。
戦局不利となり平和促進論の抬頭に際して、平和主義者木戸はどんな態度をとつたであろうか。彼れは重臣の個別拝謁の方法をとつたことをあげているが、それはよほど後のことで、すでにソロモン戦の失敗いらい近衛らは、個別拝謁を希望したものだが木戸の反対によつて、その目的を達しなかつたといわれる。東条を引退せしめたのも、その前年より策動していた岡田〔啓介〕らの動きがもととなつたのであるが、これが具体化すまでにも木戸はあくまで個人的意見は取り次ぐわけにいかぬとして突つぱねてきた。事実は当時においては、たとえ拝謁が行われても木戸が侍立していたのでは、ほんとうのことは申上げられなかつたであろう。また東条の後任問題の会議においても、まだ木戸は戦争の完遂を第一目的とし、他の重臣が主張する政治の建て直しを斥けた。和戦を決するものは政治の領域にあるにかかわらず、彼れによれば矢張り軍部にあるものと考えていたようだ。軍部の支持を第一に重大視したわけがわかる。鈴木〔貫太郎〕内閣のときにおいてはじめて陸軍の国民的不人気に気ずいたようであるが、そのときにすでに敗色濃厚で、大勢は如何ともしがたくなつていた。かようなことはわかりきつた当然の推移で強かるべき軍を抑えてこそ意味があるので軍が弱つてから反対したところで、そのときは周囲の情勢も悪化しており、国家としてはもはや何んとも仕様があるまい。
要するに木戸日記は、長々と自己の立場の弁解にすぎない。それが後日修飾したのでなければ、およそ自己のとつた行動と反対のことを述べていたとしか解されない。あたかも万一の用意にと官僚らしい細心さからか、或いは偽われる良心を慰める意味からか、であろう。彼れは、共同謀議に関して、武藤〔章〕らと会議したことはないと述べている。事実その通りであろう。しかし間接には軍の意図の思うままに動かされていたということは否定出来ないであろう。当時武藤ら軍部のものが、木戸の下に出入する人物を近ずけていたことは事実であるからである。成るほど木戸は戦争への推進力ではなかつたであろう。が実際にはその動きを阻止し得なかつただけでなく、大きな意味ではワキ役ぐらいはつとめたということは免れまい。それは生れと育ちと地位とから、積極的には大それた冒険をやるほどの勇気を持ち合わせないが、他人のやる冒険にはどちらかと言えば興味をもつ傾向をもつていたからだ。もつともそれが事実となるとあわてるが、それまでは危険と知りつつも、何んとかなるだろう式に安易な考えが支配していたのでないか。こうした人がらのものには、積極的な責任を追求することは困難である。自覚して計画的にやつていないだけに、証拠不十分を常とするが、政治的また道義的な責任は、国民的に大いに批判可能であろう。かつては陛下の寵〈チョウ〉をほしいままにしていながら、今になつて無責任呼ばわりは卑怯というものだ。〈72~73ページ〉
堤一郎執筆の「つくられた木戸日記」(『改造』1952年4月増刊号)を紹介している。
本日は、その五回目(最後)。
運 命 の 関 頭
最後に運命の関頭において、東条〔英機〕を推薦するにいたつては、もはや何んとも弁解の余地はない。これでも木戸は反軍国主義といえるであろうか。しかもこの時若槻〔礼次郎〕が持ち出した対立候補である宇垣〔一成〕に対して、何んと彼れは批評しているであろうか。その反対の理由として陸軍の支持の少なさをあげている。何故宇垣に随取の支持が少ないか、それはいうまでもなく阿部〔信行〕も指摘しているように、陸軍を抑えるとみるからに外ならない。木戸の反軍国主義は、その打倒せんとする対象に好都合な人物を反つて登場せしめたのである。ここに彼れの実体が遺憾なく露呈されている。当時のいわゆる新興上層部は、政治をも一種の道楽趣味と解していた。したがつて自分のもたない奇抜さ、いわゆる強硬分子というのがお気に召したのである。近衛にしても木戸にしてもその点同様で、常識的人物は古臭く感じ、大言壮語のタイプを好んだ。先きには荒木、末次あり、いままた東条を好むのもその傾向の現われであつた。また後になつては批難せるも、第二次近衛内閣に松岡〔洋右〕を『適当な人物』として外相としたのも、同工異曲である(木戸は閣僚の任命も内大臣は非難される人物をさける意味から相談をうけるといつている)つまり威勢のよい景気のよい言動を吐くタイプが好きなのである。
こう解さない限り木戸らの人物鑑識の基準がわからない。東条推薦の重臣会議においても、木戸は自ら米国側の懸念として、『日本は陸軍が支配しているとみているので容易に最後の腹を打ち明けない、』とあげているに拘わらず、その当の陸軍から人物を進んで詮衡するといつた矛盾を敢えてしている。これで平和工作が行われると期待したとするなら、余程頭がどうかしている。また平和主義者といいながら、南方への発展を是認している。もつともこの場合『平和的』発展としているが、他国の勢力圏の中に当時の大東亜共栄の思想でもつて、どうして平和的発展が出来るだろうか。武力を伴うことは必至で、当時においてかかる論が、軍の進出に力をかす結果となることはわかり切つたことである。
戦局不利となり平和促進論の抬頭に際して、平和主義者木戸はどんな態度をとつたであろうか。彼れは重臣の個別拝謁の方法をとつたことをあげているが、それはよほど後のことで、すでにソロモン戦の失敗いらい近衛らは、個別拝謁を希望したものだが木戸の反対によつて、その目的を達しなかつたといわれる。東条を引退せしめたのも、その前年より策動していた岡田〔啓介〕らの動きがもととなつたのであるが、これが具体化すまでにも木戸はあくまで個人的意見は取り次ぐわけにいかぬとして突つぱねてきた。事実は当時においては、たとえ拝謁が行われても木戸が侍立していたのでは、ほんとうのことは申上げられなかつたであろう。また東条の後任問題の会議においても、まだ木戸は戦争の完遂を第一目的とし、他の重臣が主張する政治の建て直しを斥けた。和戦を決するものは政治の領域にあるにかかわらず、彼れによれば矢張り軍部にあるものと考えていたようだ。軍部の支持を第一に重大視したわけがわかる。鈴木〔貫太郎〕内閣のときにおいてはじめて陸軍の国民的不人気に気ずいたようであるが、そのときにすでに敗色濃厚で、大勢は如何ともしがたくなつていた。かようなことはわかりきつた当然の推移で強かるべき軍を抑えてこそ意味があるので軍が弱つてから反対したところで、そのときは周囲の情勢も悪化しており、国家としてはもはや何んとも仕様があるまい。
要するに木戸日記は、長々と自己の立場の弁解にすぎない。それが後日修飾したのでなければ、およそ自己のとつた行動と反対のことを述べていたとしか解されない。あたかも万一の用意にと官僚らしい細心さからか、或いは偽われる良心を慰める意味からか、であろう。彼れは、共同謀議に関して、武藤〔章〕らと会議したことはないと述べている。事実その通りであろう。しかし間接には軍の意図の思うままに動かされていたということは否定出来ないであろう。当時武藤ら軍部のものが、木戸の下に出入する人物を近ずけていたことは事実であるからである。成るほど木戸は戦争への推進力ではなかつたであろう。が実際にはその動きを阻止し得なかつただけでなく、大きな意味ではワキ役ぐらいはつとめたということは免れまい。それは生れと育ちと地位とから、積極的には大それた冒険をやるほどの勇気を持ち合わせないが、他人のやる冒険にはどちらかと言えば興味をもつ傾向をもつていたからだ。もつともそれが事実となるとあわてるが、それまでは危険と知りつつも、何んとかなるだろう式に安易な考えが支配していたのでないか。こうした人がらのものには、積極的な責任を追求することは困難である。自覚して計画的にやつていないだけに、証拠不十分を常とするが、政治的また道義的な責任は、国民的に大いに批判可能であろう。かつては陛下の寵〈チョウ〉をほしいままにしていながら、今になつて無責任呼ばわりは卑怯というものだ。〈72~73ページ〉
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