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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

木戸日記は自己の立場の弁解にすぎない(堤一郎)

2025-05-31 01:03:40 | コラムと名言
◎木戸日記は自己の立場の弁解にすぎない(堤一郎)

 堤一郎執筆の「つくられた木戸日記」(『改造』1952年4月増刊号)を紹介している。
 本日は、その五回目(最後)。

   運 命 の 関 頭
 最後に運命の関頭において、東条〔英機〕を推薦するにいたつては、もはや何んとも弁解の余地はない。これでも木戸は反軍国主義といえるであろうか。しかもこの時若槻〔礼次郎〕が持ち出した対立候補である宇垣〔一成〕に対して、何んと彼れは批評しているであろうか。その反対の理由として陸軍の支持の少なさをあげている。何故宇垣に随取の支持が少ないか、それはいうまでもなく阿部〔信行〕も指摘しているように、陸軍を抑えるとみるからに外ならない。木戸の反軍国主義は、その打倒せんとする対象に好都合な人物を反つて登場せしめたのである。ここに彼れの実体が遺憾なく露呈されている。当時のいわゆる新興上層部は、政治をも一種の道楽趣味と解していた。したがつて自分のもたない奇抜さ、いわゆる強硬分子というのがお気に召したのである。近衛にしても木戸にしてもその点同様で、常識的人物は古臭く感じ、大言壮語のタイプを好んだ。先きには荒木、末次あり、いままた東条を好むのもその傾向の現われであつた。また後になつては批難せるも、第二次近衛内閣に松岡〔洋右〕を『適当な人物』として外相としたのも、同工異曲である(木戸は閣僚の任命も内大臣は非難される人物をさける意味から相談をうけるといつている)つまり威勢のよい景気のよい言動を吐くタイプが好きなのである。
 こう解さない限り木戸らの人物鑑識の基準がわからない。東条推薦の重臣会議においても、木戸は自ら米国側の懸念として、『日本は陸軍が支配しているとみているので容易に最後の腹を打ち明けない、』とあげているに拘わらず、その当の陸軍から人物を進んで詮衡するといつた矛盾を敢えてしている。これで平和工作が行われると期待したとするなら、余程頭がどうかしている。また平和主義者といいながら、南方への発展を是認している。もつともこの場合『平和的』発展としているが、他国の勢力圏の中に当時の大東亜共栄の思想でもつて、どうして平和的発展が出来るだろうか。武力を伴うことは必至で、当時においてかかる論が、軍の進出に力をかす結果となることはわかり切つたことである。
 戦局不利となり平和促進論の抬頭に際して、平和主義者木戸はどんな態度をとつたであろうか。彼れは重臣の個別拝謁の方法をとつたことをあげているが、それはよほど後のことで、すでにソロモン戦の失敗いらい近衛らは、個別拝謁を希望したものだが木戸の反対によつて、その目的を達しなかつたといわれる。東条を引退せしめたのも、その前年より策動していた岡田〔啓介〕らの動きがもととなつたのであるが、これが具体化すまでにも木戸はあくまで個人的意見は取り次ぐわけにいかぬとして突つぱねてきた。事実は当時においては、たとえ拝謁が行われても木戸が侍立していたのでは、ほんとうのことは申上げられなかつたであろう。また東条の後任問題の会議においても、まだ木戸は戦争の完遂を第一目的とし、他の重臣が主張する政治の建て直しを斥けた。和戦を決するものは政治の領域にあるにかかわらず、彼れによれば矢張り軍部にあるものと考えていたようだ。軍部の支持を第一に重大視したわけがわかる。鈴木〔貫太郎〕内閣のときにおいてはじめて陸軍の国民的不人気に気ずいたようであるが、そのときにすでに敗色濃厚で、大勢は如何ともしがたくなつていた。かようなことはわかりきつた当然の推移で強かるべき軍を抑えてこそ意味があるので軍が弱つてから反対したところで、そのときは周囲の情勢も悪化しており、国家としてはもはや何んとも仕様があるまい。
 要するに木戸日記は、長々と自己の立場の弁解にすぎない。それが後日修飾したのでなければ、およそ自己のとつた行動と反対のことを述べていたとしか解されない。あたかも万一の用意にと官僚らしい細心さからか、或いは偽われる良心を慰める意味からか、であろう。彼れは、共同謀議に関して、武藤〔章〕らと会議したことはないと述べている。事実その通りであろう。しかし間接には軍の意図の思うままに動かされていたということは否定出来ないであろう。当時武藤ら軍部のものが、木戸の下に出入する人物を近ずけていたことは事実であるからである。成るほど木戸は戦争への推進力ではなかつたであろう。が実際にはその動きを阻止し得なかつただけでなく、大きな意味ではワキ役ぐらいはつとめたということは免れまい。それは生れと育ちと地位とから、積極的には大それた冒険をやるほどの勇気を持ち合わせないが、他人のやる冒険にはどちらかと言えば興味をもつ傾向をもつていたからだ。もつともそれが事実となるとあわてるが、それまでは危険と知りつつも、何んとかなるだろう式に安易な考えが支配していたのでないか。こうした人がらのものには、積極的な責任を追求することは困難である。自覚して計画的にやつていないだけに、証拠不十分を常とするが、政治的また道義的な責任は、国民的に大いに批判可能であろう。かつては陛下の寵〈チョウ〉をほしいままにしていながら、今になつて無責任呼ばわりは卑怯というものだ。〈72~73ページ〉

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責任を解しない連中が集まって責任者を推薦する

2025-05-30 00:08:38 | コラムと名言
◎責任を解しない連中が集まって責任者を推薦する

 堤一郎執筆の「つくられた木戸日記」(『改造』1952年4月増刊号)を紹介している。
 本日は、その四回目。

   反軍国主義者か?
 新党結成の問題にしてもそうである。自ら参画していながら、客観的にその気運が醸成されたように述べ、内容が外部からひと度攻撃されるや、それは全く末次式の案で、自らの責任でないような述べ方である。実際は昭和十三年〔1938〕の秋頃に、〔第一次近衛〕内閣の政網の一である文官任用令の改正を協議するといつた名目で、末次〔末次信正内務大臣〕、塩野〔塩野季彦司法大臣〕、木戸〔木戸幸一文部大臣〕の三人が寄り集つて新党結成の下準備をしたものらしい。木戸によれば近衛に頼まれて参画したというが、当時の書記官長〔風見章〕の話ではあのような政界の素人達に近衛が頼むはずがない。第一に新党問題では近衛の周囲では、前々から手がけてきている有馬〔頼寧〕が参加していないじやないかという。いずれにしてもそうして出来上つた案というのが、頗る奇抜なものであつた。政友、民政の両党をはじめ、当時の社会大衆党、東方会、国民同盟にいたる小会議までを含めて、首相官邸に順次に召集して賛成を求め、それで直ちに結成を宣言するというのであつた。流石の近衛もこれは閉口して取りあげなかつたがこれが後日国民再組織にまで発展したことは人の知るところである。木戸によれば一国一党主義には反対であるが、既成政党をきゆう合〔糾合〕して政治勢力をつくるのが念願であつたという。この場合反対党の存在を認めるのかどうかははつきりしないが、後年の翼政会〔翼賛政治会〕の出現を思えば大体あのような思いつきであつたのであろう。
 とかくするうちに木戸は内大臣となつた。彼れの叙述によれば日本の不幸は、ロンドン条約からはじまつたとしているが、われわれからいえば最大の不幸は彼れの内大臣就任よりはじまつたととみる。けだし前任者の湯浅〔倉平〕にしても、その前の牧野〔伸顕〕にしても、すべて功なり名とげた。一応の野心を清算した人物である。ところが木戸の場合は、年も若くあり、政界にも必要以上の興味をもつている。木戸自身の表現による『鏡のような地位』に、彼れがつくには余りに沙婆気〈シャバケ〉がありすぎたようだ。昨日まで新党に興味をもつた木戸である。しかもかれはこの場合、松平〔恒雄〕、西園寺〔公望〕、米内〔光政〕、湯浅〔倉平〕、近衛らの『反軍国主義者』の推薦だということを得々とあげているが、内府に就任する以上これらの人達の推薦を必要とすることはいうまでもない。いずれも関係者であるのであつて、なにもこうしたことまでわざわざ反軍国主義者の推薦と強調するまでもあるまい。まさかこの際軍部や右翼方面から推薦があることが不思議である。
 彼れが就任後最初に当面したのは米内内閣の倒かいであった。いうまでもなく三国同盟に対する米国内の拒否が、陸軍を怒らしたことに原因するものである。このいきさつを知れば漫然と陸軍に人気があるからといつて、近衛を再びかつぎ出す〔第二次近衛内閣〕などは最も警戒物であつた。それに彼れによつて始められた重臣会議なるものが、総理としての落第坊主の一連であるのだ。責任を解しない連中が集つて、責任者を推薦しようとするのだから、詮衡の基準が好い加減なものとなるのも当然であつた。もともと三国同盟に反対であるというに拘わらず、軍部の思うままになりかねない人物を奏薦した。しかも木戸の述べたところによつても、同盟は『必らずや日米戦争の原因となるにちがいないと心配した』というのである。このような論理の進行を知りながら、近衛と木戸の関係において防ぎ得なかつたということは、前述の『心配』云々は単なる言いわけに過ぎない。もしそうでなければ図々しいというものである。ほんとに『心配』と感じたのなら、当時早やくもその理由を述べてその職を去るべきで、反対はしたのだが! では責任を知つたものとは断じていえまい。彼れは松岡〔洋右〕外相の説明に驚いたというのが、驚いた木戸が心配しながら、陛下にこれを奏上する勇気というか、その図々しさになお驚かされるでないか。〈71~72ページ〉【以下、次回】

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かれらの人を見る眼の貧しいことは……

2025-05-29 02:39:21 | コラムと名言
◎かれらの人を見る眼の貧しいことは……

 堤一郎執筆の「つくられた木戸日記」(『改造』1952年4月増刊号)を紹介している。
 本日は、その三回目。

   何故入閣した?
 内大臣秘書官長として、政界の情報集めに第一歩を踏み出した木戸は、背景が背景だけに情報集めには恵まれていた。しかしこの場合恵まれていたということは正確であることを意味しない。背景を考えてのお為ごかしの売り込み情報が多いからである。それに情報に興味をもつものの常として、自己の見識や判断は貧弱で、耳寄りな話や変つた噂へとツイ引きずられ勝ちとなる。さらにこれが木戸や近衛のような身分となると、積極的に正確なものを集めるのでなく曰【いわ】く付きのものに余計飛びつく性質をもつ。かれらの人を見る眼の貧しいことは、数々の人事行政の失敗がこれを語つている。
 支那事変が起つてから木戸は、事変の解決を出来るだけ早くに導く為め入閣したという。しかも表面は単なる文相であるが、実質は近衛の相談相手であつたとは自他ともに認めていたところだ。ところが実際は彼れもまた近衛と同様に、新秩序論者であつて、せつかくのトラウトマンによる和平工作をハネつけ、相手にせずに同意してしまつたのであつた。当時の軍部が南北両派にわかれていたことは事実である。しかし少なくとも秩父宮〔雍仁親王〕をはじめ参謀本部の多田〔駿〕次長や本間〔雅晴〕第二部長らが、どんな条件でも即刻和平の道をとるよう進言したことも事実である。もし中国からの回答がおくれても、直ちに『相手にせず』の声明だけはまつてくれと、国力の統計まで示して内閣に訴えたものだが、それに対して木戸らはドイツにしてやられるおそれがあるとして乗り気でなく、その実は和平後の国内の動乱から内閣の危険をおそれてであろうが、とも角杉山〔元〕陸相らの言を幸いとして和平策を一蹴したのであつた。これが『事変解決の為めのあらゆる努力』とどうして言えようか。〈71ページ〉【以下、次回】

 文中、「相手にせず」は、第一次近衛声明を指す。1938年(昭和13)1月16日に、第一次近衛内閣が出した三つの声明のうち最初の声明で、「帝国政府ハ爾後国民政府ヲ対手トセス」という文言が含まれていたことで知られている。

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松井空花は軍部と密接な関係にあった浪人

2025-05-28 00:14:08 | コラムと名言
◎松井空花は軍部と密接な関係にあった浪人

 堤一郎執筆の「つくられた木戸日記」(『改造』1952年4月増刊号)を紹介している。
 本日は、その二回目。

   木戸のいう軍国主義者とは?
 一体木戸がめざす軍国主義者とは、具体的に誰れを指しているのか不明瞭である。宇垣〔一成〕大将らとは仲が合わなかつたようだ。記事中宇垣派の策動とか、三月事件と宇垣との関係とかを、再三とりあげているところからみれば、或いは彼れの眼には宇垣こそ軍国主義者であつたのかも知れない。それにしても宇垣と徹底的に斗つた跡は見えない。それどころか、近衛内閣〔第一次近衛改造内閣〕ではともに閣僚だつた。宇垣は軍人の中での平和主義者として排斥されてきたぐらいであるが、後継内閣の重臣会議においては二度までも、木戸は宇垣を拒否しているから、彼れの眼には軍国主義者と映つたのかも知れない。かりに宇垣がかれによつて軍国主義者であるとしても、それならば荒木〔貞夫〕や末次〔信正〕はどんなものか。近衛好みの陸海の両大将とは、木戸もその影響をうけて仲がよかつたはずである。前者には自己の後任としての文相を、後者には平沼〔騏一郎〕系の塩野〔季彦〕らとともに、新党運動を画策した間柄である。
 或いは彼れの軍国主義は、具体的なものでなくいわゆる右翼的な風汐〔風潮〕をさすのであろうか。もしそうであるならば木戸の周囲には、そうした傾向を帯びた浪人政治家のバックのあつたのはどうしたわけか。例えば日記に登載している松井空花は、当時の軍部とは最も密接な関係にあつた浪人である。また同じく記事中に出てくる池崎忠孝〈イケザキ・タダヨシ〉は人も知る親軍派の代議士であつた。またかれの文相時代に手がけた大学の改革にしても、かれが近衛とともに恩師であつた小野塚〔喜平次〕博士の反対を押し切つてまで敢行しようとしたのでなかつたか。当時小野塚らは、近衛や木戸はもつと学問に理解があるかと思つたと語つたほどである。矢内原〔忠雄〕教授の罷免問題にしても、大内〔兵衛〕教授の証言するように、直接手を下さなかつたかも知らないが、蔭で手を動かしたとみられぬことはない。同様なことは右翼の小林順一郎の改革要求を表面では拒否しながら、小林と関係のある貴族院における右翼の巨頭、井田磐楠〈イダ・イワクス〉の質問をうくるや、はつきりこれを肯定した。当時彼れの親友原田熊雄ですら、これをみてまるで右翼との馴れ合いであると苦々しく言つたことである。
 さらに木戸は、支那事変の最中に英米を刺激するようなことは、最も慎重に対処したと述べているが、宇垣外相当時のせつかくの日英交渉中に演ぜられた排英運動には、むしろ外交交渉を有利ならしめるものとして是認するような言を周囲のものに語つたことも知られている。もちろん官僚肌の彼れのことであるから、いわゆる和戦両様の備えには怠りはない。右翼主義者や極端論者、陸軍将校連らの動きに対しては、万一の取締り方法をも講じたであろうが、それをもつて直ちに彼れが軍国主義的風汐〔風潮〕と戦つたとはいえまい。別の個所では(昭和十五年宮廷派暗殺事件)かれらの精神を是認したところもあるからだ。
 近衛の内閣改造にあたつて、陸相と衝突したことを、如何にもれいれいしく、敢然と反対したと、あげてあるが、それは一方において軍部内の反対勢力と結んでいるのであるから、敢えてそれをもつても反軍国主義の証拠ともいえないであろう。当時陸軍首脳部であつた杉山〔元〕、梅津〔美治郎〕の内閣に対する秘密主義が、近衛らをして反杉山の空気を促さしめたとはいえるが、杉山らにしてみれば、近衛が反対派である荒木〔貞夫〕や真崎〔甚三郎〕らに近く、しかも近衛の性格として秘密が保たれまいとみたからこそ万事を打ち明ける気にならなかつたともいえるのである。こんなことが反軍国主義といえる筋のものでなくまた板垣〔征四郎〕を後任陸相として買つたのも、彼れをめぐる漠然たる人気を、殿様流に芸者買いでもするように、目星をつけたのに過ぎない。〈70~71ページ〉【以下、次回】

 文中に「松井空花」という人名が出てくる。あるいは、松井成勲(本名・亀太)のことか。


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堤一郎の評論「つくられた木戸日記」(1952)を読む

2025-05-27 03:39:10 | コラムと名言
◎堤一郎の評論「つくられた木戸日記」(1952)を読む

 似たような話が続いて恐縮だが、本日以降、「つくられた木戸日記」と題された評論を紹介したい。「木戸日記」とは、戦中に内大臣を務めた木戸幸一(1889~1977)の日記のことである。
 この文章は、『改造』第33巻第6号(1952年4月増刊号)に載っていたもので、執筆者は「堤一郎」となっている。堤一郎とは聞いたことのない名前であり、政治評論家ないしジャーナリストのペンネームと思われる。

〝つ く ら れ た〟木 戸 日 記
  余は軍国主義者と斗つた!    堤 一 郎

   軍国主義者と斗う?
 戦前のわが国指導者層の間にみられる最大の特徴は、自己の信念に不忠実というよりも、むしろはじめから信念なんてものを持たなかつたところにある。もつともそのくせ一般国民に対しては、逆に漠然たる信念の押売りをやつたものであるが、信念をもたないところから、常にその場で『好い子』になろうとし、それが当時の空気では、いわゆる強硬論のとりこになつていつたのも自然の推移であつた。こうなつては責任もクソもあつたものでない。
 ここにとりあげる木戸日記もその事実の一である。もつともそれの正式のものは未だ公刊されていないが、過ぐる裁判にあたつてそれを基とした供述書をみただけでも、十二歳程度の判断力しかないことがわかるであろう。『日記』と名のつく以上、意識的にウソを述べてあるとは思いたくない。恐らく本人は、そう思つたことを正直に書いたのであろうが、記述の進むにしたがつて示された内容の、前後脈絡の矛楯どう着〔矛盾撞着〕は、何んとしても否定出来ないであろう。先ず木戸は冒頭に、自分の生涯は軍国主義者と斗う〈タタカウ〉ことに捧げられた、と述べている。心中或いはそのつもりであつたかも知れないが、彼れの日記や行動を通じてそれを裏書きするような何ものも示されていない。それどころか彼れ自ら軍部の巨頭、阿部信行大将と縁組みすらやつている。阿部は当初宇垣〔一成〕系の将軍として、比較的穏健派に属したことは事実であるが、その思想において軍部第一主義であることにおいては、他の軍閥達と同様である。木戸が国家の運動よりも『軍部の統制』を重視したことも彼れの後継内閣の奏薦にあたつてよく現わされたところである。そして遂には滅亡の導火点となつた最大の軍国主義者東条〔英機〕を、軍の統制確保の見地から、二人仲よく発議推薦しているのである。他のことは別としても、この一事をもつてして、彼れが軍国主義者と斗つたなどとは断じていえないであろう。〈69ページ〉【以下、次回】

 文中に、「阿部信行大将と縁組み」とある。木戸幸一の長女・由喜子は、阿部信行の長男・信男に嫁している。
 最後に、「二人仲よく発議推薦」とあるが、この「二人」は、木戸と阿部を指しているのであろう。ちなみに、東条英機を奏薦した重臣会議のメンバーは、清浦奎吾・若槻礼次郎・岡田啓介・広田弘毅・林銑十郎・阿部・米内光政・原嘉道・木戸であった。

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