礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

タミル人が小舟で日本列島に直行したことはありえない

2024-01-29 01:49:42 | コラムと名言

◎タミル人が小舟で日本列島に直行したことはありえない

 大野晋(すすむ)の『日本語の形成』(岩波書店、2000)を読もうと思い、本年にはいってから、地元の図書館に赴いた。残念ながら、同書は収蔵されていなかった。しかし、それとよく似たタイトルの本を見つけた。崎山理著(さきやま・おさむ)『日本語「形成」論――日本語史における系統と混合』(三省堂、2017)である。
 この本のことも、その著者のことも知らなかったが、ザッと目を通したところ、面白そうだったので借りてきた。著者の崎山理(さきやま・おさむ)氏は、1937年(昭和12)生まれの言語学者で、国立民族学博物館名誉教授。
 同書の第一章「日本語の形成過程と言語接触」の第二節「いくつかの時代錯誤―アイヌ語説、タミル語説など」に、[タミル語説]という項がある。本日は、これを紹介させていただきたい。ただし、紹介は、同項の前半のみ。

 [タミル語説] 1995年頃、かつて有名になったレプチャ語の場合と同じように世間を騒がせた言語がタミル語である。南インドで南部ドラヴィダ語に属するタミル語が成立したのはせいぜい紀元前数世紀以降のことであり(『言大辞』「ドラヴィダ語族」)、タミル人が東南アジア島嶼部にまで進出した痕跡があるのは西暦10世紀以降で、その証拠はフィリピン、インドネシアに残されたタミル語碑文から判明する(Francisco 1973〉。そして、そのような地域におけるタミル語の痕跡はサンスクリット語と比較しつつ考古学的、言語的にも慎重に検討すべき課題となっている(Francisco 1985)。大野晋説の言う、それも歴史時代を遡る2,OOO年前の弥生時代にほかの地域、島々を経由せず日本列島に小舟(?)で直行していたなどという状況は歴史的にも言語的にもあり得ないことである。また大野は日本語を現代タミル語と比較しているが、それ以前に日本列島で日本語が成立していたという自説とは完全に矛盾している。しかも大野は比較言語学で言う再構形を詭弁的に「虚構」とみなし、日本語の方がむしろドラヴィダ祖語の再構成に有力な新資料になると言うが、実際には日本語とタミル語とが同系であることを証明しようとしているのであるから、これは非論理的(論理学でいう「論点の先取り」‛petitio principir')であるという徳永(1981)の指摘には謙虚に耳を傾けるべきであろう。その後も、大野説の現代タミル語と日本語の比較に対しては、タミル祖語から見て数々の矛盾と難点があることが歴史言語学(児玉2002)から指摘され、比較言語学からは同系の証明 の手順と音韻法則の不正確さ(松本克2007)が非難されている。
 大野による日本語のタミル語語源説の一つに、「田んぼ」がある(2011) 。「田んぼ」の田圃は当て字とされるが、奈良時代のタノモ「田能毛=田の面」『万葉集』(14:3523)という複合語に由来することが明らかで、ほかにも、タつかひ「阤豆歌毗=田令」『日本書紀』(欽明17)、タなかみ「多那伽瀰=田上」『日本書紀』(歌謡)のような田の複合語の用例がある。ただし、「田」そのものの語源は明らかでない。なぜ、大野は「田んぼ」をtamb-oのように恣意的に区切るのであろうか。また、語源とされたタミル語もtamp-alのように勝手に区切っているが、これでは二重の誤りを犯していることになる。まず大野が参照していないファブリシウス(J. P. Fabricius)の『タミル語・英語辞典』第4版(Online version. 1972)によれば、tampal(複合語ではない)は「田を鋤くこと、田に水を引き牛に踏ませること(いわゆる踏耕)」の意味のみで、「田」の記載はまったくない。したがって、「鋤く」を基に「田」について言うのは禅問答(例えば、「地を鋤くは如何なる為なるや?」「田にする為なり」)である。さらに大野は、このいわば勝手に区切ったtamp-の末尾子音mpが脱落した形が田であるという解釈を述べている。このような荒技に加え、奈良時代の「田の面」が「田んぼ」のような撥音便になったのは平安時代以降とされるから(橋本進1950:84)、有史以前などというのは甚だしく時代がずれていることになる。
 ここで、タミル語との比較において大野(1995)が喧伝〈ケンデン〉している基礎語彙の概念についても述べておきたい。そもそも基礎語彙という発想には、語彙統計学 (言語年代学)で世界の言語を共通の土台のもとに比べるために、個別の民族文化の影響を受けても変化しにくい中性的な語彙を選択しようという経緯があった。ただし、言語間の親疎を明らかにするために、それぞれの言語が共通に保持している語のパーセンテージを決める基準が研究者ごとに異なることがしばしば起こる(Blust2013:34)。しかも、各地域の民族文化には中立的な基礎語彙などは存在しないというのが言語人類学的立場と言ってもよい。各地域で、それぞれの民族文化から影響を被らない語彙はないと考えられるからである。したがって、タミル語と日本語の基礎語彙の何パーセントが共通しているなどと言っても、それは言語系統論的にはほとんど意味をなさない。【以下、略】

 このように崎山理氏は、大野の「タミル語説」に対して、非常に厳しい評価を下している。
 なお、崎山氏は、大野晋『日本語の形成』に先立ち、1990年(平成2)に、『日本語の形成』という同タイトルの編著書を、三省堂から上梓している。

*このブログの人気記事 2024・1・29(8位の山本有三は久しぶり)

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2 コメント

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タミルの承認はグローバル (岡崎裕夫)
2024-05-13 21:30:46
私は言語学者でも歴史学者でもありませんが、タミルの商人たちが、紀元前3世紀ごろから8世紀ごろまで、東南アジアから広州にかけて活躍していたという、状況証拠を多く提示しました。韓国南部や日本へもやってきていたと考えられます。
『誰も書かなかったグローバルから見た日本古代史 新・日本の誕生』でその状況証拠を述べました。
是非、ご高覧頂ければ幸甚です。
コメントに感謝します (礫川)
2024-05-14 08:16:57
◆コメントありがとうございました。岡崎様の著書は、未見ですが、拝読させていただこうと思っております。

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