◎「あんまり本当のことをいうもんじゃないぞ」松岡洋右
前芝確三・奈良本辰也著『体験的昭和史』(雄渾社、1968)から、「スターリン・松岡会談」の章を紹介している。本日は、その二回目。
どうして日ソ中立条約が、ああいうふうにスムースに調印される運びになったのか、交渉がトントン拍子で進んだのか。前にも話したように、東郷〔茂徳〕さんの在任時代から、すでに日ソ接近ムードというものはどんどん高まってきていた。ソ連にしてみれば、ドイツとの戦争は、いずれは避けがたい、その場合両正面作戦の危険をまぬがれるためには、いつまで続くかしれないにしても、条約でもって日本を一応縛りつけておいて、時をかせぐにこしたことはない、という気もちだったんでしょう。昭和十五年〔1940〕の末頃すでにソ速のドイツとの関係は非常に冷却していて、私のところへドイツ側からもたらされる情報などによると、ヒトラーが本腰を入れて、対ソ攻撃作戦の準備を始めているというのは、どうやら本当らしかった。ヒトラーがソ連をあざむくために松岡〔洋右〕に勧めて、中立条約を結ばせたという見方もあるが、私はやはり松岡さんとしては、日本の国家的利益というものを優先して考えていたと思う。つまりアジア・太平洋地域における米英との関係が険悪化すればするほど、日本としてはどうしても、北辺を一応安定化させておく必要があるという、松岡さん独自の考え方があったと思うんです。もちろん日本としても、北樺太の石油利権の放棄とか、ある程度の代償は払いましたがね。
スターリン・松岡のやり取りというのは、あとできいたんだがなかなかおもしろい。スターリンは一種の野人でしょう、松岡さんも日本の外交官としては型やぶりで、しばしば勝手なことをいいます。松岡さんの話によると、それは、どこまで本当か知らないが、「おれはスターリンに、バルカンとかなんとかケチなことをいわずに、アフガニスタンからインドをうかがって、イギリス帝国主義を脅かしなさい、と勧めてやったよ。昔、イギリスがインドからアフガニスタンを経てソ連へ侵入してきているじゃないか、その逆をいったらどうだといったら、スターリンは大笑いしよった」などといっていました。それから西園寺〔公一〕君をスターリンに紹介して、「こいつは日本の貴族中のボリシェビキですよ」といったら、スターリンは、「ああそうか、そうか」といって、西園寺君の顔を見てニヤニヤ笑ったという話もあるんだ。ところがその後すぐ西園寺君はゾルゲ事件でつかまっているわけです。(笑) どうやらスターリンも松岡さんを、ちょっとおもしろい人物、ぐらいには思ったようだな。条約ができて、松岡さんがクレムリンを退出してきたとき私が、「松岡さん、日ソ中立条約ができたことは、まことにめでたいと思いますが、この次はアメリカとも同じような条約を結ぶことですな」と水をむけたところ、急に表情をひきしめて、「あんまり本当のことをいうもんじゃないぞ」といった。これでだいたい当時の松岡構想というものがわかったんです。それが例の近衛・ルーズベルト会談の計画に発展していったというわけだ、こうして、なんとか「支那事変」の解決をはかろうという魂胆だったんですね。〈226~228ページ〉【以下、次回】
前芝確三・奈良本辰也著『体験的昭和史』(雄渾社、1968)から、「スターリン・松岡会談」の章を紹介している。本日は、その二回目。
どうして日ソ中立条約が、ああいうふうにスムースに調印される運びになったのか、交渉がトントン拍子で進んだのか。前にも話したように、東郷〔茂徳〕さんの在任時代から、すでに日ソ接近ムードというものはどんどん高まってきていた。ソ連にしてみれば、ドイツとの戦争は、いずれは避けがたい、その場合両正面作戦の危険をまぬがれるためには、いつまで続くかしれないにしても、条約でもって日本を一応縛りつけておいて、時をかせぐにこしたことはない、という気もちだったんでしょう。昭和十五年〔1940〕の末頃すでにソ速のドイツとの関係は非常に冷却していて、私のところへドイツ側からもたらされる情報などによると、ヒトラーが本腰を入れて、対ソ攻撃作戦の準備を始めているというのは、どうやら本当らしかった。ヒトラーがソ連をあざむくために松岡〔洋右〕に勧めて、中立条約を結ばせたという見方もあるが、私はやはり松岡さんとしては、日本の国家的利益というものを優先して考えていたと思う。つまりアジア・太平洋地域における米英との関係が険悪化すればするほど、日本としてはどうしても、北辺を一応安定化させておく必要があるという、松岡さん独自の考え方があったと思うんです。もちろん日本としても、北樺太の石油利権の放棄とか、ある程度の代償は払いましたがね。
スターリン・松岡のやり取りというのは、あとできいたんだがなかなかおもしろい。スターリンは一種の野人でしょう、松岡さんも日本の外交官としては型やぶりで、しばしば勝手なことをいいます。松岡さんの話によると、それは、どこまで本当か知らないが、「おれはスターリンに、バルカンとかなんとかケチなことをいわずに、アフガニスタンからインドをうかがって、イギリス帝国主義を脅かしなさい、と勧めてやったよ。昔、イギリスがインドからアフガニスタンを経てソ連へ侵入してきているじゃないか、その逆をいったらどうだといったら、スターリンは大笑いしよった」などといっていました。それから西園寺〔公一〕君をスターリンに紹介して、「こいつは日本の貴族中のボリシェビキですよ」といったら、スターリンは、「ああそうか、そうか」といって、西園寺君の顔を見てニヤニヤ笑ったという話もあるんだ。ところがその後すぐ西園寺君はゾルゲ事件でつかまっているわけです。(笑) どうやらスターリンも松岡さんを、ちょっとおもしろい人物、ぐらいには思ったようだな。条約ができて、松岡さんがクレムリンを退出してきたとき私が、「松岡さん、日ソ中立条約ができたことは、まことにめでたいと思いますが、この次はアメリカとも同じような条約を結ぶことですな」と水をむけたところ、急に表情をひきしめて、「あんまり本当のことをいうもんじゃないぞ」といった。これでだいたい当時の松岡構想というものがわかったんです。それが例の近衛・ルーズベルト会談の計画に発展していったというわけだ、こうして、なんとか「支那事変」の解決をはかろうという魂胆だったんですね。〈226~228ページ〉【以下、次回】
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