◎「われわれは東洋人どうしだよ、なあ」スターリン
前芝確三・奈良本辰也著『体験的昭和史』(雄渾社、1968)から、「スターリン・松岡会談」の章を紹介している。本日は、その三回目(最後)。
それはそれとして、条約調印のあとでは当事者どうしで乾杯するのが恒例です。ところがスターリンはこのとき、乾杯をくり返していてとめどがない、松岡さんは午後四時発の列車でシベリア経由、満州里〈マンシュウリ〉にむかうことにきまっていた。しかもクレムリンを出てから一応日本大使館に落ちついて、そこでも乾杯する予定です。松岡さんが時計をとり出して、もうそろそろ予定の時間だからというとスターリンは、「時間なんかどうでもよろしい、発車をおくらせるよう手配するから」(笑) と受話器を取りあげ、たしか鉄道相だったと思うが、カガノヴィッチを呼び出して、「おい、松岡の乗る列車、一時間半ほど発車をおくらせてくれ」とやったそうです。そして、「さあ、もう一杯いこう」というわけです、こうしたところをみると、スターリンも、条約のできたことがよほどうれしかつたらしい。松岡さんは果てしのない乾杯をようやく断わって退出し、日本大使館へ帰って、そこでまた杯を上げた上、一時間半のばした発車の時間に間に合うように停車場へ行く、私も見送りに行きました。プラットフォームには英米独伊などの大使やソ連の外務次官などが、見送りに出て賑やかなことです。ところが発車に十五分ほど前、プラットフォ一ムのむこうの方がざわめきはじめた。伸び上がって見ると、スターリンがモロトフと腕を組んでふらり、ふらりとこちらの方へやってくるじゃないか、まさに千鳥足です。モロトフは黒いスーツを着てちゃんとネクタイをしめていたが、スターリンは例のダブダブの軍服みたいなカーキいろの服に半長ぐつです。そして松岡さんのところへ近づき、「よかった、よかった」といわんばかりにその肩をたたく。各国の大公使は思いもかけぬこの情景をただ啞然として見ていた。ことにドイツ大使なんかはニガ虫をかみつぶしたような顔でした。(笑) スターリンが外国の使臣をみずから駅頭に見送るなんてことは、まったく異例なんですよ。
そればかりか波は松岡を案内して、いっしょに車室へはいろうとした。ところが間逮えて普通の寝台車に乗ろうとしたものです。そのとき、デッキに立ちふさがった車掌が手をふりながら厳然と、「タワーリシチ(同志)、スターリン、この車ではありません,もう一つあとの車です」といったのが、いまだに私の耳にのこっている。スターリンは、「ウン、そうか、そうか」とうなずき、松岡を案内して特別車に入ったが、そこで発車のベルがなるまで話し合っていました。あとで聞いたことだが、そのときスターリンは、話の途中でいたずらっぽい目を、窓外にむけながら、「あいつらはみんな西洋人だ、だがわれわれは東洋人どうしだよ、なあ」といって松岡さんの肩をたたいたそうだ。とにかくスターリンは発車政前まで車室にいて、列車が動きはじめてからもプラットフォームでゆっくり手を振って見送っていた。そして、またモロトフと腕を組んでふらり、ふらりと帰っていった。私はすぐそのあとについて駅を出たんだが、酔ってどこかへぶっつけたのか、スターリンの小指に、青あざのあったことをおぼえています。彼は自動車に乗る場合、いつも運転手の隣りに乗るんです。そのときもモロトフがひとりちょこんと広いうしろの座席に乗って帰っていったが、ご両人とも、ことにスターリンは大したごきげんでした。
奈良本 中立条約は、ソビエトにとっても大きな影響があったのですね。後ろからやられたらかなわんからね。
前芝 こういう劇的な場面を見てから、しばらくたてメーデーをむかえた。赤い広場で行なわれるさかんなパレードを見たのち、私はメーデーに続く休みを利用して、ボルガ川の観光旅行に出かけました。この小旅行からモスクワへ帰ったと思うまもなく、スターリンが首相に就任したというニュースです。それまではモロトフが首相、スターリンが党の書記長でした、ちゃんと分業をやっていたわけですね。ところが党の書記長スターリンが首相を兼ね、モロトフが副首相兼外相になったんです。そのとき私は、これは異常な事態だなと思った。いよいよ党と政府を一体化して、万一の場合に対処する政治体制を固めた……〈228~232ページ〉
「スターリン・松岡会談」の章は、ここまで。
前芝確三(まえしば・かくぞう、1902~1969)というジャーナリトについては、よく知らなかったが、巧みな話術の持ち主だったようだ。そして、その話術は、鋭い観察力・洞察力、そして直観像記憶を思わせる確かな記憶力に支えられていたのだろう。
前芝確三・奈良本辰也著『体験的昭和史』(雄渾社、1968)から、「スターリン・松岡会談」の章を紹介している。本日は、その三回目(最後)。
それはそれとして、条約調印のあとでは当事者どうしで乾杯するのが恒例です。ところがスターリンはこのとき、乾杯をくり返していてとめどがない、松岡さんは午後四時発の列車でシベリア経由、満州里〈マンシュウリ〉にむかうことにきまっていた。しかもクレムリンを出てから一応日本大使館に落ちついて、そこでも乾杯する予定です。松岡さんが時計をとり出して、もうそろそろ予定の時間だからというとスターリンは、「時間なんかどうでもよろしい、発車をおくらせるよう手配するから」(笑) と受話器を取りあげ、たしか鉄道相だったと思うが、カガノヴィッチを呼び出して、「おい、松岡の乗る列車、一時間半ほど発車をおくらせてくれ」とやったそうです。そして、「さあ、もう一杯いこう」というわけです、こうしたところをみると、スターリンも、条約のできたことがよほどうれしかつたらしい。松岡さんは果てしのない乾杯をようやく断わって退出し、日本大使館へ帰って、そこでまた杯を上げた上、一時間半のばした発車の時間に間に合うように停車場へ行く、私も見送りに行きました。プラットフォームには英米独伊などの大使やソ連の外務次官などが、見送りに出て賑やかなことです。ところが発車に十五分ほど前、プラットフォ一ムのむこうの方がざわめきはじめた。伸び上がって見ると、スターリンがモロトフと腕を組んでふらり、ふらりとこちらの方へやってくるじゃないか、まさに千鳥足です。モロトフは黒いスーツを着てちゃんとネクタイをしめていたが、スターリンは例のダブダブの軍服みたいなカーキいろの服に半長ぐつです。そして松岡さんのところへ近づき、「よかった、よかった」といわんばかりにその肩をたたく。各国の大公使は思いもかけぬこの情景をただ啞然として見ていた。ことにドイツ大使なんかはニガ虫をかみつぶしたような顔でした。(笑) スターリンが外国の使臣をみずから駅頭に見送るなんてことは、まったく異例なんですよ。
そればかりか波は松岡を案内して、いっしょに車室へはいろうとした。ところが間逮えて普通の寝台車に乗ろうとしたものです。そのとき、デッキに立ちふさがった車掌が手をふりながら厳然と、「タワーリシチ(同志)、スターリン、この車ではありません,もう一つあとの車です」といったのが、いまだに私の耳にのこっている。スターリンは、「ウン、そうか、そうか」とうなずき、松岡を案内して特別車に入ったが、そこで発車のベルがなるまで話し合っていました。あとで聞いたことだが、そのときスターリンは、話の途中でいたずらっぽい目を、窓外にむけながら、「あいつらはみんな西洋人だ、だがわれわれは東洋人どうしだよ、なあ」といって松岡さんの肩をたたいたそうだ。とにかくスターリンは発車政前まで車室にいて、列車が動きはじめてからもプラットフォームでゆっくり手を振って見送っていた。そして、またモロトフと腕を組んでふらり、ふらりと帰っていった。私はすぐそのあとについて駅を出たんだが、酔ってどこかへぶっつけたのか、スターリンの小指に、青あざのあったことをおぼえています。彼は自動車に乗る場合、いつも運転手の隣りに乗るんです。そのときもモロトフがひとりちょこんと広いうしろの座席に乗って帰っていったが、ご両人とも、ことにスターリンは大したごきげんでした。
奈良本 中立条約は、ソビエトにとっても大きな影響があったのですね。後ろからやられたらかなわんからね。
前芝 こういう劇的な場面を見てから、しばらくたてメーデーをむかえた。赤い広場で行なわれるさかんなパレードを見たのち、私はメーデーに続く休みを利用して、ボルガ川の観光旅行に出かけました。この小旅行からモスクワへ帰ったと思うまもなく、スターリンが首相に就任したというニュースです。それまではモロトフが首相、スターリンが党の書記長でした、ちゃんと分業をやっていたわけですね。ところが党の書記長スターリンが首相を兼ね、モロトフが副首相兼外相になったんです。そのとき私は、これは異常な事態だなと思った。いよいよ党と政府を一体化して、万一の場合に対処する政治体制を固めた……〈228~232ページ〉
「スターリン・松岡会談」の章は、ここまで。
前芝確三(まえしば・かくぞう、1902~1969)というジャーナリトについては、よく知らなかったが、巧みな話術の持ち主だったようだ。そして、その話術は、鋭い観察力・洞察力、そして直観像記憶を思わせる確かな記憶力に支えられていたのだろう。
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