礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

鈴木閣下は聞くと見るとは大違いだ(安藤輝三)

2023-01-15 00:45:19 | コラムと名言

◎鈴木閣下は聞くと見るとは大違いだ(安藤輝三)

『特集文藝春秋 天皇白書』(一九五六年九月)から、鈴木貫太郎の回想記「嵐の侍従長八年」を紹介している。本日は、その五回目。昨日、紹介した「二・二六事件」の節のあと、次のように続く。

  思想の犠牲 安藤大尉
 この指揮者の安藤〔輝三〕大尉が二年前民間の友人と三人で訪ねて來たことはあつた。その時、安藤君は陸軍の青年将校の一部に提唱されていた所謂革新政策に就いていろいろ述べて私の意見を尋ねたのである。私はその意見の中〈ウチ〉三点を挙げて非常に間違つている事を述べて反駁した。第一に軍人が政治に進出し政権を壟断する事、これは第一明治天皇の御勅諭に反するものである。元々軍備は国家の防衛のため国民の膏血を絞つて備えているもので、これを国内の政治に使用するということは間違つでいる。政治上の事ならば警察があるからそれで沢山である。軍人が政治を壟断〈ロウダン〉するのはそもそも亡国の兆〈キザシ〉である。兵は陛下のものである。もし軍人が政治を論ずることが許されるなら、政治は甲、乙、丙、丁違つた意見を持つもので、それを論議して中庸に落着くことが政治の要諦である。もし武力をもつて論議することになれば、直ちに武力を政治に使うようになり、これは元亀天正の戦国時代と同じようになりはしないか。常備軍がこんなことに力を用いるようになるとしたら、外国と戦争する時、どれだけの兵力を用いられるか、甚だ危険な状態になるのではないか。そういうことから明治十五年〔一八八二〕の御勅諭〔陸海軍軍人に賜はりたる勅諭〕に軍人は政治に関与すべからざることと、お示しになつたと、こう考えられるのである。何にしても軍人が政治を壟断するというようなことは国家のため非常な罪悪となることだから謹しまねばならぬ。
 第二に貴君は総理大臣は政治的に純真無垢な荒木貞夫大将でなければいかんと云われるが、一人の人を何処までもその人でなければいかんと主張することは、天皇の大権を拘束することになりはしないか。日本国民としてこういうことは云えない筈だ。もしこれこれ数人の中からと云えば、陛下の御選択の余地がある。一人の人を指定することは強要することで、天皇の大権を無視することになる。これが貴君達の云い分のうちの第二の不当なところである。
 第三は、今陸軍の兵は多く農村から出ているが、農村が疲弊しておつて後顧〈コウコ〉の憂いがある。この後顧の憂いのある兵を以て外国と戦うことは薄弱と思う。それだから農村改革を軍隊の手でやつて、後顧の憂いなくして外敵に対抗しなければならんと云うわれるが、これは一応尤ものように聞える。併し外国の歴史はそれと反対の事実を語つている。いやしくも国家が外国と戦争する場合後顧の憂いがあるから戦〈イクサ〉が出来ないというような弱い意志の国民ならその国は滅びても仕方があるまい。フランスの例をひいてフランスの帝制が倒れ共和制になつた時、他の国はそれが伝染しては困るという訳で、フランスの内政に干渉し軍隊を差向けた。フランス国民は、その時どうしたかと云えば、たとえ政体はどうでも祖国を救わなければならないと敵愾心〈テキガイシン〉を振い起し、常備兵はもとより義勇軍まで加わつて国境の警備に就いて非常に強く勇敢に戦つた。その時のフランス兵の一人一人に就いて考えて見ると、自分の親兄弟は政治上の内訌〈ナイコウ〉からギロチンで死んでいる者もあり、又妻子が饑餓に瀕している者もあつた。ナポレオンが太つているのを見て、お前は太つているから私に食を与えよと強要した婦人もあつたくらいで、フランスの国境軍は熱烈に戦闘した。それが祖国に対しての国民の意気であつた。そして遂にナポレオンのような英雄が出てフランス国民を率いあれだけの鴻業を立てた。これはフランス歴史の誇りとしているところである。
 しかし日本の国民は外国と戦うのに後顧の憂いがあつて戦えない国民だろうか。私はそうは思わない。フランス人ぐらいのことが日本人に出来ない筈はない。その證拠に日清、日露戦役当時の日本人を見給え。親兄弟が病床にあつても又妻子が饑餓に瀕していても、御国のために征くのだから御国のために身を捧げて心残りなく奮聞して貰いたいと激励している。これが外国と戦う時の国民の敵愾心である。然るにその後顧の憂いがあるから戦争に負けるなどと云うのは飛んでもない間違つた議論である。私は全然不同意である。
 こんなように云つたら安藤君は今日はまことに有難いお話を伺つて胸がさつばりしました、よく判りましたから友人にも説き聞かせますと云つて喜んで帰つた。そして帰る途次友人に、どうも鈴木閣下は聞くと見るとは大違いだ、あの方は西郷隆盛にそつくりだ。これから友人の下宿に立寄つて皆にこの話をしてやろうと云つていたそうだ。私は少し強すぎると思う言葉さえ使つて、三十分と申込まれた面接時間を三時間も割いて昼食まで一緒にして語つた甲斐があつたと思つた。その後数日経つて安藤君から重ねて座右の銘にしたいからと云つて私の書を希望して来たので書いてやつたことがある。
 安藤君は確かにその時は私の意見に同意した。併し同志を説破するに至らず、却つて安藤君は意志が動揺したと評判された。首領になつていたから抜き差しならない立場に追い込まれてあんなことに至つたが、事後自決の決心もしたのだろうと思う。真に惜しいと云うよりむしろ可愛い青年将校であつた。間違つた思想の犧牲になつたと思うと気の毒千万である。【以下、次回】

 鈴木貫太郎は、安藤輝三大尉を相手に三時間にわたって議論し、安藤大尉は鈴木の意見に「同意した」という。鈴木は、「一介の武弁」を自任していたというが、実際は、教養があり弁も立つ軍人だったのではないか。

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