礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

1926年6月、加藤寛治海軍中将、金子堅太郎と会談

2023-01-29 06:22:24 | コラムと名言

◎1926年6月、加藤寛治海軍中将、金子堅太郎と会談

 インターネットで、金子堅太郎と加藤寛治について調べていたところ、「ふるさと横須賀 夏島憲法②」という記事を見つけた。以下のようにあった。

 憲法の草案ができると、夏島別荘は他に移転した。その後、夏島には、東京湾防備のために砲台が設けられた。大正三年(1914)に、所管が陸軍から海軍に移り、五年、追浜〈オッパマ〉海軍航空隊が開設された。七年から十五年までの埋め立ての結果、夏島は、かなり削られ、追浜と陸続きになった。十五年〔1926〕六月、横須賀鎮守府司令長官の加藤寛治(ひろはる)海軍大将〔ママ〕は、金子堅太郎と会談、話題が憲法起草の思い出に及び、一緒に夏島を視察している。これがきっかけとなり、同年九月十五日、「明治憲法起草地記念碑」が建立され、発起人に、かつての金子の同僚、伊東巳代治〈ミヨジ〉や海軍大臣の財部彪(たからべ・たけし)らも加わった。高松宮〔宣仁親王〕さまも、ご出席して除幕式が行われた。碑は御影(みかげ)石。外面は七十六個の石からなるが、これは憲法七十六カ条を表している。 基礎の石は二十二尺二寸一分一厘(一尺は約三十㌢)四方。これも憲法発布の「明治二十二年二月十一日」を意味している。さらに、夏島別荘の二十分の一の平面図や伊東の碑文が、銅板に刻まれていた。碑が低いのは、飛行機の発着のじゃまにならない配慮からである。戦後、碑の二つの銅版は何者かに持ち去られたが、航空隊跡にできた富士自動車KKの好意で、昭和二十六年(1951)二月十一日、復元した碑の除幕式が行われた。碑文は、当時の国会図書館長、金森徳次郎氏の筆による「明治憲法草案起草の跡」。ところが、二十八年八月に失われた鋼板二枚のうち伊東巳代治の碑文が、浦郷町〈ウラゴウチョウ〉の古物商で売られていたのを、田浦署榎戸(えのきど)派出所の森山巡査が千二百円で買い取り、元の位置に納め、同年十月九日再び復元披露が行われた、という。

 この記事で私が注目したのは、「十五年六月、横須賀鎮守府司令長官の加藤寛治海軍大将は、金子堅太郎と会談」という部分である。すなわち、金子堅太郎は、すでに一九二六年(大正一五)六月に、加藤寛治と会談している。しかも、この会談がキッカケとなって、同年九月に「明治憲法起草地記念碑」が建立されたというのであるから、金子・加藤の両人は「意気投合」した、と推察される。なお、横須賀鎮守府司令長官時代の加藤寛治は海軍中将であり、海軍大将となったのは、一九二七年(昭和二)四月である。
 なお、両人が、このときが初対面であったかどうかはわからない。それ以前から、交流があった可能性も否定できない。
 昨日のコラムで、飯田直輝氏の論文に、「金子と加藤は、昭和五年のロンドン海軍軍縮問題で加藤が統帥権をめぐる法解釈を金子に依拠して以来親交があった。」という一文があることを紹介した。いずれにしても、そこにある「以来」の二文字は、訂正される必要がある。
 ちなみに、インターネット情報によると、加藤寛治中将が横須賀鎮守府司令長官を務めていたのは、一九二四年(大正一三)一二月から一九二六年(大正一五)一二月までで、その後任は、岡田啓介大将であった。

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