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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

日本住血吸虫とエジプト住血吸虫

2025-04-30 00:06:02 | コラムと名言
◎日本住血吸虫とエジプト住血吸虫

 吉田貞雄『大東亜熱帯圏の寄生虫病』(1944)から、第五章第六節「本邦に於ける寄生虫病学の進歩」を紹介している。本日は、その四回目。

 マンソン氏裂頭絛虫の幼虫は一八八二年厦門〈アモイ〉に於てマンソン〔Manson〕の発見したものであるが、その前我が京都でショイベ〔Scheube〕が一馬丁から之を見出した。その後久しい間母虫が知れなかったが、約三十五年後の大正五年(一九一六年)山田司郎が実験的に母虫を育成発見し次いで大正八年〔1919〕奥村多忠が第一中間宿主が「ケンミヂンコ」であることを発見して本虫の全生活史を明かにした。爾来幾多の邦人研究家によつて本虫につきあらゆる事項が闡明せられた。
 之等古くから知られてゐた寄生虫の生活が明かにせらるゝと同時に、発育育感染の研究が未知の範囲にも進められ、茲に新しい寄生虫の発見が起つたのである。横川吸虫はその一つで、之は横川定が明治四十四年〔1911〕台湾に於て鮎の体内にある被襄幼虫を動物試験により育成して母虫を得、その後大正五年〔1916〕に至り武藤〔昌知〕によつて第一中間宿主が河貝子〈カワニナ〉であることが発見せられ、本虫の生活史は完全に闡明せられた。東洋毛様線虫は大正二年(一九一三年)神保孝太郎〈ジンボ・コウタロウ〉が新に発見命名したもので、その発育感染は一に〈イツニ〉邦人の研究によつて明かにせられた。
 この外人体寄生虫としては未だ重要性を認められてゐないが、之等発育感染の研究に伴ひ異形吸虫類似の数種、エキノストマ属二三種が新しく発見せられ、その生活史も明かにせられてゐる。之等は尾崎佳正〈ヨシマサ〉、西尾恒敬〈ツネヨシ〉、恩地与策、錦織正雄、越智シゲル、安藤亮、田部浩等の諸氏の研究に負ふところが多い。
 最後に最も興味あることは日本住血吸虫の生活史闡明である。本虫は明治三十七年〔1904〕桂田富士郎により発見命名されたのであるが、その生活史はその後間もなく大正二年(一九一三年)に至り宮入慶之助及び鈴木稔の両氏によつて、宮入貝が中間宿主でその体内に育成したセルカリアは貝を辞し、水中を游泳しながら宿主を求めてその皮膚から侵入し、所謂皮膚感染を行ふことが確証せられた。而して皮膚に侵入した幼虫が常住地たる肝門脈に移行する径路も亦多くの邦人により実験的に探究発見せられた。
 茲に面白い事は、日本住血吸虫に酷似した埃及〈エジプト〉住血吸虫と称するものは、一八五一年ビルハルツ(Bilharz)が埃及のカイロで発見したもので、その病害の激甚なため多くの学者が多年熱心に研究したにも拘らず、その生活史は毫も〈ゴウモ〉も知られなかつた。ところが、前に述べたやうに日本住血吸虫の生活史が発見せられた丁度その時、 偶〻英人レイパー〔Leiper〕なる有名な寄生虫学者が来朝してこの事実を知り、帰途埃及に立ち寄り研究した結果、一九一四年にその中間宿主を発見し、母虫発見後実に六十二年間全く不明であった生活史が漸く明かとなつた。是れ一に本邦学者の発見に刺戟誘導された賜〈タマモノ〉である。
 この外〈ホカ〉邦人のみの研究ではないが、外人のそれと共に発育感染の研究に貢献し、而も外人に優るとも劣ることのない業績が少くない。糞線虫、十二指腸虫、蟯虫、鞭虫、バンクロフト糸状虫〈シジョウチュウ〉、蛔虫、有棘顎口虫、矮小絛虫,縮小絛虫,肝蛭等の研究はその主なものである。就中蛔虫の発育感染径路につきては筆者が大正五六年(1916・1917)頃から英人スチュワート〔Stewart〕と全く無関係に研究し、その成熟卵が腸内で孵化脱殻〈ダッカク〉し、その仔虫が必ず肺臓を経由して一定の発育を遂げ、後再び腸に至り、初めて生長して母虫となる事実を発見して以来、本邦に於ても外国に於ても最も盛に研究せられたのである。
 又泰国で近時人体寄生虫の一として段々注目されて来た有棘顎口虫〈ユウキョクガクコウチュウ〉の発育感染につきては筆者は大正十三年〔1924〕頃より之が研究を始め、第一中間宿主が「ケミジンコ」である事を発見すると殆ど時を同じうして泰国でプロンマス一派も同一発見をなし、更に氏等は第二中間宿主が蛙、魚類であることも発見して本虫の生活史を明かにした。〈284~287ページ〉【以下、次回】

 本書の著者・吉田貞雄は、ここで「エジプト住血吸虫」という言葉を使っているが、同吸虫は、今日、「ビルハルツ住血吸虫」と呼ばれているようだ(ウィキペディア英語版「ビルハルツ住血吸虫」参照)。
 最後のほうに、「プロンマス一派」とあるが、このプロンマスとは、タイ国の医師チャレム・プロムマス(Chalerm Prommas、1896~1975)を指す。本書に登場する寄生虫学者のうち、日本人以外の東洋人は、たぶん、このプロンマスのみ。

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異形吸虫の第一中間宿主はヘナタリという巻貝

2025-04-29 03:12:37 | コラムと名言
◎異形吸虫の第一中間宿主はヘナタリという巻貝

 吉田貞雄『大東亜熱帯圏の寄生虫病』(1944)から、第五章第六節「本邦に於ける寄生虫病学の進歩」を紹介している。本日は、その三回目。

   第三期―蠕虫の発育感染の研究
 以上病原原虫学と医用昆虫学とは新しく第三期に芽生えたものであるが、本期に於て最も盛な研究は蠕虫で就中其発育感染の研究業績は本邦に於ける学界の華とも謂ふべきである。
 肝臓ヂストマ、肺臓ヂストマ、肥大吸虫、異形吸虫、マンソン氏裂頭絛虫の如きは何れも虫体が発見せられて後数十年の間その生活史が不明であつたのが悉く邦人の研究により闡明〈センメイ〉せられ、日本住血吸虫、横川吸虫〈ヨコガワキュウチュウ〉並びに之に近似の吸虫数種、東洋毛様線虫〈トウヨウモウヨウセンチュウ〉の如きは何れも我が国人の発見に懸り、その生活史も邦人により明かにせられた。今その概梗を述べよう。
 肝臓ヂストマは一八七四年印度で初めて発見せられて以来、各地に多く見らるゝにも拘らず、その発育感染の径路は全く不明の侭三十有七年を過ごし、明治四十四年(一九一一年)に至り小林晴治郎が淡水産小魚にその被嚢〈ヒノウ〉幼虫を発見し、動物試験により母虫を育成して茲に本虫の第二中間宿主が明かにせられた。その後間もなく第一中間宿主の「マメダニシ」が武藤昌知〈ショウチ〉(一九一八~九年)により実験的に確証され、茲に本虫の生活史が明瞭となつた。その結果本虫の研究は長足の進歩を遂げ、不明であつた事実が続々発見研究せらるゝに至つた。
 肺臓ヂストマは一八七八年アムステルダム動物園の虎に、その翌年台湾淡水で人体に発見せられて以来、三十七年後の大正四年(一九一五)中川幸庵〈コウアン〉が台湾新竹に於て第二中間宿主が蟹類であることを発見すると同時に、河貝子〈カワニナ〉中に一種のセルカリア〔cercaria〕を発見し、本虫所属のものにあらずやとの疑ひを持つてゐたが、その後安藤亮、小林久雄、及び筆者(大正四年〔1915〕)等により、河貝子が第一中間宿主であることが確認せられ、茲に本虫の発育圏が明かにせられたのみならず、その後横川定〈ヨコガワ・サダム〉の研究により本幼虫が宿主体内を移行し、常住地たる肺臓に達する径路、及び迷入して脳髄、眼窩、或は皮下組織に寄生する道程をも明かにした。
 肥大吸虫は一八四三年ブスク〔Busk〕がロンドンで一印度人から初めて発見したのであるが、本虫も亦中川幸庵により大正九年〔1920〕に至り初めてその中間宿主が平巻貝〈ヒラマキガイ〉であり、之から逸出〈イッシュツ〉したセルカリアは菱或は布袋草〈ホテイソウ〉に附着被嚢して後、宿主に入り、母虫となることが発見せられた。異形吸虫は一八五一年埃及〈エジプト〉のカイロにて一童児の屍体から発見せられ、極めて普通の寄生虫であるに拘らず、その発育史は春全く不明に属してゐたのを、昭和三年(一九二八年)に至り浅田順一が「へナタリ」と称する巻貝の一種にセルカリアを発見し、実験の結果本虫の第一中間宿主であることを確めた。而して第二中間宿主が鰡〈ボラ〉の類であることも明かにしたので本虫の生活史は全く明瞭となつた。
 本種並びに前種は共に母虫発見以来七十七年の久しい間、生活史が知れずにゐたのが、共に邦人の研究によつて明かにせられた事は誠に快心の至りである。〈282~284ページ〉【以下、次回】

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本邦に独特なツツガムシの研究

2025-04-28 00:36:00 | コラムと名言
◎本邦に独特なツツガムシの研究

 吉田貞雄『大東亜熱帯圏の寄生虫病』(1944)から、第五章第六節「本邦に於ける寄生虫病学の進歩」を紹介している。本日は、その二回目

   第三期―病原原虫学と医用昆虫学
 本期は明治の末葉から大正を経て昭和の今日に至る約三十有余年間で、本期間に於ては前期の寂莫〈セキバク〉に引きかへ、著しき躍進を見、その研究の如き質に於て優に世界に誇るべき業績が続出したのである。
 本期に於ては世界のそれと同じく第一に注目すべきは寄生虫学の範囲が拡張した事で、従来主とし蠕虫〈ゼンチュウ〉に限られてゐたのが、茲に新しく病原原虫の研究が勃興し、更に之に付随して医用昆虫学の研究が行はるゝやうになつた。病原原虫を最も初めに研究した主な人として動物学方面では,先づ飯島〔魁〕氏門下の宮島幹之助を推さねばならぬ。その後小泉丹〈マコト〉出でて最も多くの有力な業績を挙げた。この意味に於て両氏は日本に於ける病原原虫学の創設者と見るべきであらう。之と同じく医学方面では宮入慶之助〈ミヤイリ・ケイノスケ〉を先達に小川政修〈マサナガ〉がある。更にその後の研究者として稗田憲太郎、田邊操、森下薫〈カオル〉、大井司等はそれぞれ、満洲、朝鮮、台湾で有力な研究を続けてゐる。
 医用昆虫学は本邦ではあまり発達してゐないが、先づ宮島幹之肋、小泉丹、森下薫及び山田信一郎等のマラリアに関係ある蚊の研究は最も有益なもので、望月代次のフィラリアと蚊の関係の如き、又最近矮小絛虫及び縮小絛虫の中間宿主〈シュクシュ〉が諸種の昆虫であることが知られて来た。之等研究中最も著名なものは小林晴治郎〈ハルジロウ〉の蝿の研究であらう。又小泉浩吉氏の蝿の研究、小野定雄の牛蝿〈ウシバエ〉の研究、戸田亨の床虱〈トコジラミ〉研究の如き注目すべき業績である。
 本邦に独特で最も有名なものは恙虫〈ツツガムシ〉の研究で、長与又郎〈ナガヨ・マタオ〉、林直助〈ナオスケ〉、緒方規雄〈ノリオ〉及び川村麟也〈リンヤ〉の各教室の研究になる恙虫病々原体の発見研究は、最近に於ける最も偉大なる業績の一に数へられてゐる。田中敬助、長与又郎、宮島幹之助、川村麟也の諸氏並びにその教室の研究によつて本虫の生活史が明かにせられたことは、本邦学者の一つの誇りであらう。
 更に最近「イへダニ」や家畜・家禽〈カキン〉の「ダニ」類研究も相当盛で、第三期以前には見られなかつた現象である。〈280~282ページ〉【以下、次回】

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吉田貞雄著『大東亜熱帯圏の寄生虫病』を読む

2025-04-27 00:02:46 | コラムと名言
◎吉田貞雄著『大東亜熱帯圏の寄生虫病』を読む

 戦中から戦後にかけて、績文堂から、「自然科学選書」というシリーズが出ていた。そのうちの一冊、吉田貞雄著『大東亜熱帯圏の寄生虫病』(1944年11月)が、いま机上にある。貴重な労作だと思うが、この本はなぜか、国立国会図書館には架蔵されていない。
 本日以降、同書の一部を紹介してみたい。今回、紹介するのは、第五章「寄生虫病学輓近の趨勢」の第六節「本邦に於ける寄生虫病学の進歩」の全文である。

    第六節 本邦に於ける寄生虫病学の進歩

   第一期基礎時代と第二期上棟時代
 本邦に於ける寄生虫病学の進歩は全く世界に於けるそれと軌を一にしてゐる。只世界に於て約二世紀を要して発達・変遷して来た事柄が、日本では僅に五六十年の間に実現されてゐる。而して本邦に於ては第一期基礎時代と第二期上棟時代とはその間に判然たる区別がなく、この両期間は本邦寄生虫病学の揺籃期で、之が研究に与る〈アズカル〉人も少かつた。本期は肝臓ヂストマ卵(明治八年〔1875〕や肺臓ヂストマ(明治十二年〔1879〕)が発見せられたと云ふ明治十年〔1877〕前後から明治の末葉までの間で、この期間に活躍した人には動物学者として飯島魁〈イサオ〉、五島清太郎〈セイタロウ〉両先生、医学者としては桂田富士郎〈カツラダ・フジロウ〉、藤浪鑑〈フジナミ・アキラ〉両先生達が最も有力なもので、就中〈ナカンズク〉飯島先生は本邦寄生虫学の父と仰がるゝ人で、世界寄生虫学史上のルドルフィー〔Rudolphi〕とロイカルト〔Leuckart〕とを兼ねられた観がある。即ち氏は初め断片的に各人により各所に発見せられた寄生虫を研究同定すると共に、自ら多くの寄生虫を発見研究し、更に絛虫の発育研究に就いては助手と共に自体を之が実験に捧げ、成功せらるゝ等多くの業績により本邦寄生虫学の基礎を固められたのである。
 飯島先生は明治十二年〔1879〕独逸に遊び、ライプチヒに於て寄生虫学中興の祖たるロイカルトに師事し、同十八年〔1885〕帰朝後本邦寄生虫学の建設に力を尽くし、同二十一年〔1888〕「人体寄生動物編」なる書を出版せられた。是れ本邦に於ける寄生虫学に関する著書の初めである。爾来第三期に亘り斯学の研究と指導とに尽瘁〈ジンスイ〉せられ、本邦知名の寄生虫学研究者は殆ど皆その教へを受けてゐる。
 五島氏は飯島先生の指導により吸虫類の研究を始めて以来、幾多の業績を残され、就中日本産外部吸虫類の研究は最も有名な偉業である。氏も亦自己研究の外〈ホカ〉第三期に亘り斯学研究の指導に当られ、後日本寄生虫学会の創設に尽力し、第一回の会長となられた。
 桂田氏は病理学者として寄生虫の研究に造詣深く、殊に日本住血吸虫に関する研究は最も有名で、第三期に亘り益〻研究業績を挙ぐると共に、指導者として多くの門下生を斯界に送り出された。藤浪氏も亦病理学者として寄生虫を研究し、殊に日本住血吸虫に就いてはその右に出づるものがない程で、該虫の病理、発育、感染、予防等詳細を極めた一大業績を残された。第三期に亘り自己の研究と門下生の指導とに力を尽くされた事は前三氏と異るところがない。
 この外医学方面で本期間に活動したのはベルツ氏を初めとし、中濱〔東一郎〕、菅、清野〔謙次〕、山形、山極〔勝三郎〕、栗本、土居、三浦謹之助の諸氏があり、獣医学方面にはヤンソン、時重〔初熊〕、勝島〔仙之助〕の諸氏がある。〈277~280ページ〉【以下、次回】

 文中、「絛虫」はサナダムシのことで、ただしい読みはトウチュウだが、慣用読みはジョウチュウである。その慣用読みのために「條虫」「条虫」と書かれることがある。本書では、「絛虫」と「條虫」とが混用されていたが、引用にあたっては「絛虫」に統一した。
 最後のほうにある「ベルツ氏」は、お雇い外国人として知られるエルヴィン・フォン・ベルツ(Erwin von Bälz、1849~1913)のこと。本書では、その欧文表記は(Baelz)となっている。

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ドイツ機の残骸の上にあがって中をのぞいてみた(前芝確三)

2025-04-26 00:19:29 | コラムと名言
◎ドイツ機の残骸の上にあがって中をのぞいてみた(前芝確三)

 前芝確三・奈良本辰也著『体験的昭和史』(雄渾社、1968)から、「モスクワ攻防戦」の章を紹介している。本日は、その後半。
 
 それからずいぶんたくさんのドイツ機を、搫墜したようにいうが、本当かという質問が情報局の記者会見で外国記者団から出た。ウソだと思ぅなら見せてやろうというわけで、ある日撃墜したドイツ機の残骸をそのままにしておいて、車でぐるっとモスクワの周辺を回って見せてくれた。死屍累々、いや残骸累々です。そのとき私は撃墜されたドイツ機の上にあがってなかをのぞいてみた。ところが、あくる日のプラウダを見ると、私がドイツ機の残骸の上にあがっている写真が説明入りでのっている。いうまでもなく、当時日本はドイツの盟邦でしょう、その盟邦の特派員が、ドイツ機の残骸の上にあがっているのだから、これほど的確な証拠はないというわけです。これには一本まいったね。(笑)
 そんなことで、夏の間は空襲もだんだん間遠【まど】うになるし、レニングラード、キエフ、オデッサなどの攻防戦や、モスクワのはるか西方では死闘が展開されていたが、モスクワ市中は割に平静でした。ところが秋が迫ってくるとともに、ドイツ軍はモスクワ正面に必死の攻撃をかけてきた、そのときはもう空軍と地上部隊の緊密な連携作戦で、一挙に中央突破をめざす猛烈な攻勢です。当時のモスクワには実に悲壮な切迫感がみなぎっていた。モスクワ防衛司令部は「各ビルを要塞に、各窓を銃眼に」という布告を出す。市民の間では「ナポレオンには焼け野原、ヒトラーめには瓦礫の山」などという調子のいいスローガンが叫ばれる、ヒトラーの軍隊がはいってくるなら、最後まで戦い、撤退するときには、みずからモスクワ全市を爆破しようというわけだ。実際そういう決意だったようです。去年ジューコフ元帥が、モスクワ攻防戦の回顧録を書いたが、あれを読んでみれば、それがどんなに捨て身の惨烈な防衛戦だったかがわかるでしょう。
 十月上旬には、モスクワに対する半円形の包囲態勢がますます圧縮されてくる。モスクワでは老幼婦女子の疎開が行なわれはじめた。しかし、戦闘力のある市民はすべて踏みとどまって戦え、というわけです。七月三日のスターリンのアピールにこたえて、すでにゲリラ戦の訓練は市内の公園や郊外の草原で行なわれていたのでした。私はしばしばその訓練をみたが、一見きわめて、のんきなものです。モスクワの八月初旬はまだ相当暑い。訓練に参加している市民たちは、ほとんど上半身裸で、なかには新聞紙を折ってつくったかぶとみたいな帽子をちょこんと頭にのっけてるのもいる。そうした連中が、小銃をかついでワッショ、ワッショとやってるんです。手投げ弾を投げるけいこもやっていた、ドイツの戦車が市中に突入してきた場合、窓から火炎びんを投げてそれを爆破する訓練もしきりにやっていました。私は、ドイツの歯まで武装した機械化部隊に、紙の帽子などかぶったゲリラがどの程度立ちむかえるかと、はなはだ心もとなく思いながら見ていた。しかし地方の戦場では、ゲリラが後方攪乱に着々と成果を上げているらしい。そのとき私がはじめて気づいたのは、ソ連の農業の機械化、これが相当モノをいったということです。ソ連にはトラクターやコンバインの操縦技術、修理能力を身につけたコルホーズ農民がかなりいる、そうした連中がドイツ軍が遺棄した戦車を手早く修理し、それに乗っかって、ドイツ軍部隊の後方に、あるいは空軍基地に突っ込む。こうして、相当の戦果をあげていたんです。しかしモスクワの危機は刻々せまってくる。

「モスクワ攻防戦」の章は、ここまで。
 文中に、「去年ジューコフ元帥が、モスクワ攻防戦の回顧録を書いたが」とある。前芝・奈良本対談があった年がハッキリしないが、仮に1968年とすると、ジューコフ元帥が「モスクワ攻防戦の回顧録」を書いたのは、1967年ということになる。
『体験的昭和史』(雄渾社、1968)という本は、なかなか興味深い本で、さらに紹介を続けたいと思っているが、明日は、いったん話題を変える。

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