礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

小坂ダムの決壊(1907)とマツサカ タダノリ

2018-02-28 03:26:02 | コラムと名言

◎小坂ダムの決壊(1907)とマツサカ タダノリ

 ひとつの事件が、ひとりの人生を変え、人生を変えられたその人物が、そのことによって、結果的に、歴史を動かす人物となる。――余人は知らず、どうも私は、こういったストーリーに惹かれるところがある。
 本日、紹介する松坂忠則〈マツサカ・タダノリ〉もまた、ひとつの事件によって、その人生を変えさせられた人物のひとりである。
 松坂忠則(一九〇二~一九八六)は国語学者で、カナモジカイ理事長・国語審議会委員などを務めた。『国字問題の本質』(弘文堂、一九四二)、『ウタデ オボエル 現代かなづかい』(カナモジカイ、一九四八)などの著書がある。論文・著書などに、マツサカ タダノリと署名していることも多い。
 本日、紹介するのは、その主著『国字問題の本質』の第一章「文字から見た現代文化」の第一節「国民の読書力」の冒頭部分である。この本には、「まえがき」的なものがないので、この冒頭部分が、「まえがき」の役割を果たしていると言えなくもない。
 なお、地名などのカタカナ表記、「しまった」、「とゆう」などの表記は、原文のままである。

 明治四十年〔一九〇七〕九月十七日の夜明け前のことである。秋田県コサカ村〔鹿角郡小坂村〕の山の上のダム〔小坂鉱山元山ダム〕が切れて、数百の家屋と、百名近くの人命とが、一夜のうちに失われてしまった。私のうちもまた、あくる日からは、一物も持たぬ一家となりはてた。その、あくる年に、私は小学校へあがった。父は病身で、それまでは大体、家作からのヤチンたけでくらしていたので、それから後は、長いあいだ、苦しい生活がつづけられた。
 六年を出たとき、父が奉公にやるとゆうのを、ないて頼んで高等科へ入れてもらったが、それも、家計を手つだうために休みがちの一年間をおくって、十四歳の春からはヌリモノの職人に仕立てられた。
 小学校の同級生であっただれかれが、今は中学校で自分の知らない高級な学問を教わっているのだ‥‥と思うことは、たまらなく、さみしく、いらだたしい気持のものであった。よしっ、そんなら僕は、一人で本を読んで、かれらにおくれないだけのベンキョウをしようと決心した。夜仕事を終えてから、ウルシにやけてギラギラと光る手で、「中学校」の代用品たるべきいろいろの本を、もえるような心で読んだものであった。
 ところが、それらの本を見て第一におどろいたことは、小学校で教わらなかったカン字の多いこと、および、教わったカン字であっても、教わった読み方をもってしては読みくだせないコトバが非常に多いことであった。私は、一字一字、たんねんに字引を引いた。「ひとりで学問するものは、字引を引くことをメンドウがってはならぬ」これが私の、その当時、みずからをいましめるために設けた手製の「金言」であった。実際、私は字引を引く手数をおしまなかった。本の字を、右ユビで左のタナゴコロに書いてみて、たとえば木ヘンに八画の字だと思って引いて、もし見つからなかったら、さらに七画を、さらに九画をさがすのである。
 ところが、どんなに手数をかけても、ついに判らすじまいの文字も、決して少くはなかった。たとえば、「仄」と「厄」の二字において、仄は「人」の部にあり、厄は「厂」の部にある。「彊」は弓にあって、「疆」は田にある。「牢」は牛に、「宕」はウかんむりに、「憲」は心にある。かような例は、カン字の字引の中にはザラにある。また、丐、叟、尨のように、何にぞくすのか見当もつかぬ字も、すこぶる多い。
 それでも、知らぬ字を「知らぬ字」として承知しているのは、まだよい。時には、思いちがいを気づかずに誤ったままに承知してしまう場合がある。いまおぼえている二三の実例をあげるならば、「台詞」を私は「セリフ」とは気づかす、「ダイシ」とゆうコトバだと思いこんで長い間すごした。また「草莽」を「奔」からおしはかって「ソーホン」と思いこんでしまったがために、国語の字引の「ソーホン」の個所を引いたが出てこず、結局、イミもよくわからず、発音も誤って、これは最近まで持ちこした。代数の「羃」とゆう文字は、イミだけを代数の本で理解して、読み方がわからず、名無しの記号として過してしまった。その後、あるザッシに、いなかの青年が「幾何」を「イクバク」と読んだとゆうワライ話が出ているのを見て、私は、このようなことをわらって済ませる人々の心をうらめしく思った。
 私のつまらぬ思い出話は、これでやめる。しかし、私は、こうした。私と同じ苦しみにあえいでいる小国民たちが、今もなおいかに多いかを、さらに論じなければならない。

 松坂忠則という国語学者について詳しくはないが、戦前から「カナモジカイ」に参加し、戦中戦後、国語の改良に努めたことは知っている。彼の国語学者としての原点は、少年時代に苦学・独学し、国語の問題点を強く意識したことにあった。
 さらに、彼が苦学・独学しなければならなかった原因を問えば、それは、一九〇七年(明治四〇)九月一七日に、秋田県鹿角郡小坂村の小坂鉱山元山ダムで起きた「ダム決壊」に遡る。
 すなわち、一九〇七年に起きたダム決壊が、松坂忠則という人物の人生を変え、それによって苦学・独学を余儀なくされた松坂が、その苦学・独学をキッカケに、国語の問題点を意識した。そしてのちに、「カナモジカイ」に加わり、結果的に、国語の改良に貢献することになったのである。
 なお、インターネット情報によれば、このダム決壊による被害は、流失家屋一六〇戸、罹災者一千余名、死者五一名、負傷者八三名に及んだという。また、のちに舞踊家として知られることになる石井漠(一八八六~一九六二)は、当時、小坂鉱山の庶務課におり、小学校の講堂に収容した死体の「番人をやらされた」という。

*このブログの人気記事 2018・2・28

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西部邁氏は、なぜ「保守主義者」になったのか

2018-02-27 08:16:39 | コラムと名言

◎西部邁氏は、なぜ「保守主義者」になったのか

 西部邁氏に対する追悼の文章が、次々と発表されている。西部氏が、自殺の直前に校了された本も、これから刊行されると聞いた。
 私は、西部邁氏の思想を、あまり評価していない。「過激派」であった氏が、「保守主義者」になった理由がよくわからないからである。あるいは、その理由に関する氏の説明に、釈然としないものを感じるからである。さらに、西部氏が、「保守主義者」として強調する「伝統」なるものの実体が、サッパリわからないからである。
 これらについては、五年近く前、このブログのコラムで書いたことがことがある(「過激派にして保守派の西部邁氏にとっての伝統とは」2013・7・30)。このとき、西部邁著『破壊主義者の群れ』(PHP研究所、一九九六)に収められていた、「戦後五十年を顧みる」(初出、一九九五年四月)という文章から、その一部を引用した。本日は、同じ文章から、〝保守への目覚め――欠乏し欲望するものとしての「伝統」〟という節の全文を引いてみたい。

 保守への目覚め――欠乏し欲望するものとしての「伝統」
 三十歳近くまで裁判にかかわっていた若者は、当時、大学の教師にしかなれないという事情にあった。少なくともその傾向が強かった。私もそうなってしまったのだが、皮肉なことに、近代経済学者ということで大学助教授になるちょうどそのころに、近代経済学は経済にまつわる社会的、政治的、文化的な要因を、そしてそれらの要因に強く関係してくる歴史的な影響を、いささかも説明できない、そもそもそれらを説明するための概念枠組を欠いている、ということに私は無関心ではおれなくなった。したがって私は社会経済学者となり、日本の経済学界から逸脱するのやむなきに至った。
 三十代、日本から逸脱してみる必要を感じ、学者として外国体験をいくどか重ねた。それまでにも予感していた思想上のコンバージョンが、転向というより改心が、実際に起こったのはイギリス滞在においてであった。つづめていうと、その保守的な精神風土のなかで、「革命と自由」のことを忘れえぬものは保守主義者にしかなりえないのだということを、私は、ほとんど悟りのような境地において、知ったということである。
【一行アキ】
 リボリューションつまり革命とは、歴史に内蔵されている(はずの)良き価値・規範を「再び(リ)」「巡りきたらせること(ボルーション)」である。そのようなものとしての価値を伝統と呼ぶなら、伝統の「再巡」としての革命を願うものは歴史的な秩序を保ち守るという意味で保守派たらざるをえない。
 自由についても然りであって、秩序のない自由は放縦にすぎない。そして、秩序が大事だといっても、それが自由を抑圧するようでは元も子もない。自由と両立する秩序、それは唯一、伝統としての歴史的秩序である。なぜといって、自由の原資ともいうべき人間の個性は、伝統という精神的土壌に根差すときにはじめて、存分に育つものと思われるからである。
 革命主義者も自由主義者も、「革命と自由」の根拠を尋ねつづけた挙句には、保守主義者になるほかない、これがイギリス人たちの発見した大人の知恵であるといってよい。むろん、伝統が具体的に何であるかは、第一にそのときの状況に依存し、第二にそれを論んじるものたちの会話・議論・討論の推移に依存する。つまり伝統の実体を教条として示すことが難しい以上、保守派の人間はおのれを「主義者」としては表現できないのが普通である。しかし伝統を破壊することに進歩を見出しような時代にあっては、たとえばその典型ともいうべき戦後日本においては、伝統の発掘と定着をよびかけるために、保守的人間はあえて「主義者」として振る舞わざるをえないのである。
【一行アキ】
 ここで戦後という時代に北海道という場所で育った私は、自分が保守主義者であることについて、いささかの特権があると思わずにはおれない。つまり何かの欠乏(ウォント)にあえいでいるものがそれを激しく欲望(ウォント)するのであるが、私の場合、欠乏し欲望するものが伝統なのである。より正確にいうと、自分の個性と自分たちの時代を安定かつ豊饒にするものとしての伝統は何かと問いつづけるプライベートな思索とパブリックな討論、その欠乏に私ははなはだしい不満足を覚え、その充足を著しく欲望するということだ。
 かくして私はみずから保守主義者を名乗ることになった。大学という場所が保守主義者にとってかならずしも適切な場所ではないと判断して、七年前に、大学を辞めた。時々ふざけ半分に反動主義者を自称するようなことをしながら、当人としては快活に保守思想家の道を歩んでいるつもりでいる。いや、伝統の発見においても確立においても自分のなしうることはほんのわずかだという悲哀の気分がなくもないのだが、時代の瘴気【しようき】に中毒するよりはずっとましだと納得しているのである。

 何度、読んでも、よく理解できない文章である。
 外国滞在中に、日本の伝統文化を再確認したという話はよく聞くが、西部氏の場合は違う。イギリスに行って、その「保守的な精神風土」に接し、それによって回心(conversion)が起きたと言っている(最初の下線部分)。こういう保守主義者というのは、あまり例がないのではないか。
 また氏は、革命主義者も自由主義者も、「革命と自由」の根拠を尋ねつづけた挙句には、保守主義者になるほかないと述べ(二番目の下線)、これを、「イギリス人たちの発見した大人の知恵」としているが、これは単に、「西部邁氏の発見した転向者の知恵」にすぎないのではないか。
 一番、気になるのは、「私の場合、欠乏し欲望するものが伝統なのである」(最後の下線)というところである。これは要するに、自分には、「伝統の実体」として提示できるようなものはない、と言っているようなものではないか。
 西部邁氏は、本当に「伝統」を重んずる「保守的人間」だったのだろうか。「保守主義者」を振る舞い、あるいは「反動主義者を自称」することによって、論壇で一定の地位を保つことになった、「過激な思想家」ではなかったのか。

*このブログの人気記事 2018・2・27(10位以外は二・二六事件関係)

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北一輝の無罪論は成り立ちにくい(津久井龍雄)

2018-02-26 02:22:31 | コラムと名言

◎北一輝の無罪論は成り立ちにくい(津久井龍雄)

 津久井龍雄は、その著『右翼』(昭和書房、一九五二)の中で、北一輝という人物について、多くの筆を費やしている。このブログで、それらをすべて紹介するわけにはいかないが、すでに、二「右翼の回想」の(5)「猶存社・行地社・老壮会」、および(8)「奔騰するテロリズム」については、それぞれ、関連する節を選んで紹介済みである。
 本日は、同書の三「右翼の人々」の(8)「北 一輝」から、「二・二六と北の立場」の節を紹介してみたい。

   二・二六事件と北の立場
 二・二六蹶起の趣意は、詮じつめれば君側の奸〈クンソク・ノ・カン〉を徐くということにつきるようだが、君側の奸を徐くだけなら、このような大規模の騷擾を必要とはしないだろう。これによって戒厳令を布かしめ、理想の人物を総理大臣に推し、庶政の革新をやらせようというのであれば、正に『日本改造法案大綱』のプログラムの通りだが、それにはもっと周到な用意が要る。北〔一輝〕、西田〔税〕等が時機尚早をとき、準備不十分を主張したことは当然だが、然らばいつがその適当な時機であるか、また、そのために普段どの程度の努力をしていたかということが此の場合問題にならなければなるまい。『日本改造案』を見ても、戒厳令を布き〈シキ〉、憲法を停止し、議院を解散したのちのプログラムはきわめてあきらかに示されているが、肝心のどうしてそこまで事を運ぶかの戦略戦術については説くところがない。右翼の革命理論が、左翼のそれに比し一籌を輸する〔一歩ゆずる〕ゆえんであろうか。
 二・二六事件で収容され、当局の訊問に答えた中で北は次のように述べている。
《私は戦敗から起る革命といふ様なことは、ロシアや独逸の如き前例を見て居りますので何よりも前に日米間、日支間を調整して置くことが最急務と考へまして、西田〔税〕や青年将校等に何等関係なく、私独自の行動を執った次第であります。幸か不幸か、二月二十日頃から青年将校が蹶起することを西田から聞きまして、私の内心に持って居る、まづ国際間の調整より始むべしといふ方針と全然相違もしておりますし、且つ何人〈ナンピト〉が見ても時機でないことが判りますし、私一人心中で、意外の変事に遭逢〈ソウホウ〉したといふ様な感じを持つて居りました。然し満洲派遣といふ特殊の事情から突発するものである以上、私の微力は勿論、何人も人力〈ジンリョク〉を以て押へ得る勢いではないと考へ、西田の報告に対して承認をあたへましたのは私の重大なる責任と存じております。殊に五・一五事件以前から其以後も、何回となく勃発し様とするやうな場合の時、常に私が中止し勧告をしてきたに拘らず今回に至つて、人力致し方なしとして承認を与へましたのは愈々責任の大なるを感ずる次第であります。》
 右の陳述のうち、西田の報告に対し承認をあたえたというのはどういうことであろうか。普通の常識では、此の言葉によって北が騒擾をおこすことを肯定した、つまりやってもよろしいと承認したということになるが、そうなると北の将校との関係はきわめて深いものということになり、一部の無罪論などは成り立ちにくいことになる。また、五・一五以前から蹶起を押えてきたというから、その点でも、北の指導力は大きかったといえるが、それから以後二・二六に至る数年間に、革命遂行のためのどのような工夫、工作がめぐらされてきたのであろうかが、関心の種になる。

 明日は、いったん話題を変える。

*このブログの人気記事 2018・2・26(6位以外は二・二六関係、8位がやや珍しい)

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二・二六事件「蹶起趣意書」(津久井龍雄『右翼』より)

2018-02-25 01:03:30 | コラムと名言

◎二・二六事件「蹶起趣意書」(津久井龍雄『右翼』より)

 本日も、津久井龍雄著『右翼』(昭和書房、一九五二)の紹介。本日、紹介するのは、二「右翼の回想」の(8)「奔騰するテロリズム」から、「二・二六の蹶起趣意」の節(全文)である。
 節の後半は、「蹶起趣意書」の引用となっている。用字、表現などが、一般に知られているものとは異なる。この違いの拠って来たるところは不明だが、ここでは、あくまでも、津久井本にある形で紹介する。

   二・二六の蹶起趣意
 二・二六事件は正に我が陸軍在って以来の大事件であるとともに、それの及ぼした政治的社会的影響は甚大である。前に起った血盟団や、五・一五事件に比してその規模の大なることはいわずもがな、斎藤〔実〕内大臣、渡辺〔錠太郎〕教育総監、高橋〔是清〕大蔵大臣等が殺され、一時は岡田〔啓介〕首相も同様の厄にあったと伝えられたのだから、一世を聳動〈ショウドウ〉したのも無理はない。
 しかしこれほどの騒ぎも、結局は軍部の政治的発言を一段と助長し、即ち軍部の独裁性に一歩を進めたというのみで政治革新、社会革新という点には殆ど寄与することとがなかったのである。二・二六蹶起の趣旨は次の蹶起趣意書に見ても明かであるけれども、彼等が天皇中心といい、国体明徴とい»うことの趣旨は殆どウヤムヤとなり、単に軍の上層部をして政治干与にますます増長させる結果となったのは遺憾である。

   蹶起趣意書

謹んで惟る〈オモンミル〉に我が神洲たる所以は万世一神たる天皇陛下御統帥の下に挙国一体生成化育〈カイク〉を遂げ終に八紘一宇〈ハッコウイチウ〉を完う〈マットウ〉するの国体に存す。この国体の尊厳秀絶は天祖肇国〈チョウコク〉神武建国より明治維新を経て益々体制を整へ今や方に〈マサニ〉万邦に向つて開顕進展を遂ぐべきの秋〈トキ〉なり。
然るに頃来〈ケイライ〉顕に〔ママ〕不逞凶悪の徒簇出〈ソウシュツ〉して私心我慾を恣〈ホシイママ〉にし至尊絶対の尊厳を蔑視し僭上これ働き万民の生々化育を阻碍して塗炭〈トタン〉の疾苦を呻吟せしめ随つて外侮外患〈ガイブガイカン〉日を逐うて激化す。所謂元老・重臣・軍閥・財閥・官僚・政党等はこの国体破壊の元兇なり。倫敦〈ロンドン〉海軍条約並びに教育総監交迭〈コウテツ〉に於ける統帥権干犯、至尊兵馬〈ヘイバ〉大権の僭窃〈センセツ〉を図りたる三月事件、あるひは学匪・共匪・大逆教団等々と利害相結んで陰謀至らざるなき等は最も著しき事例にして滔天〈トウテン〉の罪悪は血泣憤怒〈フンヌ〉寔に〈マコトニ〉譬へ難き所なり。中岡〔艮一〕、佐郷屋〔留雄〕、血盟団の先駆捨身、五・一五事件の憤騰、相沢〔三郎〕中佐の閃発〈センパツ〉となる。寔に故なきに非ず。而も幾度か頸血を濺ぎ〈ソソギ〉来つて今尚些かも〈イササカモ〉懺悔反省なく然も依然として私権自慾に居つて苟且偸安〈コウショトウアン〉を事とせり。露支英米との間〈カン〉一触即発して祖宗遺垂〈イスイ〉のこの神洲を一擲〈イッテキ〉破滅に堕らしむる〈オチラシムル〉は火を賭る〈ミル〉より明かなり。内外真に〈マコトニ〉重大危急今にして国体破壊の不義不臣を誅戮〈チュウリク〉し稜威〈リョウイ〉を遮り御維新を阻止し来れる奸賊を芟除〈サンジョ〉するに非ずんば皇謨〈コウボ〉を一空せん。宛かも〈アタカモ〉第一師団出動の大命渙発せられ年来維新翼賛を誓ひ殉国捨身の奉公を期し来りし帝都衛戍〈エイジュ〉の我等同志は、将に〈マサニ〉万里征途に上らんとして而も省みて内の亡状に憂心転々禁ずる能はず。
君側の奸臣軍閥を斬除〈ザンジョ〉して彼の中枢を粉砕するは我等の任として能く〈ヨク〉なすべし。臣子たり股肱〈ココウ〉たるの絶対道を今にして尽さずんば破滅悖倫〈ハイリン〉を飜すに由〈ヨシ〉なし、茲に同憂同志機を一にして蹶起し奸賊を誅戮して大義を正し国体の擁護開顕〈カイケン〉に肝脳を尽し以て神洲赤子の微衷〈ビチュウ〉を献ぜんとす。皇宗の神霊冀くば〈コイネガワクバ〉照覧冥助を垂れ給はんことを。
 昭和十一年二月二十六日    陸軍歩兵中尉 野中四郎外同志一同

 趣意書中、「顕に」とあるのは、文脈から見て、「頓に」〈トミニ〉の誤植ではないかと思ったが、そのままにしておいた。

*このブログの人気記事 2018・2・25

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大川周明、上海に北一輝を訪ねる(1919)

2018-02-24 01:09:47 | コラムと名言

◎大川周明、上海に北一輝を訪ねる(1919)

 昨日の続きである。津久井龍雄の『右翼』(昭和書房、一九五二)の、二「右翼の回想」の(5)「猶存社・行地社・老壮会」から、「歴史的な上海の二日間」の節の全文を紹介する。
 節の大半は、大川周明が北一輝を回想した文章の引用である。津久井が引用しているのは、「北一輝君を憶ふ」という文章だと思うが、初出は確認はしていない。

   歴史的な上海の二日間
 満川亀太郎は北〔一輝〕や大川〔周明〕ほどに世間的に有名ではないが、深い学殖と温厚な人格とで同志の中では夙に推服されていた。そのレーニン観などは極めて卓抜なもので、俗流愛国主義者の鋳型にはまったような見解とは全く類を異にするものであった。なお大川が北を迎えに行った当時のことについて、大川自身が昨年の『改造』十一月号に書いているから、少し冗煩〈ジョウハン〉のきらいがあるが之を左に録して見ることとする。
《北君は私に二つの形見の品を遺してくれた。その一つは白の詰襟の夏服一着で、上海での私との対面の思出を籠めた贈物である。大正八年〔一九一九〕の夏のこと、当時吾々は満川亀太郎君の首唱によりて猶存社を組織し、平賀磯次郎、山田丑太郎、何盛三〈ガ・モリゾウ〉の諸君を熱心な同志として、牛込南町に本部を構へて、改造運動に心を砕いていた。そして満川君の発議により上海に居る北君を東京に迎へて、猶存社の同人にしたいといふことになり、然らば誰が上海にゆくかといふ段になつて、私が其選に当つた。此事が決ったのは大正八年八月八日であったので、満川君は甚だ縁起がよいと大いに欣んだ。決つたのは八日であるが、なるべく人目を避けて渡航するがよいといふので、適当な便船を探すために出発がおくれ、愈々肥前の唐津で乗船することとなつたのは二十日過ぎであつた。其船は天光丸といふ是亦縁起のよい名前の貨物船で北海道から鉄道枕木を積載して漢口に向ふ途中、石炭補給のために唐津に寄港するのであつた。私が唐津に着いた日は稀有の暴風で、そのため天光丸の入港が遅れ、私は不思議な夢を二度見ながら,物凄い二晩を唐津の宿屋で過した。さて愈々乗船して、まだ風波の収まらぬ海上を西に向つて進んだが、揚子江に近づいた頃、機関に故障を生じて航行が難儀になつた。本来ならば私は揚子江口の呉淞〈ゴショウ〉で上陸し、呉淞から陸路上海に往く筈であつたが、機関の故障を修繕するため、天光丸が予定を変更して上海に寄港することになつたので私は大いに助かつた。そして上陸に際して面倒がおこつた場合は、般長が私を鉄道枕木の荷主だと証言してくれる筈であつた。私の容貌風采は日本ではとても材木屋の主人といつても通るまいが上海でなら通せるだらうと思つた。併しその心配も無用であつた。
 上海で始めて北君に会ったとき、私は先づその極端に簡単な生活に驚いた。着物といへば白い詰襟の洋服一着だけ、洋服を洗濯に出した時は、痩せたからだに猿又〈サルマタ〉一つであつた。到着の晩、吾々は太陽館といふ宿屋の一室に床を並べ徹宵〈テッショウ〉語り明かし、翌日は仏〔フランス〕租界の陋巷〈ロウコウ〉にあつた北君の寓居で語り続け、北君から出来るだけ早く日本に帰るといふ約束を得て、翌朝直ちに長崎に向ふ汽船で上海を去つた。この二日は私にとりて決して忘れ難い二日であるが、それは北君にとりても同様であつたことは、後に掲げる北君の手紙を読んでも判るし、また白の詰襟の洋服を形見に遺してくれたことが最も雄弁に立証する。》

*このブログの人気記事 2018・2・24(8位に極めて珍しいものが入っています)

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