礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

政府当局は神社は宗教的信仰の対象ではないと云つてゐる

2019-10-31 02:05:41 | コラムと名言

◎政府当局は神社は宗教的信仰の対象ではないと云つてゐる

 伊藤義賢著『根本的にして最後の帰結を明示せる 神社と真宗教徒』(竹下学寮出版部、一九三四)から、「一〇 結論」を紹介している。本日は、その二回目。

 三、現在の神社は宗教的のものである。其理由に二つある。
 第一に祭神の本質(国家の祖先)を誤解して禳災招福【つみわざはひをのぞきふくをさづく】の霊能ある神としてゐるもので、恰【あたか】も水蒸気を錯覚して煙と思つてゐるやうなものである。例【れい】せば天理教が諾冊【だくさつ】二尊等の国祖を天理王命【てんりおうのみこと】と該称して之を万物造化の神となし、人間万物皆此神の借物であると云つてゐるものと異なる思想ではない。故【ゆゑ】に斯く信じてゐる祭祀者【まつりて】の信仰から云へば共に祖先を宗教神【しうけうじん】としてゐるものである。被祭祀者【まつられて】から云ふならば神社の神も天理教の神も同一の神で国祖であるから宗教的の神に非ずと云ひ得るも、 祭祀者の信仰態度から云ふときは、両者は共に本質を見誤つて信仰の対象となし、祈願的祭典の対象としてゐるから宗教神となるのである。
 第二に已【すで】に祭祀者【まつりて】は被祭祀者【まつられて】(祭神)の本質を見誤つて禳災招福【つみわざはひをのぞきふくをさづく】の信仰的祭神としてゐるから神社の祭典内容たる祝詞【のりと】も祈願文【きぐわんもん】であり、大祓詞【おほはらひのことば】も罪障消滅の宗教信仰の宣示であり神拝作法も宗教的意義であり、其他の設備も無論悉く信仰的に造られ、大麻【おふだ】、神札神像【しんさつしんざう】、護符等皆是れ禳災招福【じやうさいせうふく】の神の標示である。以上は現在神社の内容事実から言つたものであるが、大審院の判例にも、「神社ノ祭典ニ関スルコトハ宗教上ノ事項ナリ」(明治三四、九、六五)と云つてゐる。之も現在神社の事実から観た判例で、何人【なんぴと】も否【いな】むことの出来ない法律的のものである。是れ皆現在神社の事実がものを云はせてゐるのであるから仕方があるまい。
 四、天理教等の宗教が国家の祖先を禳災招福【じやうさいせうふく】の能力ある宗教神と見誤つてゐるといふことは彼等の自由を許しても、国民に信教の自由を許してゐる国家が祖先を禳災招福【じやうさいせうふく】の能力ある宗教神として祭祀し、国民に此宗教神を敬拝せよと命ずるならば国家が宗教を経営することゝなつて、爰【こゝ】に信教自由に対し大【だい】なる矛盾を生ずるのである。恰も国民に煙草製造販売の自由を許しながら政府が煙草専売を行はふとするが如きものである。国民に信教の自由を許してゐる国家としては信仰対象たる禳災招福【つみわざはひをけしふくをさづく】の神を祭祀すべきではない、其れでは矛盾となるのみならず国民全体に崇敬を普及させることが出来なくなるからである。信仰に関することは自由なるが故にである。故に国家は神社の神を国民道徳の崇敬対象たらしむべく神社法の根本的確立の急を要望して息【や】まぬのが我々国民である。
 五、現在の神社内容の事実と云ひ、大審院の判例と云ひ、現在の神社は宗教的のものであることには一点の疑ひはない。然るに近年歴代の政府当局は異口同音に神社は宗教的信仰の対象ではないと云つてゐることは吾人の期待に合致はするが、現在神社の事実は之に反して禳災招福【つみわざはひをけしふくをさづく】の霊能ある神として祭典を行はしめてゐる政府当局それ自身に取りては大【だい】なる矛盾となつてゐる。故に神社をして此矛盾なき神社たらしむべき責任は一に〈イツニ〉政府に在りて国民に存しない。【以下、次回】

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真宗教徒は現世の福利を神仏に祈らない

2019-10-30 03:10:07 | コラムと名言

◎真宗教徒は現世の福利を神仏に祈らない

 伊藤義賢著『根本的にして最後の帰結を明示せる 神社と真宗教徒』(竹下学寮出版部、一九三四)の紹介を続ける。本日は、「一〇 結論」を紹介してみたい。

   一〇 結  論
 以上全篇を熟読玩味せられた読者は、恐らく脳裏に左記の理解ができたことゝ信ずる。
 一、真宗教徒が諸神諸菩薩を奉安しないことゝ、現世【げんせ】の福利(公私に関し)を神仏等の信仰的対象に向つて祈らないことは、一宗の憲法たる宗制に已【すで】に規定して政府の公認を経てゐることで決して秘密的のことではない。随つて此点は余他【よた】の宗教に絶対に見ることの出来ない真宗独特の生命である。
 二、真宗教徒は現世の福利を神仏に祈らない。何となれば祈らずして神仏は常に我れを護り、我れの望む正義正道にして叶ひ得らるゝ限りは叶へしむべく擁護し給ふべきものと信ずるからである。随つて唯【たゞ】正しい希望を懐いて各自の職務に奮励努力するといふのが真宗教徒である。此の真宗教徒の被【こをむ】る現世利益【りやく】を親鸞上人は心光(阿弥陀如来の光明)常護の益【やく】、諸仏護念の益、冥衆【めうしゆ】(諸神諸菩薩)護持の益等と云はれてある。之れ其根本は「我レ能ク汝ヲ護ラム」とある阿弥陀如来の仏勅【ぶつちよく】を信じた結果である。事に臨んで禳災招福【つみとわざはひをけしふくをまねく】を神仏に祈るが如きは平素神仏の擁護を受けてゐない者の行ふことであるから、真宗教徒の取らざるところである。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2019・10・30

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近時、信教に対して無理解な圧迫を感ずる

2019-10-29 07:04:57 | コラムと名言

◎近時、信教に対して無理解な圧迫を感ずる

 伊藤義賢著『根本的にして最後の帰結を明示せる 神社と真宗教徒』(竹下学寮出版部、一九三四)から、その「一 緒言」を紹介している。本日は、その二回目。

 然るに近時此国家非常時に当り、日本精神の作興を叫ばんとするの余り自由を与へられてゐるところの信教に対して屡々【しばしば】無理解な圧迫を感ずることを耳にするあるは誠に憲法治下の国民として尠【すくな】からず不満を感ずるところである。
 思ふに、斯くの如きことは関係者に注意の足りない為めであつて、誠に国家にとつて遺憾の極みと云はねばならぬ。殊に国政にたづさはり国権を行使すべき役人は特に常に此点に留意し、充分に国民の信仰を理解し、必ずしも皆が同一の信条に立つてゐるものでないと云ふことに留意して、かりそめにも無理解な信仰圧迫をなして国民に反感を抱かしめることのないやうに心掛けて欲しいものである。かくありてこそ始めて国政を能【よ】く料理する大政治家として、国民の信頼を博【はく】する所以であると思ふ。地方の民間に於ても亦同様である。
 勿論其信仰が国家の隆盛と安泰とを阻害するものであるならば、当然国家としては憲法に随つて即座に禁圧を加ふべきは云ふまでもないが、然らざる信教を圧迫することは、憲法治下の国民としては到底忍び得ざるところである。
 然るに官民の間においても之れを誤つて、自家の信仰と同一の信念でないものは非国民であるかの如くに見做さうとすることは、曩【さ】きに言ふところの全国民を駈【か】つて大工にしてしまおうとするが如きものであつて、甚だ誤つた無理な考へ方である。正法を行へば天下はおのづから治まるが、不正不義を貫徹せんとするならば、其結果は必ず収拾すべからざるのものとなることは歴史の明示するところである。
 職業は大工でも左官でも農工商を問ふところではあるまい、唯【たゞ】要は其れを以て国家社会を利し、国家と国民の為にならねばならぬといふ精神を没却しないならば、何【いづ】れも皆忠良の臣民と云はねばならぬ。宗教の信念に於ても亦之と同理で、国家社会を害せざる限り国民各個が各々【おのおの】自己に適した信仰として理解すするところに委【ゐ】し、各自に有縁【うえん】の宗教に生きんとするところに安住せしめて保護を加へるといふことが国家の一使命でなくてはなるまい。況【いは】んや国家の為に努力せねばならぬと教えへ、国家の安泰と隆盛を念として職務に躬行実践【きうこうじつせん】すべきことを教へる宗教に於てをやである。されば、自家の宗教的信条と相違せる教徒を目して直【たゞち】に非国民呼ばはりをするといふことは、断じて官民共に慎まなくてはならないことゝ信ずる。【以下、次回】

※「一 緒言」の三回目の記事を飛ばしてしまったことに気づきました。以下に、補足します(10月31日補足)。

◎真宗教徒を「非国民」呼ばわりするものがある

  伊藤義賢著『根本的にして最後の帰結を明示せる 神社と真宗教徒』(竹下学寮出版部、一九三四)から、その「一 緒言」を紹介している。本日は、その三回目(最後)。

 今不肖〔私〕が、かうした問題を捕【とら】へて云為【うんゐ】する所以は如何といふに、近時動【やゝ】もすれば、我々真宗教徒が神明を奉安せす神に祈祷を捧げないといふ信条に立つてゐる態度を目して、軽率にも其内容を解せず頭から敬神観念もなく国家をも思はない者であるかの如くに誤解して非国民呼ばはりをする者が、地方に於てまゝあるやに耳にするからである。

 凡【およ】そ、神仏といふものに対する観方は、それぞれの宗教で-見方が一様でない。其れにも拘らず、自家の見たる神明観以外は誤つてゐるといふ議論ならば研究の余地もあらうが、さやうな道理に立つて言ではなく、無茶苦茶に唯【たゞ】自家の見たる神明観と異なつた見方をする者を、頭から国民でないやうに考へて圧迫を加へるといふことは少しく乱暴と云はなくてはなるまい。
 就中【なかんづく】、神明に就いても、大本教【おほもとけう】には大本教の見方があらう、金光教【こんくわうけう】にも天理教にも黒住教【くろづみけう】にも、一般世人の間にも、其れ其れ異なつた神明観がある筈である。随つて仏教特に浄土真宗にも大いに其の見る所がなくてはならぬといふことも予【あらかじ】め諒とせられなくてはならぬ。そこで、こうした錯雑【さくざつ】な状態にあるのだから、各宗が競ふて自家の所見を弘めやうとするのも亦已【や】むを得ないことゝ云はねばならぬ。
 是【こゝ】に於て、我々も亦よく道理に立ち法則に照らして誤つた考へ方を批判し、正しい見方に転向せしめやうと常に努力して怠らない者であるが、それにも拘らず、自家の信条に一致しないものは不穏当であり非国民であるなどゝいふ態度に出るといふのであるならば、国民の智識を高め国家意識を力強く高調せねばならない時に当つて、却【かへ】つて国民をして愚民たらしめ底力【そこぢから】のないものにしてしまふものであるから、益々吾人の共鳴し得ざるところとなるのである。
 然るに、今や各地に於て官民間にかうした無理解な圧迫問題を耳にするので、我々仏教徒特に浄土真宗の教徒としては、自家の見るところの神明観を世人に知らしめ、最後に仏教特に真宗からは如何に国家の神を観てゐるかを明示して世人の誤解をとき、兼ねては識者の理解と共鳴を得やうとして此一篇を草したに外ならぬ。
 特に今不肖がこれを草するに致つた近い動機に就いては二件がある。其一は最近某県下に於て或種の干渉沙汰のあつたこと、其二は古来真宗の有力地たる某町が、県の指定に依つて経済更生樹立に就き、町内の真宗各寺の住職をも委員に嘱託し、国民精神作興に関する協定事項の内に神棚を町内各戸に設置して神を祀り、神宮大麻【たいま】を各戸に拝戴すべきことを決定したと確聞したことが主要な動機となつたのである。そこで昭和九年(一九三四)七月一四日始めて此稿に着手したで次第である。
 是等【これら】は皆当事者間に真宗教義がよく理解せられてゐなかつた結果であるから、一応無理からぬことゝ云はねばならぬ。併しながら、是等に対する吾人教徒の態度は、徒【いたづ】らにこうしたことをした人を憎むよりも、先づ自ら退いて、自分共の平素の教義宣伝が官民間に不徹底であることを反省して、平素よくよく教化【けうけ】の徹底を期すべく益々精進し努力しなくてはならぬといふ精神を喚起することが大切であると思ふ。この小篇も全く此の趣旨貫徹の為の不肖の一微力に過ぎない。乞ふ、本篇を広く配布して平素よくよく真宗教徒の立場を明示しておかれたいと思ふ。以下述べるところを全部静かに通読せられたい。

 以上で、「一 緒言」の全文を紹介したわけである。『神社と真宗教徒』の紹介は、このあとも続けるが、次回は、最後の「10 結論」を紹介したい。そのあと、必要に応じて、途中のところも紹介してゆく予定である。

 なお、『神社と真宗教徒』が発行されたのは、一九三四年(昭和九)九月だが、その翌年の一二月には、「大本」に対する大弾圧(第二次大本事件)が起きている。この本で、著者の伊藤義賢は、「自家の見たる神明観と異なつた見方をする者を、頭から国民でないやうに考へて圧迫を加へるといふ」傾向があると危惧していたが、その危惧は、まさに現実のものとなったのである。

※以上が、補足です。

*このブログの人気記事 2019・10・29

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伊藤義賢著『神社と真宗教徒』(1934)を読む

2019-10-28 03:26:03 | コラムと名言

◎伊藤義賢著『神社と真宗教徒』(1934)を読む

 一か月ほど前、伊藤義賢著『根本的にして最後の帰結を明示せる 神社と真宗教徒』(竹下学寮出版部、一九三四)という本を入手した。数日前になって、初めて読んでみたが、これは、なかなかの本である。当時の国家による宗教政策に対し、浄土真宗の立場から、ハッキリと異議を申し立てている。寡聞にして、伊藤義賢という宗教家のことを知らない。また、この当時、こういう性格の本が出ていたことも知らなかった。
 本日は、同書の「一 緒言」を紹介してみよう。

神 社 と 真 宗 教 徒      伊 藤 義 賢 著

   一 緒  言
 国家の非常時に直面せる我が国民は、国家の為に全力を傾注して努力しなければならなぃ。何となれば、国家がなかつたならば国民の生活も権利も信仰の自由も、何もかも破壊せられてしまふからである。各方面から精神作興の必要を叫ばれる所以は全くこゝにある。
然らば、その精神作興とは何であるかと云へば、国民の為には万難を排して正義正道の貫徹に努力しなければならぬといふ覚悟のことである。随つて、此の大精神の奮起に就いては、我が国民たる者は其職の如何を問はず、其信仰の何れなるを論ぜす、常にこれが喚起を怠つてはならないことである。大工は大工、左官は左官、農家は農家、商家は商家、宗教家は宗教家と云つたやうに各自の本職に勤勉し、なまけず怠らず、努めて国家と国民の為に利【り】せなくてはならぬといふ大勇猛心で努めることが此の国家非常に直面しての態度であつて、これより外に精神作興の趣旨はあるべきでない。
 かくの如く、国家と国民の為に利せなくてはならぬといふ大精神に於て欠くるところがなかつたならば、各自の職業や宗教信仰は、其れが何ものであらうと国家の上からは保護こそすれ圧迫さるべきものではないと信ずる。
 然るに若し国家が権力を以て、各個別の職業を廃して皆同一の職業に転ずべしと命令し、其れに随はない者は罰すべしと云ふ圧迫を加へたとしたならば、其結果はどうであらうか、其れは云ふまでもなく国家其れ自体の自滅である。何となれば国民は忽【たちま】ちにして生活をなし得ざるに至るからである。曽て教師が「皆が乃木大将にならねばならぬ」と云つた時、「皆が乃木大将になつたら百姓はなくなる」と云つて心配したといふ話があるが、この話の虚実は別としても、真理を含んだ寓話として取るべきであらう。国家としては国民各個の職業を認め、異つた方面から国家社会を利することを許さなかたたならば、直【たゞち】に其国家は自滅の外なきことは、改めて論ずるまでもないことである。
 此の道理を許すならば、国民の最も大切なる精神生活の中枢をなすべきところの宗教信仰に就いても亦同やうで、国民各個の理解と頭脳の程度が別々であるから、随つて信仰も決して国家から権力を以て、此信仰に随はなければならないといふ圧迫は許さるべきことではない。此真理に立脚して我が「大日本帝国憲法」第二十八条では
  日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民ノ義務ニ背カサル限リニ於テ信教ノ自由ヲ有ス
と云つて自由が与へられてある。是れは誠に当然のことであるが、特に国民の康福を増進せんと思召すさるゝ 明治大帝の聖恩の忝【かたじけ】なさを有難く感戴【かんたい】いたせねばならぬことである。 論者【ろんしや】皇室の御宗教を以て直に国家の宗教のやうに思つて主張するものもあるといふことであるが、之は大【だい】なる誤解である。古【いにしへ】皇室に於かせられて仏教の御信仰厚くおはした時でも、仏教が日本の国教とさだめられたことではなかつた。又かくの如く皇室の御信仰を以て直に国教と考へるならば、国民には更に信教の自由はないことゝなつてしまふ。然るときは皇室の御宗教が変らせらるゝ毎【ごと】に国教が変ることになり、憲法の信教の自由も空文になつてしまふのである。故に畏【かしこ】くも皇室のことに関しては国民としては断じて彼れ是れ申すべき限りでないこと注意せねばならぬ。【以下、次回】

【昨日の一本クロスワードの解答】 クスノキマサシゲ

*このブログの人気記事 2019・10・28

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何と珍しい「一本クロスワード」

2019-10-27 15:21:47 | コラムと名言

◎何と珍しい「一本クロスワード」

 先日来、紹介している『戦線銃後 笑の慰問隊』(『講談倶楽部』一九三九年新年号付録)だが、その巻末に、「読者慰安特別大懸賞募集」という記事がある。問題が三問あって、うち二問を正解した人を「正解者」とし、美術置時計、ハンドバック、万年筆、絵葉書などの賞品を贈るという趣旨である。
 その「問題三」は、あまり聞いたことのない「一本クロスワード」というものである(クロスしていないクロスワード)。問題は、以下の通り(原文は、タテ書き)。

問題三 一本クロスワード

1 2 3 4 5 6 7 8  次の鍵に依つて1から8
□ □ □ □ □ □ □ □  迄の文字を埋めて下さい

67――長さを計るもの、58――女の髪、52――容量を計るもの、18――殿上人、
34――燕が巣をつくるところ、164――丑満頃に眠るもの、17――女の髪にさすもの

【懸賞ですので、正解は載っていません。正解と思われるものの紹介は次回】

*このブログの人気記事 2019・10・27(8位に珍しいものが入っています)

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