礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

西郷四郎が講道館入門以前に学んでいた柔術

2013-06-30 19:27:37 | 日記

◎西郷四郎が講道館入門以前に学んでいた柔術

「山嵐」で知られた西郷四郎は、天神真楊流の井上敬太郎道場にいたところを、嘉納治五郎に見出され、講道館に引っぱられたとされている。しかし、星亮一氏の新刊『伝説の天才柔道家 西郷四郎の生涯』(平凡社新書、二〇一三)によれば、嘉納が柔道場住込みの書生を求めていることを聞いた西郷が自分から門を敲いたという異説があるという。星氏自身は、その異説のほうが「信憑性が高いように思う」と述べている。
 星氏がその異説を支持する根拠は、講道館発行の雑誌『有効乃活用』の一九一九年(大正八)一月号に載っている西郷四郎についての記事にあるらしい。そこには、強い東北ナマリの少年が講道館を訪れた際のエピソードが紹介されている。この雑誌記事から星氏は、西郷が、自分から講道館の門を敲いたという説のほうに、信憑性を見出したのである。
 実を言うと、西郷四郎が、嘉納治五郎に引っぱられて講道館に入門したのか、それとも、自分から講道館にやってきたのかという問題は、それほど重要なことではない。むしろ気になるのは、雑誌記事にある、「〔西郷の〕柔道の生涯は其の紹介によりて師範の書生になるより始まる」という一文である。
 私は、雑誌『有効乃活用』の記事全体を把握していないので、何とも言えないところがあるが、右の一文が、何とも漠然とした内容である。だいたい「其の紹介」というのが、よくわからないが、この点は暫く措く。
「柔道」という言葉は、何を指しているのだろうか。西郷は、上京してまず、「天神真楊流柔術」の井上敬太郎道場に入門している。この事実は、『伝説の天才柔道家 西郷四郎の生涯』の著者・星亮一氏も否定しておらず、当然、雑誌記事の執筆者も、そのことは知っていたであろう。だとすれば、この一文における「柔道」とは、講道館柔道のことであり、したがって、この一文は、それ以前に、西郷が天神真楊流という「柔術」を学んでいた事実を否定しているものではない。同時にまた、西郷が、それ以前に、すでに郷里において、何らかの「柔術」を学んでいた可能性を否定するものでもないと思う。【この話、さらに続く】

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西郷四郎が講道館に入門した経緯についての通説と異説

2013-06-29 04:12:50 | 日記

◎西郷四郎が講道館に入門した経緯についての通説と異説

 昨年七月一八日に書いたコラム「柳田國男と天神真楊流柔術(西郷四郎と柳田國男の意外な接点)」において、私は、次のように書いた。

 天神真楊流の道場は、神田於玉ヶ池〈オタマガイケ〉にあり、嘉納治五郎はここで、宗家三代目の磯正智〈イソ・マサトモ〉から天神真楊流を学んだという。
 井上通泰〔柳田國男の実兄〕および柳田國男がついた「井上という名の先生」というのは、天神真楊流の井上敬太郎を指す。井上敬太郎は、磯正智の高弟で、湯島天神下に井上道場と呼ばれる道場を持っていた。柳田もここに通ったのである。この道場は、「鬼横山」と称された横山作次郎、「姿三四郎」のモデルとされる西郷四郎らを輩出した名門道場であった(横山・西郷は、のちに講道館に入門)。
 嘉納治五郎が、直接、井上敬太郎に師事していたかどうかは、不詳(柳田は、「嘉納さんもその先生についた」と言っている)。ただし、西郷四郎は、井上道場にいたところを、嘉納治五郎に見出されたとされている。それが事実だとすれば、嘉納は井上道場に出入りしていたことになる。

 ここでは、井上道場にいた西郷四郎の資質に目をつけた嘉納治五郎が、西郷を講道館に誘ったという通説に従った。
 しかし、星亮一氏の新刊『伝説の天才柔道家 西郷四郎の生涯』(平凡社新書、二〇一三)を読み、右の通説とは異なる説があることを知った。下谷〈シタヤ〉の永昌寺に柔道場を開設した嘉納治五郎が、住込みの書生を求めていることを聞いた西郷が、自分から門を敲いたという説である。星亮一氏は、こちらの異説のほうが、「信憑性が高いように思う」と述べている。
 星氏が、そのように判断する根拠は何か。【この話、続く】

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『現代米語解説活用辞典』(1950)の著者・水庭進さんについて

2013-06-28 05:28:58 | 日記

◎『現代米語解説活用辞典』(1950)の著者・水庭進さんについて

 昨日、水庭進編の『現代米語解説活用辞典』(ジープ社、一九五〇)という本を紹介した。その後、編者の水庭進氏について調べてみた。国会図書館のデータによれば、水庭氏は、一九二四年(大正一三)生まれで、二九冊の編著書がある。最初の編著書が、『現代米語解説活用辞典』で、次の編著書は、それから三三年後に出た『歯科英語活用辞典』(日本大学歯学部、一九八三)。それ以降は、毎年のように本を出されている。
 本年にはいってからも、『チューリップ唇(くち)をすぼめて英語の〈u:〉』(茅ヶ崎出版)という本を出されている。今も、ご健在であるようだ。
 それにしても、一九五〇年(昭和二五)から、足掛け六四年間にわたって、本を出し続けているという方が、現在どれくらいいらっしゃるだろうか。
 昨日は触れなかったが、『現代米語解説活用辞典』の扉には、「水庭進 編纂」とあり、その下に、「日本放送協会」とある。すなわち、水庭進氏は、日本放送協会(NHK)の関係者である。
 インターネット上で拝見した「okitot」さんのブログには、「数少ないラジオ東京時代を知る職場の大先輩(私の国際局欧米部時代の上司で、目をつぶって聴いていると英国紳士がしゃべっているとしか思えないQueen's Englishを話す水庭進氏)」という一節がある。
 また、これもインターネット情報であるが、『月刊正論』の本年五月号には、水庭進さんについて、石井英夫氏が文章を寄せており、これによって、水庭さんが、東京外国語学校英米科時代、アルバイトで日本放送協会の海外放送「ラジオ東京」の英語アナウンサーをし、戦後は、日本放送協会国際局欧米部の英語アナになって、英国放送協会(BBC)に出向したことなどを紹介していることがわかる。

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水庭進編『現代米語解説活用辞典』(1950)の特色

2013-06-27 07:26:02 | 日記

◎水庭進編『現代米語解説活用辞典』(1950)の特色

 先日、五反田の古書展で、水庭進編『現代米語解説活用辞典』(ジープ社、一九五〇)を入手した。この本の文献としての価値について知る者ではないが、パラパラと見てみた限りでは、非常に個性に富んでいて、かつ、なかなか有用な辞書であると思った。
 例としてひとつ、fishの項を引用してみよう。

Fish《名》(person)人(形容詞を伴つて);(dollar)一ドル;(torpedo)魚雷;(Roman Catholic)ローマカトリック教徒;(new arrival in prison)新入獄者;(new prisoner in a country jail)郡刑務所の新囚人;(prisoner newly sentenced)新しく刑を申渡された囚人;《動》(to curry faver,usually with an instructor)(教師の)機嫌をとる.
―――Like many another skipper,Sherman had long before figured out just what he would do if he “eaught s fish”.(TIME)
【訳】他の多くの艦長と同じように,シヤーマンはずつと前に『魚雷を喰らつた』時の対策をあれやこれやと考えていた.

 映画『ショーシャンクの空に』では、ショーシャンク刑務所にはいった新囚人たちが、その日の夜、古くから居る囚人たちから、夜通し、からかわれる場面がある。その時、たしか「fish,fish」と言われていたように記憶する。
 なお、手元の電子辞書の英和辞典のfishの項には、「新入獄者」という解釈は載っていなかった。

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農学博士・小野武夫の「年譜」より(昭和前期)

2013-06-26 09:27:01 | 日記

◎農学博士・小野武夫の「年譜」より(昭和前期)

 この間、農学博士・小野武夫の「学蹟」についての文章(執筆・本位田祥男)、およびその「年譜」を紹介してきたが、本日は、「年譜」の紹介の最後である。
 出典は、小野武夫博士還暦記念論文集『東洋農業経済史研究』(日本評論社、一九四八)の巻末にある「小野武夫博士学蹟・年譜・著書・論文目録」(戸谷敏之・伊豆川浅吉編)。

昭和二年四月十七日 東京都北多摩郡小金井町ニ転居ス  
同四年三月   東京商科大学本科学科目農村社会史科廃止ニ付講師ノ囑託ヲ解カル
同五年十二月  社会経済史学会ノ創立ニ参画シテ理事ニ選バル
同六年一月   法政大学教授ニ任ゼラル
同八年五月   法政大学経済学部長ヲ委嘱セラル同年同月同大学理事ニ選任セラル
同九年二月   九州大学法文学部ニ於ケル日本経済史ノ講義ヲ一期間嘱託セラル
同十年十一月  東京大学農学部講師ヲ委嘱セラル
同十一年五月  法政大学監事ニ選任セラル
同年十一月   郷里ノ実弟清人氏逝去、享年四十四歳
同十三年三月  願ニ依リ法政大学経済学部長ノ任ヲ解カル
同十四年三月  願ニ依リ東京大学農学部講師ヲ免ゼラル
同年六月    財団法人中央社会事業協会社会事業研究所参与ヲ委嘱セラル
同年十一月   満洲拓殖会社ヨリ満洲開拓地調査ヲ委嘱セラレ渡満北満地方ヲ踏査シ翌十五年一月帰朝
同十五年十二月 日本学術振興会学術部第十一特別委員会ヲ委嘱セラル
同年十二月   壮年団中央協会常任理事ニ任ゼラル
同十六年一月  日本学術振興会学術部第三常置委員会委員ヲ委嘱セラル
同年二月    財団法人中央教化団体連合会参与ヲ委嘱セラル
同年四月    大日本壮年団連盟常任理事ニ選任セラル
同年七月    専修大学講師ヲ嘱託セラル
同年九月    大日本青少年団専門委員ヲ委嘱セラル
同十七年一月  拓務省ノ事務ヲ委嘱セラル
同年三月    大日本壮年団連盟解散ニツキ壮年団中央協会常任理事並ニ同連盟理事ノ任ヲ解カル
同年六月    内閣ヨリ農林省委員ヲ仰付ケラル
同年十一月   大東亜省ノ事務ヲ嘱託セラル
同十八年五月  日本学術振興会第十四小委員会委員長ニ選任セラル
同年六月    早稲田大学政治経済学部講師ヲ嘱託セラル
同年十月    立教大学講師ヲ嘱託セラル
同年十一月   社団法人農村工業協会理事ヲ委嘱セラル
同年十二月   農商省民情調査室委員ヲ委嘱セラル
同二十年十一月 新青年問題懇話会常任世話人ニ就任ス
同年十一月   早稲田大学講師ヲ嘱託サル,
同二十一年一月 財団法人協調会理事評議員常議員ヲ嘱託サル
同年二月    日本学術振興会第九十八小委員会委員を嘱託サル
同年二月    内閣ヨリ食糧対策審議会委員を仰付ケラル
同年四月    願ニ依リ法政大学教授ヲ解カル
同年五月    社会教育連合会評議委員ヲ委嘱サル
同年五月    土地制度史料保存会々長ニ就任
同年十月    財団法人中央労働学園理事ヲ委嘱サル

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