礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

飯野吉三郎は明治天皇と瓜二つだった(猪俣浩三)

2018-05-31 00:55:03 | コラムと名言

◎飯野吉三郎は明治天皇と瓜二つだった(猪俣浩三)

 山下恒夫編著『聞書き猪俣浩三自伝』(思想の科学社、一九八二)から、「和製ラスプーチン、飯野吉三郎」の節を紹介している。本日はその二回目。昨日、紹介した部分のあと、改行して、次のように続く。

 飯野吉三郎の屋敷は、青山の穏田〈オンデン〉、いまの渋谷区神宮前にあった。千五百坪を越える広い日本式庭園の中央には、天照大神〈アマテラスオオミカミ〉を祭った神殿が建てられており、邸宅は間数〈マカズ〉が三十あまりもあるという、豪勢な暮らしぶりだった。世間では通称〝穏田御殿〟と、これを呼びならわしていた。もともとは、陸軍主計総監であった外松孫太郎【とまつまごたろう】男爵の邸宅だったという。飯野は外松男爵の娘末野【すえの】を嫁にもらい、一緒に〝穏田御殿〟も譲りうけたとの由〈ヨシ〉だ。
 招かれて屋敷内にはいると、まず神殿に導かれ、禰宜【ねぎ】がいて、お祓【はら】いをしてくれるのがつねだった。どうやら、背広姿である私の〝洋夷臭〟を、そこで、清めてくれようという手筈にみえた。それから、広い邸内をめぐって、離れ座敷に案内される。玄関をはいると、どでかいテーブルがおかれた応接間があった。刺客が向こう側から斬りつけても、刀の先がとどかぬようにと、特別に、このテーブルをあつらえさせたとかいう話であった。大正十三年〔一九二四〕一月に成立をみた、清浦内閣の臨時組閣本部は、ほれ、そこの場所だったのだ。飯野吉三郎は得意気な面持ち〈オモモチ〉で、大テーブルを指さし、そう説明してしてくれたことがある。
 もっとも、枢密院議長だった清浦奎吾〈キヨウラ・ケイゴ〉を首班としたこの内閣は、すこぶる評判が悪く、わずか六カ月であえなく総辞職にいたっている。これに代わって成立をみたのが、いわゆる護憲三派と称される加藤高明内閣であったわけだ。実をいうと、この政権交代が、どうも〝穏田の神様〟の権威失墜とも関係があったようだ。飯野吉三郎としては、当時の威勢をしのぶ意味からも、そのどでかいテーブルには、未練が残っている口ぶりが明らかにうかがえた。
 私が時おり、〝穏田御殿〟を訪れるようになった、昭和七、八年〔一九三二、一九三三〕頃、飯野吉三郎の年齢は、もう六十を半ばすぎていたのではなかろうか。風貌はというと、長髭【ちようぜん】をたくわえ、眼光は鋭く、要するに、明治天皇と瓜二つなんだ。背たけは常人なみだったが、でっぷりと肥えておって、黒羽二重【くろはぶたえ】の紋付き姿は、堂々たる押しだしぶりだつた。
 巷間の噂では、飯野は明治天皇のご落胤だとか、伊藤博文と下田歌子との間の私生児だとか。さまざまな虚説が飛びかっていた。飯野自身は、それを肯定も否定もしない。そうした風説によって、自己の怪物性が増すことを、たぶんに計算している気味もみうけられた。とはいうものの、私には愛想もよく、快活な口調で、なんでもよくしゃベってくれた。だから、とても怪物などとは思えなかった。
 それでも、時によると、飯野吉三郎の表情はくもり、不満そうな口吻〈コウフン〉で、報われることの少ない自己を、しきりに嘆いてみせた。明治天皇は自分に対して、非常な恩があるんです。もし、明治天皇を恨むとすれば、私がいっとう恨んでよい人間なのだと。ただ、その恩とやらが、大逆事件通報者としての、自己の功績をいっているのか。あるいは、別の事柄をさしているのかは、飯野はそれ以上、なにも具体的に明かそうとはしなかった。
 また、おりにふれて、飯野は、宮中との深いつながりがあることを、さかんににおわせるむきもあった。事実、飯野の私室には、菊のご紋章入りの立派な箱があって、宮内省からの金子〈キンス〉がとどいている様子だった。その箱を、私はみせられたことがある。とはいっても、彼は大宮司とかの神官の位をもっていたのだから、下賜金があっても、別におかしくはなかったのだが……。いずれにせよ、神様が下界の住人である私に、愚痴をこぼすようではいかんともしがたい。私が面識をもった時分の飯野は、もう相当に落ち目になっていたのだと思う。【以下、次回】

 これは、「勘」だけで言うのだが、猪俣浩三は、飯野吉三郎と皇室との関わりについて、飯野本人から、何事かを聞かされていたのではないか。しかし、猪俣は、それを信じることができなかったか、もしくは、それを公にしてしまうことは好ましくないと考えたのであろう。
 猪俣が飯野から聞かされた内容だが、猪俣自身の印象「明治天皇と瓜二つなんだ」、巷間の噂「飯野は明治天皇のご落胤だとか」、飯野の発言「明治天皇を恨むとすれば、私がいっとう恨んでよい人間なのだ」――などをみれば、おおよその見当はつく。要するに猪俣は、これらの言葉を並べることによって、飯野本人から聞かされていた内容を暗示したのではなかったか。
 昨日の繰り返しになるが、猪俣の語りが、こういう重要なところに来た場合、聞き手は、確認を怠るべきではない。この場合には、「飯野吉三郎が、猪俣先生に対し、重大な秘密を打ち明けるということはなかったのですか」という確認が必要になる。

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和製ラスプーチン・飯野吉三郎と大逆事件の端緒

2018-05-30 05:47:56 | コラムと名言

◎和製ラスプーチン・飯野吉三郎と大逆事件の端緒

 話題を『聞書き猪俣浩三自伝』に戻す。この本の語り手・猪俣浩三については、まだ、プロフィールなどを紹介していなかった。デジタル版日本人名大事典+Plus「猪俣浩三いのまたこうぞう」の項には、次のようにある。

猪俣浩三 いのまた-こうぞう 1894-1993 昭和-平成-平成時代の弁護士、政治家。/明治27年7月20日生まれ。昭和2年弁護士を開業。戦後、社会党の結成に参加。22年衆議院議員(当選8回)となり、人権侵害、汚職問題で政府を追及した。45年アムネスティ・インターナショナル日本支部を設立し、理事長。平成5年8月21日死去。99歳。新潟県出身。日大卒。著作に「抵抗の系譜」など。

 二十年以上前のことになるが、井の頭線の渋谷駅の近くに、「渋谷古書センター」という看板を掲げたビルがあり、その二階か三階に、「榊原書店」という社会科学関係専門の古書店があった。私は、その店で、猪俣浩三著『闇取引と刑罰』(有光社、一九四〇)という本を見つけた。レジに持ってゆくと、老店主が、つぶやくように、「最近は猪俣先生の本を読む方も少なくなりました」と言った。
 この本は、きわめて興味深い本で、戦時体制下・統制経済下における日本人の経済活動の実態を、シンラツな筆致で描いていた。それ以来、この猪俣浩三という人物を、ひそかに注目してきた。
 さて、『聞書き猪俣浩三自伝』によれば、猪俣浩三は、「日本のラスプーチン」と呼ばれた飯野吉三郎(いいの・きちさぶろう)と、「わりあい親しい関係」にあったという。本日は、同書のうち、そのあたりを語っているところを紹介してみよう。

  和製ラスプーチン、飯野吉三郎

 話題が裁判を離れるが……。やはり、昭和七、八年〔一九三二、一九三三〕時分のことだったと思う。私は世に〝穏田〈オンデン〉の神様〟と称されておった、怪行者の飯野吉三郎【いいのきちさぶろう】と、わりあい親しい関係をもっていた。例のロッキード疑獄事件で、戦後保守政界の黒幕だった児玉誉士夫〈コダマ・ヨシオ〉の正体が、一部、明るみにだされただろう。飯野吉三郎も同じように、戦前の政財界の裏面において、隠然たる勢力をつちかっていた男であった。
 それだけではなく、飯野の勢力は宮廷内、とりわけ大正天皇の皇后であった、貞明皇太后のもとにまでおよんでいたふしがある。ために和製ラスプーチンの異名すらあった。ラスプーチンは帝政ロシヤの末期、ツアーの後宮にはいりこみ、数々の悪事をなしたといわれる怪僧だが……。そうした面まで加味すると、飯野吉三郎の往時の黒幕ぶりは、あるいは、児玉以上であったのかもしれない。
 現在、飯野吉三郎の名前が知られるのは、大逆事件の通報社としてではなかろうか。その間の事情は、次のごとくに伝えられている。大逆事件処刑者十二名の中には、いささか毛色の変わった人物として、自由民権運動以来の老闘士奥宮健之の名があげられる。奥宮は同じ土佐出身同士ということから、幸徳秋水とは昵懇【じつこん】の間柄にあった。幸徳より求められて、奥宮は自由民権時代に用いた、爆裂弾の製造方法を伝授したという。そして、この製造方法が、天皇暗殺実行者であった宮下太吉へと伝達されたのだと。
 他方、天性の策謀家をもってなる奥宮健之は、飯野吉三郎との交際もあり、幸徳と飯野との間をとりもったりもしていた。飯野のほうでは、左翼情報源のつもりで、奥宮となじんでいたらしい。その過程で、管野須賀子や宮下太吉の天皇暗殺計画が、いつしか奥宮を通じて飯野の耳にはいり、大逆事件の発覚となった。つまり、奥宮健之が処刑されたのは、いわゆる裏切り者の口封じでもあった。そういう通説が流布しているようだ。
 ところで、その真偽のほどはわからぬが、私は飯野吉三郎のところで、従来の通説とは少し違った、大逆事件発覚のいわれを聞いている。飯野の屋敷には、中年の書生が一人おった。この男が、昔は幸徳秋水らの仲間であったのだそうだ。仲間とはいっても、おそらくは、手伝い程度の仕事でもしていた、浅い関係ではなかったかと思われる。いかにも肉体労働者上がりらしい風体で、知性など少しも感じられない人間だったからだ。貧相な体格の上、前歯が二、三本もぬけておった。だから、歳をとっているのやら、若いのやら、皆目、見当がつかない。どうにも、陰気な雰囲気の男だった。
 事の顛末はというと、この書生が仲間を裏切って、大逆事件の一件を、飯野のもとへ密告におよんだのだという。そうした行きがかりからか、その中年書生は、飯野が飼い殺しにしている様子にみえた。この裏切り者の秘話が、飯野の口からはかれたものか。それとも、中年書生が自ら語ったものだったかは、いまはもう、判然としないのだが……。
 私が飯野吉三郎と最初に出会ったのは、昭和四年〔一九二九〕頃のことであった。それがいったい、どういうきっかけだったかは、もはや、しごく漠然としている。たしか、飯野の家屋敷が差し押さえをくっておって、これに関連した民事訴訟の相談を、依頼されたのではなかったかと記憶する。債権者は大阪の人間で、相手が、音に聞こえた〝穏田の神様〟でもあったからだろう。別城【べつき】という名の、一見して凄みのある壮士まがいの弁護士を、東京へ送りこんできていた。私は何度か、この弁護士と会い交渉したことだけは、おぼろげに覚えている。
 ともあれ、いかなる風の吹きまわしか。飯野吉三郎は、私に対して、ひどく好意を抱いてくれたらしい。その後は家内と一緒に、ちょくちょく自宅へ招待されるようになった。ある正月のことだが、飯野は贔屓〈ヒイキ〉にしている三河万歳を連れて、私の家へ、わざわざ年賀に来たことさえあったのだ。【以下、次回】

 これを読んで重要だと思ったのは、大逆事件の端緒について触れているところである。猪俣浩三は、「その真偽のほどはわからぬが、私は飯野吉三郎のところで、従来の通説とは少し違った、大逆事件発覚のいわれを聞いている」と述べ、飯野吉三郎の屋敷にいた「中年の書生」が、「仲間を裏切って、大逆事件の一件を、飯野のもとへ密告におよんだのだという」という伝聞を披露している。
 ところが、猪俣は、この「中年の書生」の名前を言わない。また、この秘話を、「中年の書生」本人から聞いたのか、飯野の口から聞いたのかという、かなり重要なところもアイマイにしている。これは、どういうことなのか。
 推測するに、猪俣浩三は、その「中年の書生」の名前も知っているし、また、その秘話を誰から聞いたかも、よく覚えていたはずである。ところが猪俣は、それを語ってしまうことに躊躇があったのであろう。
 すでに紹介したように、この本は、編著者の山下恒夫氏が、猪俣浩三から聞きとった話をまとめたものである。聞き手である山下氏には、猪俣の語りがこうした場面に及んだ場合には、その「中年の書生」は誰ですか、その話は、「中年の書生」本人からお聞きになったんですか、などを確認してほしかったと思う。あるいは、そうした確認を経た上で、本にあるような記述に止めたということなのだろうか。

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塩谷温、天津で宣統廃帝に面会(1928)

2018-05-29 04:12:50 | コラムと名言

◎塩谷温、天津で宣統廃帝に面会(1928)

 塩谷温(しおのや・おん)という漢学者がいた(一八七八~一九六二)。ひとむかし前は、よく目にし、耳にする名前であった。塩谷は、一九二八年(昭和三)に、天津で宣統廃帝、すなわち愛新覚羅溥儀に面会して感激し、その感激を漢詩によって表現したことがある。ブログで、愛新覚羅溥儀について紹介しているうちに、塩谷のその漢詩のことを思い出した。
 それが載っているのは、塩谷温『微結――喜寿詩選』(株式会社間組)という漢詩集である。初版が出たのは一九五五年(昭和三〇)だが、私が架蔵しているのは一九五七年(昭和三二)発行の再版である。
 同書の三四ページに「天津謁宣統帝」という七言絶句があり、次ページには、「満洲国皇帝」の写真、および、その漢詩についての自註がある。本日は、これらを紹介してみよう。

 一七 天津謁宣統帝

元 知 天 命 有 窮 通
龍 種 何 能 凡 馬 同
三 百 年 来 深 徳 沢
二 陵 佳 気 鬱 葱 々

天津【てんしん】にて宣統帝【せんとうてい】に謁【えつ】す(後の満洲国皇帝)

元【もと】より知る天命【てんめい】、窮通【きゆうつう】有るを
龍種【りようしゆ】何【なん】ぞ能【よ】く凡馬【ぼんば】と同【おな】じからんや
三百年来【びやくねんらい】、徳沢【とくたく】深【ふか】し
二陵【りやう】の佳気【かき】、鬱【うつ】葱々【そうそう】

 昭和三年二月、私が高専教授の団長となり支那旅行に徃【い】つた際、天津で宣統【せんとう】廃帝を拝訪し、感激のあまり、本詩を賦【ふ】して陳宝琛【ちん】太傅【たいふ】を経て献上した。龍種は帝王の身の上【にのうへ】、二陵とは奉天に在る清の太祖大宗の東陵と北陵。清朝【しんてう】三百同年の徳沢は深き故にやがて再び世に出で給ふ日もあらうと申し上げたのである。然るに十年後には満洲国皇帝として復活なされ、更に十年にして満洲国は滅び、今モスクワに配所【はいしよ】の月を眺められようとは。溥儀【ふぎ】閣下ほど数奇【すうき】の運命に見舞はれた御方はあるまい。

 なお、『微結――喜寿詩選』の発行所である株式会社間組(はざまぐみ)は、ダム工事で知られた建築会社で、当時の社長は、神部満之助(かんべ・まんのすけ)であった。

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テーブルの上には「三種の神器」が置かれてあった

2018-05-28 04:36:05 | コラムと名言

◎テーブルの上には「三種の神器」が置かれてあった

 山下恒夫編著『聞書き猪俣浩三自伝』(思想の科学社、一九八二)から、「元満洲国皇帝との後日会見録」の節を紹介している。本日は、その三回目(最後)。昨日、紹介した部分のあと、改行して、次のように続く。

 昭和十五年(一九四〇)五月、溥儀の二回目の日本訪問の時だった。出発を前にして、帝室御用掛り吉岡安直は、溥儀に向かい、天皇にこう告げなければならないと命じた。天照大神〈アマテラスオオミカミ〉を満州国へ迎えたいと。溥儀は拒否したかったが、命令に盲従するしかなかったという。溥儀の言葉を聞いた天皇は、お望みになる以上、従わなければなりません。そうしごく簡単に答えたそうだ。かたわらのテーブルの上には、銅鏡、剣【つるぎ】、勾玉【まがたま】の三種の神器〈ジンギ〉が、前もっておかれてあった。天皇はその由来を説明して、溥儀にうやうやしく手わたした。これを祭ったのが、新京の建国神社〔ママ〕だが、参拝させられる屈辱にたえられず、人知れず暗涙にむせんだともいっておった。
 話題をかえ、いまの日本についてはどう思っているのか、と私が聞くと、日本軍国主義の復活をもっともおそれる。即座に溥儀はそういいはなった。さらに、中国侵略の計画案だったといわれている、有名な怪文書の田中メモランダムにも触れた。あの田中義一上奏文が書かれた頃、日台条約〔一九五二〕を結んだ吉田茂は、奉天総領事だったではないか。岸信介は、満州侵略の元兇であった二木三助【にきさんすけ】(東条英機、星野直樹、松岡洋右、鮎川義介、岸信介)の一人ではないか。溥儀の口調は、かなり激しくなった。
 最後に私が、日本にくる気はありますか、と質問すると、溥儀はしばらく考えてから、こういった。許されればいってみたい。以前に会ったことがあるので、できれば天皇と会い話したいと。
 家内が、弟の溥傑と浩夫人の近況をたずねた。弟は当地の植物園で元気に働いている。浩はお粥【かゆ】をつくる名人で、いま料理の本を書いているようだ。溥儀は笑いながらそう答えてくれた。これは、あとで私が耳にしたことだが、四十八歳になる浩夫人は、最近妊娠したという話であった。
 溥傑夫妻は、日本敗戦後に離ればなれとなり、二人の幼い娘を連れた浩夫人は、八路軍の捕虜となった。その後、国民党の捕虜として収容所生活を送るなど、さんざんの辛酸をなめたという。昭和二十二年〔一九四七〕一月に、浩夫人と二人の娘は、引き揚げ船で日本へ帰還した。したがって、浩夫人が再度中国へ渡り、天と再会できたのは、昭和三十四年〔一九五九〕に、溥傑が特赦されたのちのことだったのだろう。この間の昭和三十二年〔一九五七〕十二月に、当時、学習院大学生だった長女慧生【えいせい】が、ピストル心中事件で亡くなっている。私は浩夫人懐妊の話を聞いた時、その出生と死という、いわば明暗二つの事柄が、溥傑夫妻の数奇な身の上にむすばれてゆき、複雑な感情を禁じえなかった。
 溥儀はまた、次のようにも語っていた。自分が生まれかわったのは、まったく新政府のお陰です。現在は、自由で楽しい毎日を過ごしていますと。彼のそばには、中国政府派遣の通訳がついておる。だから、この発言は、半ば政府向けの挨拶だったのかもしれない。かくするうちに、溥儀のおしゃべりに圧倒されて、またたくまに時間がすぎてしまった。室内の時計は、すでに正午をかなりまわっている。私と家内とは、新婚生活の前途に幸いあれと祈って、溥儀のもとを辞した。
 昭和四十二年〔一九六七〕に、溥儀は世を去った。行年〈ギョウネン〉六十一歳。溥儀が希望していた天皇との再会も、はたされぬままに終わったことになる。

 本日、引用した箇所では、溥儀が昭和天皇から「三種の神器」を渡されたという話が興味深かった。ただし、このあたりの記述は正確さを欠いている。溥儀が事実を正確に伝えなかった、猪俣浩三の理解ないし記憶が正確ではなかった、もしくは、その両方があったと考えられる。
 ちなみに、この時、昭和天皇が溥儀に贈ったのは「剣」のみであり、銅鏡は、満洲国側が、あらかじめ京都の業者に調整させておいたものであったという。この銅鏡と剣は、帝宮内に設けられた「建国神廟」に安置されたという(ウィキペディア「建国神廟」)。

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政略結婚は昔から権力者の常套手段(猪俣浩三)

2018-05-27 04:12:52 | コラムと名言

◎政略結婚は昔から権力者の常套手段(猪俣浩三)

 山下恒夫編著『聞書き猪俣浩三自伝』(思想の科学社、一九八二)から、「元満洲国皇帝との後日会見録」の節を紹介している。本日は、その二回目。昨日、紹介した部分のあと、改行して、次のように続く。

 自分に野心があったから、あのような目にあってしまったのです。と、最初に溥儀〈フギ〉はいった。それから、恨みつらみを語りだした。溥儀の抱いた夢は、やはり日本の力に頼って、清朝の再興をはかることだったようだ。満州の地は、清朝発祥の地でもあった。清朝の祖ヌルハチは、朔北〈サクホク〉満州の荒野に剽悍【ひようかん】なる軍勢をおこし、たちまち全中国を席捲した。しかし、溥儀が抱いた昔日の栄華への夢は、すぐに幻滅へとかわった。
 帝位にはついたものの、溥儀にはなんらの政治的権限もなかった。唯一の仕事といえば、満州国建国記念日、天長節などの公的行事に出席するだけのことだった。すべての命令は関東軍司令官より発せられ、皇帝といえども、これに背くことは許されなかった。帝位にのぼる即位式で,溥儀は清朝皇帝の龍袍〈ロンパオ〉を着用しようとしたが、関東軍の反対にあって断念。けっきょく、満州帝国陸海軍元帥服を身につけさせられ、悔しくて泣いたとの話だ。溥儀はしだいに、関東軍のロボットにすぎないわが身をしるようになつた。
 それでも、昭和十年〔一九三五〕四月の、最初の日本訪問にあたっては、天皇が東京駅に出迎えに立つなど、日本皇室の鄭重なもてなしをうけた。ために、溥儀も一時的には、わが身の栄光に酔いしれたという。満州皇帝と日本天皇は、対等の関係にある。そう錯覚したのだ。
 ところが、有頂天になって帰還した溥儀の耳元に、監視役の満州国帝室御用掛り吉岡安直〈ヤスナオ〉が、こうささやいた。満州皇帝の父は天皇であり、天皇の代理が関東軍である。したがって、関東軍の命令に従うことが、とりもなおさず、父子の孝道をまっとうすることになるのだと……。吉岡安直は関東軍高級参謀でもあり、四六時中、溥儀の身辺につきまとった。溥儀は行動の自由さえままならなかったそうだ。吉岡はのちに、中将にまで栄進をとげている。
 また、関東軍は溥儀に、日本人の女を妻とするよう執拗に迫った。溥儀はすでに妻帯していることを理由に、これを拒絶しつづけた。関東軍の矛先は転じ、今度は独身だった弟の溥傑〈フケツ〉がねらわれた。溥傑と嵯峨実勝〈サガ・サネトウ〉侯爵の長女浩【ひろ】が結婚したのは、昭和十二年【一九三七】四月のことだ。思いおこせば、例の軍機保護法事件〔宮澤・レーン事件〕の第一審裁判中の時だったのである。私は溥儀の打ち明け話に耳を傾けつつ、当時の鳴り物入りの〝日満親善〟騒ぎを、とっさに思いだすことができた。ちなみに、嵯峨浩の曽祖母は、明治天皇を産んだ中山一位局【いちいのつぼね】の姉妹にあたる。政略結婚は昔から権力者の常套手段なのだが、その場合、かわいそうなことだが、女は一種の人身御供というほかはない。
 溥儀はさらに話しつづけた。関東軍は弟の溥傑の結婚話がきまると、満州皇帝の帝位継承法を急いで作成した。溥儀には子供がなかった。その帝位継承法には、皇帝に子も孫もない場合、皇帝の弟、ないしはその子供が帝位を継げることが、明記されてあったのだという。
 もっとも、同じような〝人身御供政策〟は、それ以前にも用いられたことがある。日本の朝鮮併合は、五百年以上もつづいた李朝を廃滅。朝鮮王家の李家は、日本の華族の中に吸収されてしまったわけだ。大正九年〔一九二〇〕四月、李朝の世子〈セイシ〉李垠【りぎん】が、梨本宮守正〈ナシモトノミヤ・モリマサ〉の長女方子【まさこ】と結婚させられておる。いずれにしても、戦前の日本の天皇制は、まことに陰湿で汚い手を使ったといえよう。【以下、次回】

 文中に、「帝位継承法」という言葉が出てくる。この法律については、以前、このブログで紹介したことがあるが、参考までに、再度、引用しておく。なお、帝位継承法の成立は「康徳四年三月一日」=一九三七年(昭和一二)三月一日であって、「関東軍は弟の溥傑の結婚話がきまると、満州皇帝の帝位継承法を急いで作成した」という溥儀の証言には、信憑性が認められる。

  帝位継承法  (康徳四年三月一日)
我ガ満洲帝国ハ日本帝国ノ仗義援助ニ頼リ斯ノ洪業ヲ開キ斯ノ邦基ヲ奠ム是ヲ以テ朕登極以来仰テ
眷命ノ本ゾク所ヲ体シ俯シテ国脈ノ繋ル所ヲ念ヒ有ユル守国ノ遠図邦国ノ長策悉ク日本帝国ト協力同心以テ益両国不可分離ノ関係ヲ敦ウシ一徳一心ノ真義ヲ発揚シ夙夜勤求敢テ或ハ懈ルナシ今茲ニ帝位継承法ヲ制定シ継体付託ノ重キニオイテ厥ノ法典ヲ定メ諸ヲ久遠ニ示ス大宝儼然建中易ラザル実ニ
日本天皇陛下ノ保佑ニ是レ頼ル夫レ皇建極アリ惟レ皇極トナリ天道ヲ裁成シ地宜ヲ輔相シ民ノ父母トナリ人以テ其ノ政ヲ行ヒ義以テ其ノ法ヲ制スレバ則チ重煕累洽覆燾ノ下永ク君民一体ノ美ヲ懋ニシ当ニ天地ト其ノ徳ヲ合シ日月ト其ノ明ヲ合スベキナリ凡ソ朕ガ継統ノ子孫及臣民タル者深ク肇興ノ基其ノ繇テ奠マル所ト
受命ノ運其ノ繇テ啓ク所トニ鑑ミ咸ナ朕ガ萬方ヲ撫綏シテ宵肝倦マザルノ心ヲ以テ心トシ聿修惟慎ミ欽戴替ルナクンバ垂統萬年必ズ無彊ノ休ヲ享ケ克ク長治ノ福ヲ保タム  
   (国務総理、宮内府大臣副署)
 帝位継承法
第一條 満洲帝国帝位ハ康徳皇帝ノ男系子孫タル男子永世之ヲ継承ス
第二條 帝位ハ帝長子ニ伝フ
第三條 帝長子在ラザルトキハ帝長孫ニ伝フ帝長子及其ノ子孫皆在ラザルトキハ帝次子及其ノ子孫ニ伝フ以下皆之ニ例ス
第四條 帝子孫ノ帝位ヲ継承スルハ嫡出ヲ先ニス帝庶子孫ノ帝位ヲ継承スルハ嫡出子孫皆在ラザルトキニ限ル
第五條 帝子孫皆在ラザルトキハ帝兄弟及其ノ子孫ニ伝フ
第六條 帝兄弟及其ノ子孫皆在ラザルトキハ帝伯父及其ノ子孫ニ伝フ
第七條 帝伯叔父及其ノ子孫皆在ヲザルトキハ最近親ノ者及其ノ子孫ニ伝フ
第八條 帝兄弟以上ハ同等内ニ於テ嫡ヲ先ニシ庶ヲ後ニ長ヲ先ニシ幼ヲ後ニス
第九條 帝嗣精神若ハ身体ノ不治ノ重患アリ又ハ重大ノ事故アルトキハ参議府ニ諮詢シ前数條ニ依リ継承ノ順序ヲ換フルコトヲ得
第十條 帝位継承ノ順位ハ総テ実系ニ依ル
 附 則
本法ハ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス

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