礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

亡くなって一年、日本政治思想史の河原宏さん

2013-02-28 05:37:23 | 日記

◎亡くなって一年、日本政治思想史の河原宏さん

 昨年の二月二八日、日本政治思想史の河原宏さんが亡くなった。今日はその命日なので、この学者について書いてみたい。
 国立国会図書館の検索システムで「河原宏」を検索してみると、三〇冊の図書、および多数の論文がヒットする。
 一九七一年刊の『西郷伝説』(講談社現代新書)は、発売当時、購入して読んだ記憶があるが、その内容については、今よく思い出せない。
 一九七九年七月刊の『日本のファシズム』(共著、有斐閣)は、昔、図書館で手にとったが、通読したことはない。最近、必要があって拾い読みしてみたが、河原宏執筆のⅠ‐2「天皇制国家とファシズム」が特に刺激的だった(のちほど、その一部を紹介する)。
 一九七九年五月刊の『昭和政治思想研究』(早稲田大学出版部)は、昨年末に初めて読んだ。ブログを初めて以来、以前にも増して日本語の表記という問題に関心を持つようになった。この問題に関心を持つ者にとって、同書の第九章「言語をめぐる政治と戦争」は必読の文章であろう。そこにおける河原の主張については、いずれ、このコラムで採りあげてみたい。
 河原宏の代表作は、何といっても『日本人の「戦争」』であろう。この本は、一九九五年に築地書館から刊行された。
 河原は、一九二八年生まれであるから、このときすでに六六歳である。彼は日本には珍しい、晩年になるほど問題意識が鋭く、かつ鮮明になるタイプの思想家だったのではないか。
 同書は、二〇〇八年にユビキタ・スタジオから新版が出て、さらに二〇一二年一〇月には(河原さんの死後)、講談社学術文庫に収められた。文庫版の解説は、ユビキタ・スタジオの堀切和雅さんが書かれている。
 この本では、第Ⅲ部「天皇・戦争指導者および民衆の戦争責任」における主張が論争的だが、重要なのはそこだけではない。個人的には、第Ⅱ部「『開戦』と『敗戦』選択の社会構造」における指摘が印象に残った(今月一八日のコラムで、一部を紹介した)。また、第Ⅴ部「特攻・玉砕への鎮魂賦」における著者の強いメッセージは、読むものを圧倒せずにはおかない。
 本日は、河原宏さんを偲ぶ意味で、「天皇制国家とファシズム」(一九七九)の冒頭部分を引用させていただこう。

1「近衛上奏文」をめぐって
〇近衛上奏文 しばしば一つの政治体制の基本的性格はそれの最終段階において露呈されることがある。なぜなら体制の興隆期や中間段階では権力はタテマエとホンネを操ることもでき、一定の体裁をとりつくろう余裕もあって、その基本的な性格を認識するのがむずかしいという事情があるからである。逆にその最終段階という危機的状況においてはすべてのデコレーションが取り払われ、歴史の全過程が凝集されて、赤裸々なホンネを露呈することがある。天皇制支配がファシズムとの関連において自らの論理を率直に語ったのは、一九四五年二月のいわゆる「近衛上奏文」においてであろう。この時すでにB二九による本土空襲は本格化しており、同年一月、アメリカ軍はフィリピン・ルソン島に上陸していた。ヨーロッパでもソ連軍はドイツ領内に進攻、西からは米英軍もドイツ国境線に迫り、ドイツ・日本ファシズム枢軸体制は全面的崩壊の直前にあった。
 この年二月、情勢を憂慮した天皇は平沼騏一郎、広田弘毅、近衛文麿、若槻礼次郎、岡田啓介、東条英機ら重臣を一人一人呼んで意見を求めた。近衛は二月一四日天皇に拝謁し、自らの情勢判断を上奏したが、あらかじめその主旨を文章にまとめておいたのがいわゆる「近衛上奏文」である。そこには家柄において天皇にもっとも近く、経歴において日中戦争開始時および太平洋戦争開始直前までの決定的時期に三回にわたって内閣を組織した近衛の、この時点での情勢判断、既住の経過と将来の見通しが率直にのべられ、それはそのまま天皇制ファシズムの論理をあざやかに表現することとなった。
〇革命よりも敗戦を! その書き出しは次のようになっている。「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候〈ゾンジソウロウ〉。以下此の前提の下に申述べ候。敗戦は我国体の瑕瑾〈カキン〉たるべきも英米の輿論〈ヨロン〉は今日までのところ、国体の変更とまでは進み居らず……随て〈シタガッテ〉敗戦だけならば、国体上はさまで憂うる要なしと存候。国体護持の立前より最も憂うべきは、敗戦よりも、敗戦に伴うて起ることあるべき共産革命に候。」ここに「上奏文」の全体をつらぬくモティーフがはっきりとのべられている。それは近衛の思考と関心の核心であり、したがって天皇制支配の核心でもあった。近衛は国体擁護のうえから、天皇に敗戦を受け入れるようにすすめる。“革命よりも敗戦を”という図式である。だがこの選択は、追いつめられたこの時点で突如として現われたものではない。実は、近衛をはじめ天皇制支配層は対米開戦の際も既に一つの選択をしていた。“革命よりも開戦を”という図式によってである。それは一般に考えられているような、戦争か平和かの選択ではなかった。【以下略】

 ここで説かれている趣旨は、『日本人の「戦争」』(一九九五)においても繰り返されている。そちらについては、今月一八日のコラム「『革命よりも戦争がまし』、『革命よりも敗戦がまし』の昭和史」で、少し紹介しているので、参照を乞う。
 河原宏は、鋭い視点とユニークな発想を持ったすぐれた思想史家であり、思想家であった。彼が、『社会科学討究』(早稲田大学アジア太平洋研究センター発行)などの専門誌に発表し続けた論文は、タイトルだけを見ても、思わず読みたくなるようなものが多い。そうした論文については、このあと味読した上で、随時、このコラムで紹介してゆきたいと思う。

今日のクイズ 2013・2・28

◎河原宏『西郷伝説』(講談社現代新書、1971)のサブタイトルとして正しいのは、次のうちどれでしょうか。

1 「判官びいき」の構造
2 「士族的人間像」の発見
3 「東洋的人格」の再発見

【昨日のクイズの正解】 1 岩波新書旧赤版の最終冊、矢内原忠雄『日本精神と平和国家』の初版と同じく、サイズは新書判でなくB6判。■国立国会図書館で確認しました。「金子」様、正解です。

今日の名言 2013・2・28

◎敗戦は魂の死であり、太古以来の歴史はここに畢った

 河原宏の言葉。『日本人の「戦争」』の第Ⅴ部「特攻・玉砕への鎮魂賦」より。「畢った」は〈オワッタ〉と読む。ユビキタ・スタジオ版では230ページ。 

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覚醒して苦しむ理性(矢内原忠雄の「平和国家論」を読む)

2013-02-27 05:54:11 | 日記

◎覚醒して苦しむ理性(矢内原忠雄の「平和国家論」を読む)

 昨日の続きである。本日は、矢内原忠雄の『日本精神と平和国家』(岩波新書、一九四六)に収められているふたつの文章(講演速記)のうち、「平和国家論」の冒頭部分を紹介したい。「平和国家論」のもとになった講演は、一九四五年の一一月、長野県東筑摩郡教育会中部会の主催でおこなわれたもので、会場は同郡広丘村の広丘国民学校(現在の塩尻市立広丘小学校)だったという。

 惨憺たる敗北であります。軍事的経済的のみでなく、道義的に於ても我が国民は如何に脆弱であるかといふことを暴露しつつあるのであります。私は日本人といふ者に対して殆んど失望を禁じ得ないのであります。併し之を愛することを止めることも出来ないのであります。此の失望の中からどこに希望を見出すか。此の敗北の中からどうして我が国を復興せしめるか。我々は我々の祖先に向つて何と言つて申し開きをするか。我々の子孫に向つて如何なる道を備へておくか。食物の飢饉は迫つてをりますが、道徳の飢饉は尚驚くべきものがあるのであります。政治も経済も外交も、日本の国は殆んど独立を失つてをります。精神に於てすら独立を失ふ危険に曝されてをるのであります。今日自由主義とか民主主義とかさういふ事がやかましく叫ばれてをりますが、独立のない所に何の自由があるか。何もかも我々は外国の指令の下に政治し、生活しなければならなくなつてをる。けれども少くとも精神の独立は是を維持しなければならない。戦争中も重大な時局でありましたけれども、戦争終つてからの時局の方がもつと重大な、もつと真面目な思索を要求する事となつてをるのであります。戦争中はいはば我々の理性は曇つてをりました。併し今は理性は覚醒して苦しむのであります。
 戦争終りまして後開かれました臨時議会の開院式の勅語に、
 朕ハ終戦ニ伴フ幾多ノ艱苦〈カンク〉ヲ克服シ、国体ノ精華ヲ発揮シテ信義ヲ世界ニ布キ、平和国家ヲ確立シテ人類ノ文化ニ寄与セムコトヲ冀ヒ、日夜軫念〈シンネン〉措カス〈オカズ〉
 と仰せられてをりますが、我々臣民も本当に日夜憂慮して措かないものがあるのであります。殊に皆さんのやうに教育に関係してをられる方は尚更の言と思ひます。戦争中に国防国家といふ言葉が大に称へられました。之はドイツ語の翻訳でありまして、ナチスの作つた語であります。武装国家といふ意味であります。平和国家と言ふ語は日本で出来た言葉でせう。詔勅に言はれた平和国家の建設といふことは、日本国の理想を明かにして今後進んでゆくべき目標をお示しになつたものと信ずるのであります。

 このあと、矢内原は、フィヒテの『ドイツ国民に告ぐ』やカントの『永久平和論』を紹介しながら、「日本は平和国家となり得るか」について論じてゆくのであるが、これについての紹介は割愛する。

今日のクイズ 2013・2・27

◎1946年10月に刊行された近藤宏二『青年と結核』(岩波新書)について、正しいものはどれでしょうか。

1 岩波新書旧赤版の最終冊、矢内原忠雄『日本精神と平和国家』の初版と同じく、サイズは新書判でなくB6判。
2 岩波新書旧赤版の最終冊、矢内原忠雄『日本精神と平和国家』の初版と違って、サイズは新書判。
3 岩波新書青版の第一冊、サイズは新書判。

【昨日のクイズの正解】 3 爾後国民政府ヲ対手トセズ■この言葉を含む声明によって、結果的に日中戦争は長期化し、さらには太平洋戦争に向かわせることになりました。「金子」様、正解です。

今日の名言 2013・2・27

◎とどめだけはどうか待ってください

 鈴木貫太郎侍従長夫人・鈴木たかの言葉。昨日夜のNHKニュースによれば、鈴木たかが二・二六事件について証言している録音テープ(1965)が発見されたという。同証言の一部が紹介されたが、それによれば、瀕死の鈴木貫太郎にとどめを刺そうとした兵士に対して、鈴木たかが「とどめだけはどうか待ってください」と言い、これを聞いた安藤輝三大尉がとどめをやめさせたという。なお、昨年11月30日の当コラム「鈴木貫太郎を蘇生させた夫人のセイキ術」を参照されたい。

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新書判でない岩波新書『日本精神と平和国家』(1946)

2013-02-26 05:58:37 | 日記

◎新書判でない岩波新書『日本精神と平和国家』(1946)

 岩波新書でありながら、サイズが新書判でないものがある。戦後の一九四六年六月に出た羽仁五郎『明治維新―現代日本の起源―』の初版がそうである。これは、新書判でなく、B6判である。今から三〇年ほど前、古書店で初めてそれを目にしたときは、やや驚いた。
 新書判でない岩波新書は、これだけかと思っていたが、ごく最近、もう一冊あることを知った。矢内原忠雄の『日本精神と平和国家』(一九四六)である。昨年の後半、古書店で見かけ入手した。
『岩波新書の50年』(岩波新書、一九八八)で確認すると、『明治維新』と『日本精神と平和国家』の二冊は、同日(六月二五日)に発売されている。同年一〇月には、近藤宏二『青年と結核』も発行されているようだが、同書が新書判で出たのか、それともB6判で出たのかは、まだ確認していない。
 矢内原忠雄の『日本精神と平和国家』は、著者が終戦の年の一〇月及び一一月、長野県下の国民学校でおこなったふたつの講演の速記録に基いているという。
 本日は、そのうちの「日本精神の反省」の一節を紹介してみたい。

 太平洋戦争がその精神的推進力として日本精神を利用したことは、日本精神の為めに遺憾なことでありました。之によつて日本精神の美点が発揮せられるよりも、欠陥の暴露せられる事が多くありました。それといふのも、日本精神を利用した戦争遂行者その者が虚偽であつたからであります。第一に、太平洋戦争そのものが私心のない日本精神から始まつたものであるかどうか。太平洋戦争の性質論であります。第二は、この戦争に於て日本精神をやかましく言つた人々の実際の行動と生活を見る事であります。この二つの点を感情的でなく、静かに又緻密に見るならば、この事はわかる筈であります。
 太平洋戦争はなぜ起つたか。それは支那事変の収まりがつかなかつたかからであります。支那事変はなぜ起つたかと言ふと、満洲事変の収まりがうまくいかないから起つた。だから満洲事変はどういふ事で起つたか、少くとも其処迄溯つて考へなければならないのであります。そして之は或る人々の陰謀により計画的に起された事件であります。そして満洲国を確保する為めに、支那事変となつた。当時に於て、支那は封建的な軍閥の国だから、一押し押せば四分五裂して潰れてしまふといふやうな誤つた支那観が流布せられて、それが実行に移されたわけであります。その支那事変が片付かず、「蒋介石相手にせず」などと色んな事がありましたが、その収まりをつける為めに太平洋戦争となりました。太平洋戦争となつた後に、大東亜共栄圏、八紘為宇〈ハッコウイウ〉、さういふことが持出されたのであります。時間的順序を見てごらんなさい。太平洋戦争を始めたときに、八紘を宇となすとか大東亜共栄圏とか東亜諸民族の解放とか、さういふことが言はれたのではありません。あれは戦争遂行上政治工作が必要となつた時に始めて言はれた事です。あとから付け加へた理屈です。共栄圏とか八紘為宇ととかいふことは、それだけ取出して見れば立派な思想であります。之が国民を鼓舞したこともあるでせう。併しそれが原因となつて太平洋戦争が起つたのではありません。私心を美化するための理屈であつたが故に、八紘を宇となすといふことを折角言ひましたけれども、その意味が曖昧であつて、それを唱へる人々の間に於てさへ解釈が色々であつた。日本が本つ国〈モトツクニ〉となつて東亜諸民族を統御して往くといふ風に説明する人もあるし、諸民族を解放してすべて同等の立場で交際して往く国際親善主義であると主張する人もあつた。万邦をしてその所を得しめると言つても、所といふのにも色々ある。日本が主人であつて、他は家来であるといふのも所は所である。いやさうでない、日本も一つの国、外国も一つの国、それぞれ平等の国として立つてゆくといふ説もあつて、はつきりしなかつた。支那人や英米人は八紘為宇の思想をもつて日本の侵略主義の別名であると解釈したのであります。戦争遂行中に後から付け加へられた理屈であつたが故に、その事自体の中には非常によい思想があるに拘らず、さういふ解釈を招いたのです。

 明日も、『日本精神と平和国家』の紹介を続けたい。

今日のクイズ 2013・2・26

◎1938年(昭和13)1月16日の政府声明に含まれる言葉として正しいのはどれでしょう。

1 以後蒋政権ヲ相手ニセズ
2 自今国民政府ヲ相手ニセズ
3 爾後国民政府ヲ対手トセズ

【昨日のクイズの正解】 3 長門裕之■本名は加藤晃夫。父は沢村国太郎、弟は津川雅彦。加藤大介は叔父、沢村貞子は叔母にあたります。「金子」様、正解です。

今日の名言 2013・2・26

◎電話を受けた憲兵は黙って二階に上がっていった

 二・二六事件(1936)で銃殺された渡辺錠太郎教育総監の自宅には、警護のために憲兵が二名常駐していた。しかし、事件の日の早朝、憲兵宛ての電話があり、それを受けた憲兵は、凶行が終わるまで、二階に上がったまま降りてこなかったという。雑誌『文藝春秋』の2012年9月号に載った渡辺和子さん(渡辺錠太郎の次女)の手記「二・二六事件 憲兵は父を守らなかった」に、そういうことが書かれていた。昨年8月11日の当ブログ参照。今、渡辺和子さんの『置かれた場所で咲きなさい』という本(幻冬社、2012)がベストセラーになっているようだ。テレビでも数日前に、渡辺和子さんの温顔をお見かけした。

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映画『無法松の一生』(1943)と女優・園井恵子

2013-02-25 05:03:18 | 日記

◎映画『無法松の一生』(1943)と女優・園井恵子

 今月九日のコラムで、『ゴシップ10年史』という本の冒頭部分を引用した。その中に、「八月六日、広島に原爆が落ち、移動演劇さくら隊にいた丸山定夫、園井圭子らが死去、十五日は終戦となる」という一節があった。
「移動演劇さくら隊」については、注記が必要だと思ったが、つい怠ってしまった。
 その後、今月二一日の毎日新聞「そして映画があった」欄で、『無法松の一生』(一九四三)が採りあげられた。そこに、「移動演劇『桜隊』」という言葉が出てくる。広島市内にある「移動演劇さくら隊原爆殉難碑」の写真も載っている。この映画で吉岡大尉夫人を好演したのが、移動演劇さくら隊にいた園井恵子だったからである。
 少し引用してみよう。執筆は、毎日新聞社論説室専門編集委員の玉木研二さんである。

 製作は43年2月から8月にかけて行われた。2年後の45年8月6日、吉岡大尉夫人役の園井恵子は移動演劇「桜隊」の女優として広島市におり、原爆投下を受けた。兵庫県の縁者のもとに逃れるが、原爆症を発症して死亡する。
宝塚歌劇から新劇、そして「無法松」で映画女優として注目、評価され、先を期待されていた。
 やはり被爆後死亡した桜隊リーダーの丸山定夫は、戦前の新劇界の担い手だった。余談ながら、42年5月、丸山は文学座が芝居にした「富島松五郎伝」に松五郎役で客演した。戦争で男優が足らなかった。夫人役は杉村春子だ。
 後年、ドキュメンタリードラマ映画「さくら隊散る」(新藤兼人監督)で語った杉村の回想によると、松五郎が思わず夫人の手を握り、ハッとして放し、逃げるように辞去して二度と夫人の前に現れない、という場面があった。対米戦初期で当局の目も少々緩かったのかもしれない。

「移動演劇さくら隊」は、「移動演劇桜隊」と表記されることもあるようだが、どちらが正しいのかは不詳。原爆殉難碑には、「移動演劇さくら隊」と彫られている。
 女優としての園井恵子、あるいは被爆した園井恵子が息を引き取るまでなどについては、インターネット上に多くの情報があるので、紹介を省く。
 映画『無法松の一生』(一九四三)は、昨年、ビデオで鑑賞した。傑作だった。感動した。松五郎(無法松)を演じた坂東妻三郎は、もちろんよかった。月形龍之介の演技も光っていたと思う。日本映画史上に輝く名作だと思う。

今日のクイズ 2013・2・25

◎映画『無法松の一生』(一九四三)で、吉岡大尉の一人息子を演じた沢村アキヲは、後に芸名を変えます。何と変えたでしょうか。

1 津川雅彦  2 加藤大介  3 長門裕之

【昨日のクイズの正解】 3 徳富蘇峰■本名の徳富猪一郎で、『支那問題解決の途』に、巻頭文を寄せています。

今日の名言 2013・2・25

◎これほど愛され続けた“市井無頼の徒”はいまい

 玉木研二さんの言葉。何度も映画化・演劇化された『無法松の一生』の主人公・松五郎についてのコメント。2月21日の毎日新聞「そして映画があった」欄より。上記コラム参照。

*ブログ開設以来アクセスが多かったコラム* ブログ開設以来、アクセス数が多かった日をランキングしてみました。順に10位まで挙げます。あいかわらず、反応は読めません。特に、今月14日、23日のコラムに、アクセスが多かったのは意外でした。

1位 昨年7月2日  中山太郎と折口信夫(付・中山太郎『日本巫女史』)
2位 本年2月14日 ナチス侵攻直前におけるポーランド内の反ユダヤ主義運動
3位 本年1月2日  殷王朝の崩壊と大日本帝国の崩壊(白川静の初期論文を読む)
4位 本年1月10日 『新篇路傍の石』(1941)における「文字の使用法」
5位 本年1月25日 品川の侠客・芳賀利輔がおこなった炊き出しの顛末
6位 本年1月26日 土岐善麿の国語表音化論に対する太田青丘の批判
7位 昨年9月20日 柳田國男は内郷村の村落調査にどのような認識で臨んだのか
8位 昨年9月17日 内郷村の村落調査の終了と柳田國男の談話
9位 昨年12月31日 家永三郎の「天皇制と日本古典」にみる国家と宗教
10位 本年2月23日 『支那問題解決の途』(1944)に解決の道は見えない

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深刻苛烈な事態にいたった「支那問題」(『支那問題解決の途』より)

2013-02-24 09:31:10 | 日記

◎深刻苛烈な事態にいたった「支那問題」(『支那問題解決の途』より)

 昨日の続きである。東亜調査会編纂『支那問題解決の途』(毎日新聞社、一九四四年九月)の中にある谷水真澄の論文「『全面和平』を繞る諸問題」から、その最後の一節を紹介してみたい。筆者の谷水真澄は、東亜調査会理事、毎日新聞東亜副部長。

 支那統一を阻む重慶抗戦の性格
 こゝでわれらは再びもとに還つて、重慶政権の実体を究明しなければならない。
 現在、重慶の内部においては前記の如く、支那民族統一への本能的な欲求が、六年余にわたる抗戦のきびしい現実を濾過して、惻々として盛り上り、東亜復帰への熱意が抬頭しつゝあることは見逃すことの出来ない事実であり、またそれはわが対支政策の根本精神より見て、尊重すべきものであることはいふまでもない。もし重慶人の心奥にかゝる要素がいさゝかでも発見し得ないとするならば、純正なる東亜的人間性に基礎をおくわが事変処理の政策は、その根本的意義を失ふものであつて、わが事変処理の方策は新たなる観点において再検討されねぱならぬことともなる。この意味においてわれらは、雄渾なるわが対支政策の客観性を実証する事実を見出したことを、心より喜びとするものである。
 然しながら、こゝに考慮を要することは、当面重慶の動向を支配し、その方向を決定するものは、あくまで徹底した国家的打算であり、ドス黒い戦争の現実だといふことである。従つて対日戦争の停止、南京政府との合流合作、反枢軸よりの離脱といふが如き重大なる方向転換に関しては、戦ひつゝある重慶の現実に対して、更に冷静なる検討がなされねばならない。これら事変の局面に現れつゝある事実において見れば、次の如き諸点が指摘されるのである。
 第一、重慶は事変六ケ年余を通じて敗戦に敗戦を重ねつゝも、今日においてなほ敗れたりとは考へてをらず、むしろ日本軍を大陸に引きつけてゐることは、消耗戦の立場より見て却つて成功を収めたと考へてゐる。従つて全面より見れば重慶軍に敗戦感はなく、依然として熾烈なる敢闘精神を失つてゐないことは、最近の戦局の様相にはつきりと現れてゐる。
 第二、重慶と米英の関係は、大東亜戦以来急激に増加した米資本、技術の奥地浸潤、在支米軍と重慶軍の空陸連携作戦の成立、ビルマ反攻作戦における米英蒋軍事合作の強化等において見らるゝ如く、刻々に緊密化しつゝあり、今や米英との勾結〔結託〕はぬきさしならぬものがあることを感ぜしめる。たゞ重慶自体は必ずしも米英に利用されてはをらず、また米英と運命を共にしようと考へてゐるわけではないが、重慶の支配層は米英に依存せずには成立し得ない要素を以て構成されてゐることに注目する必要がある。
 第三、抗戦の基礎をなす戦時経済は一応その体制を整へ、米英よりの支援と相俟つて、軍需は細々ながら続け得る状態にあり、少くもこゝしばらく重大な破綻を来すやうなことは予想出来ない。また徴兵制度の実施、新県制の実施による地方政治の党的掌握、田賦制の改革、租税の実物徴収、全面的な企業統制等国内体制の再編成が一応緒につき、しかも、それが強力な蒋介石の独裁機構と結びついてゐる事実は、重慶政府が外的な打撃によつて容易に崩壊するものでないことを示してゐる。
 第四、世界戦局の見透しについては、イタリヤの枢軸脱落以来益々英米の勝利を妄信するに至り、太平洋戦局における米国の敗戦にも拘らず、反枢軸の「最後の勝利」を信じて疑はない。蒋介石のカイロ会談参加はかゝる国際情勢判定に基づくものである。
 以上の諸点は、わが対支政策の寛容なる精神、汪精衛〔汪兆銘〕氏の己れを空しくせる呼びかけにも拘らず蒋介石が頑強に抗戦を持続し得る条件である。而してこれを貫くものは「鴆を飲んで渇を止むる」を辞せざる支那人本来の徹底的性格であり、絶対戦争として戦ひつゝある抗戦重慶の性格であつて、かゝる観点より見れば、わが対支政策の重大発展を以て、重慶の反省及びその方向転換を直ちに期待する如きは、実にあまい考へといはねばならぬ。しからば、かゝる深刻苛烈な事態に当面しつゝある日本が今後執るべき態度は如何。第一には対米英戦争に勝ちぬいて上述の如き重慶を抗戦に膠着してゐる環境を解きほごすことである。第二には日本が支那国民に約束した諸条件を忠実に実行し、日支抗争のよつて来る素因をとり除き、南京国府の政治的活動を積極化せしめ、将来における重慶との合作を容易ならしめる途を開くことである。日支の和平敦睦〈トンボク〉と支那民族の統一完整はあくまで一であつて、二であつてはならない。《谷水真澄》

 昨日紹介した田中香苗論文にも増して、冷静かつ客観的な分析をおこなっている。
 筆者の谷水真澄は、「当面重慶の動向を支配し、その方向を決定するものは、あくまで徹底した国家的打算であり、ドス黒い戦争の現実だ」と指摘している。また、「わが対支政策の重大発展を以て、重慶の反省及びその方向転換を直ちに期待する如きは、実にあまい考へといはねばならぬ」とも述べている。これは、注目すべき言葉である。
 当時の日本は、対支政策・対支戦争ともに行きづまり、しかも太平洋方面において、劣勢に追い込まれていた。ということであれば、この時点で大日本帝国が採るべき道は、中国からの即時全面撤退を前提とした重慶政権との和平以外になかったのではないだろうか。すなわち、大日本帝国は、重慶政権にならって、「ドス黒い戦争の現実」を直視し、「徹底した国家的打算」の立場を貫くべきだったのである。
 本書『支那問題解決の途』は、東亜調査会の編纂になる。東亜調査会は、毎日新聞社が設立した東亜問題についてのシンクタンクである。シンクタンクである以上は、この帝国存亡の機においては、そのくらいのことは主張すべきだったと思う。しかし、当時の言論統制の下においては、それが主張できなかった。主張できたとしても、それが採用されるような政治状況ではなかったろう。
 ただ、谷水論文について言えば、これは、「純正なる東亜的人間性に基礎をおくわが事変処理の政策」が、すでに「根本的意義」を失っているという現実を明らかにしようとした論文だと捉えられなくもない。

今日のクイズ 2013・2・24

◎1944年の段階で、東亜調査会の会長は、だれだったでしょうか。次のうちからひとり選んでください。

1 松岡洋右  2 小磯国昭  3 徳富蘇峰

【昨日のクイズの正解】 1 蒋介石政権の本拠地の地名をとって、蒋介石政権あるいは蒋介石軍を意味した。■「重慶」についての質問でした。「金子」様、正解です。

今日の名言 2013・2・24

◎重慶軍に敗戦感はなく、依然として熾烈なる敢闘精神を失つてゐない

 谷水真澄の言葉。『支那問題解決の途』(毎日新聞社、1944)の144ページに出てくる。上記コラム参照。

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