◎検事正宛の伝言を交番の巡査に依頼「今土浦を発つ」
だいぶ前のことになるが、二〇一四年二月四日に、「5・15事件の黒幕・大川周明を上野駅で逮捕できず」というコラムを書き、その翌日、「大川周明を土浦から自動車で護送(1932・6・16)」というコラムを書いた。本日は、これに若干の補足をおこないたい。
この両日のコラムでは、五・一五事件の黒幕と目された大川周明が、上野駅発・青森行きの急行列車の車内で、警視庁刑事部捜査第二係の職員によって逮捕された経緯を紹介した。まず、二〇一四年二月四日のコラムを、そのまま、引用する。
◎5・15事件の黒幕・大川周明を上野駅で逮捕できず
法務庁研修所発行の「研修叢書」第一号『捜査十談義』という本を入手した。文庫本の仕様で、本文六四ページ。奥付がないので、発行年は不明だが、「編者のことば」(署名・茂見義勝)の末尾には、「昭和二十二年暮」とある。おそらく、一九四八年の初めに発行されたものであろう。
本日は、その中から、元警視庁刑事部捜査第二係長の清水万次の、「ボスの行動」という文章を紹介してみよう。
六、ボスの行動 副検事 清水万次
【前略】それから一つ、捜査上大変苦心した話を申上げます。これは右翼関係のもので、只今精神病院に入つて居ります、Oの逮捕の顛末、であります。
彼は錦旗革命から、血盟団事件への、黒幕でありまして、右翼思想運動の指導者であつたのであります。そして、五・一五事件に於きましても、矢張り指導的立場にあつたので、彼の検挙と言うことになつたのであります。当時の東京の検事正は、M氏でありました。Mさんは世間でも知つて居る通り、度胸の良い思い切つてやる性格の方であります。それは丁度日曜でありましたが、私の部屋の全員は、他の事件の調べで急がしく、役所に出て居たのであります。ところが、突然検事正から、今晩Oを逮捕せよ、実は本人は、検事局からの呼出に応じないで、却つて青森県の某所で、Z会の発会式があるので、それに出席すると言つて居る。然しこれは或は高飛びをするためかも知れない、この機会に彼を検挙しないといけない。今夜、上野駅から出発するのを逮捕せよ。令状をそちらにやつておくから、と言うのでありました。それが、すでに晩の七時頃の事であります。彼は十一時の急行列車で、立つ筈である、と云うのです。それで、私は早速部下五名をつれて、上野駅にとんで行きました。そこで待つうちに、駅のホームには、錚々たる腕利きの、暴力団か右翼団の者と見える男が、二十名以上も、見送りに集つて参りました。この状態を見て、私は、自分が今こゝで、彼を逮捕しようとすれば、必ずその連中との間に乱闘が起つて、自分は、殺されてしまうに相違なく、それでは彼を逮捕するという目的を達することは出来ない、と考えました。
私達は、まだ其の時晩飯も食べては居らず、駅にかけつけると直ぐ入場券を買つて、取りあえずホームに入つたという丈で、そんな状態では、到底、其場で彼を逮捕するという事は、不可能であります。こちらの態勢が整つて居りません。そこで私は考えて、思い切つて入場券のまゝ、青森行の急行列車に、乗り込む事にしたのであります。私達はその汽車が動き出してから、仕事を始めよう、と言うことに決心したのでありました。そして、せいぜい日暮里では、其の仕事の片が付いて、下車出来るつもりでありましたところが、発車間際になつて其の急行列車は、土浦までは停らない、そして土浦に着くのは夜の十二時過だと言う事が、我々に判つたのであります。どうしようかと迷いました。然し逮捕する任務を捨てる事は出来ません。Oを追つて、行くところまで行くだけであります。Oが盛んな万歳に送られて、ホームから列車に乗り込みました。我々も別の入口から静かにその列車に乗つたのであります。【以下、次回】
具体的なことは、あまり書いてないが、Oが大川周明であることはすぐわかる。当時、大川は、右翼団体・神武会(文中では、「Z会」)の会長。時期は、五・一五事件からひと月たった、一九三二年(昭和七)六月一五日のことと思われる。大川は、神武会の八戸・弘前支部の発会式に出席すべく、この日の深夜、上野駅から急行列車に乗り込もうとしていた。
警視庁刑事部捜査第二係の清水万次らは、東京のM検事正の命を受けて、五・一五事件の黒幕・大川周明を逮捕すべく、上野駅に待機したが、同駅での逮捕は困難と見て、大川と同じ列車に乗り込んだ。
次に、二〇一四年二月五日のコラムを、これまた、そのまま、引用する。
◎大川周明を土浦から自動車で護送(1932・6・16)
昨日の続きである。法務庁研修所発行の「研修叢書」第一号『捜査十談義』に収録されている、元警視庁刑事部捜査第二係長の清水万次の、「ボスの行動」という文章の最後の部分である。
列車が進行を始めますと、Oは、すぐ寝台車にやつて参り、腰を下して寝る準備を始めました。私は其の時を見はからつて、用意した令状を彼に示しました。相当な人物の様に、聞いて居りましたが、其の瞬間の彼は、顔面蒼白になつて、やゝふるえきみでありました。「何故〈ナゼ〉、汽車に乗る前に、言わないか」、と言つただけで、我々は次ぎの言葉を待つて居りましたが、彼は何も言いませんでした。そんなとことで、彼と論争しても仕方がありませんので、適当に御機嫌をとりまして、とに角令状があるので、土浦で下車する事、を承諾させたのであります。ところが、御承知の通り、土浦は海軍の飛行基地でありまして、当時は、血盟団の海軍方面の本部となつて居りました。若し此の土浦で、ぐづぐづして居たら、どんなことが起きるかわかりません。そこで我我は、列車が土浦に到着する前に、乗組の車掌に連絡しまして、自動車二台の用意を頼み、下車すると同時に、その自動車に乗つて、東京に引き返す手配を致したのであります。列車は予定通り、十二時過に土浦に着きました。早速用意してあつた自動車に乗込みまして、駅前の交番の巡査に頼んで、東京の検事正宛に、「今土浦を発つ〈タツ〉」と言うこと丈を、電話で連絡して貰うことに致し、その自動車で、直ぐ東京へと引き返したのでありました。東京に着いた時には、夜が明けて居りました。
私が、以上の話を申上げましたのは、兎角〈トカク〉逮捕を急ぐ、と言う事が、第一線に居ります者の、一般傾向であります。ところが、急ぐと失敗する事があります。私は卑怯と言われるかも知れませんが、然し急いでやる必要はない、急がば廻れ式、にやつてみようと言う気で、此のOの逮捕をしたのであるます。尚、私が土浦の交番に頼んで、致しました前述の報告が、大変検事正の気に入つたと云う事でありました。「今土浦を発つ、」と言うことだけで、逮捕に成功したことが十分判つた、と無事に帰つてからほめられたのであります。
清水万次は、列車が進行を始めてすぐ、「用意した令状を彼に示しました」と述べているが、この時点で逮捕という形になるのか。その場合には、一九三二年六月一五日のうちの逮捕ということになるだろう。逮捕状の執行の時刻と場所が記録されている文書を見てみたいものである。なお、しばしば出てくる「検事正」(M検事正)の氏名は、まだ確認していない。
――以上が、両日のコラムの内容である。ここで、引用した「ボスの行動」という文章には、事件の日付が記されていないが、急行列車が上野駅を出たのは、一九三二年(昭和七)六月一五日の深夜、最初の停車駅である土浦駅についたのが、日付が変わった六月一六日の午前零時すぎだったと思われる。
この当時の時刻表を見たいところだが、すぐには参照できない。参考までに、一九四四年(昭和一九)の時刻表(東亜交通公社発行『時刻表』昭和十九年十二月号、通巻二三五号)を見ると、上野駅を出る常盤線経由の青森行き急行列車は、次の一本のみである。
・常盤線203急行列車(上野駅始発、青森行き) 上野駅17:30発、土浦駅18:40着、同駅18:41発、平駅21:17着、同駅21:22発、仙台駅0:15着、同駅0:21発、盛岡駅3:55着、同駅4:01発、青森駅8:00着。
この急行列車は、時刻表には載っているものの、「当分運転休止」という注記がある。すなわち、一九四四年(昭和一九)の時点では、午後に上野駅を出る青森行きの急行列車は、すでに一本も運行されていなかったのである(東北本線経由の青森行き急行列車も、運行されていない)。
もっとも、次の普通列車は運行されていた。
・常盤線201列車(上野駅始発、青森行き) 上野駅22:30発、土浦駅0:07着、同駅0:10発、平駅3:45着、同駅3:50発、仙台駅8:13着、同駅8:25発、盛岡駅13:38着、同駅13:46発、青森駅19:40着。
このほかに、東北本線経由青森行きの普通列車が、一日に二本あるが、紹介は割愛する。
さて、大川周明が、乗り込んだ急行列車だが、上野駅から次の停車駅である土浦駅までの所要時間を七〇分と見る(常盤線203急行列車を参考にした)。仮に、上野駅23:00発とすると、土浦駅には、翌日の0:10着ということになろう。
元警視庁刑事部捜査第二係長の清水万次は、「列車は予定通り、十二時過に土浦に着きました。」と書いている。かなり、正確な記録であることは間違いない。
なお、常盤線だが、上野駅のあとは、日暮里・三河島・南千住・北千住・亀有・金町・松戸というふうに駅が続く。松戸駅まで来ると、すでに千葉県である。
清水万次らは、警視庁の職員として、逮捕状を執行するわけであるから、その執行は、東京府内でなくてはならない。急行列車であるからして、グズグズしていると、千葉県に入ってしまう(上野・松戸間は、一六・七キロ)。清水万次らが、列車が進行を始めると間もなく、大川周明に逮捕令状を示したのは、それが理由だったと思われる。
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