礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

礫川ブログへのアクセス・歴代ベスト108(21・12・31)

2021-12-31 00:01:38 | コラムと名言

◎礫川ブログへのアクセス・歴代ベスト108(21・12・31)

 二〇二一年も大晦日を迎えた。除夜の鐘にちなみ、礫川ブログへのアクセス・歴代ベスト「108」を紹介する。
 順位は、二〇二一年一二月三一日現在。なおこれは、あくまでも、アクセスが多かった「日」の順位であって、アクセスが多かった「コラム」の順位ではない。

1位 16年2月24日 緒方国務相暗殺未遂事件、皇居に空襲
2位 15年10月30日 ディミトロフ、ゲッベルスを訊問する(1933)
3位 19年8月15日 すべての責任を東條にしょっかぶせるがよい(東久邇宮)
4位 16年2月25日 鈴木貫太郎を救った夫人の「霊気術止血法」
5位 18年9月29日 邪教とあらば邪教で差支へない(佐藤義亮)
6位 16年12月31日 読んでいただきたかったコラム(2016年後半)
7位 14年7月18日 古事記真福寺本の上巻は四十四丁  
8位 21年8月12日 国内ニ動乱等ノ起ル心配アリトモ……(木戸幸一)
9位 21年6月7日 山谷の木賃宿で杉森政之介を検挙
10位 18年8月19日 桃井銀平「西原鑑定意見書と最高裁判決西原論評」その5      

11位 17年4月15日 吉本隆明は独創的にして偉大な思想家なのか
12位 21年3月4日 堀真清さんの『二・二六事件を読み直す』を読んだ
13位 18年1月2日 坂口安吾、犬と闘って重傷を負う
14位 19年8月16日 礫川ブログへのアクセス・歴代ベスト30(19・8・16)
15位 18年8月6日 桃井銀平「西原学説と教師の抗命義務」その5
16位 17年8月15日 大事をとり別に非常用スタヂオを準備する
17位 18年8月11日 田道間守、常世国に使いして橘を求む
18位 17年1月1日 陰極まれば陽を生ずという(徳富蘇峰)
19位 17年8月6日 殻を失ったサザエは、その中味も死ぬ(東条英機)
20位 17年8月13日 国家を救うの道は、ただこれしかない

21位 19年8月18日 速やかに和平を講ずる以外に途はない(高松宮宣仁親王)
22位 21年8月14日 詔勅案は鈴木首相が奉呈して允裁を得た
23位 21年3月5日 ある予審判事が体験した二・二六事件
24位 19年4月24日 浅野総一郎と渋沢栄一、瓦斯局の払下げをめぐって激論
25位 15年10月31日 ゲッベルス宣伝相とディートリヒ新聞長官
26位 20年2月24日 悪い奴等を葬るのが改革の早道だ(栗原安秀中尉)
27位 18年10月4日 「国民古典全書」は第一巻しか出なかった
28位 20年2月26日 日本間にある総理の写真を持ってきてくれ(栗原安秀中尉)
29位 15年2月25日 映画『虎の尾を踏む男達』(1945)と東京裁判
30位 19年1月1日 もちごめ粥でも炊いて年を迎えようと思った(高田保馬)

31位 18年5月15日 鈴木治『白村江』新装版(1995)の解説を読む
32位 19年2月26日 方言分布上注意すべき知多半島
33位 19年8月17日 後継内閣は宮様以外に人なき事(木戸幸一)
34位 20年2月9日 失敗したときは、これをお使いください(小坂慶助)
35位 18年8月7日 桃井銀平「西原学説と教師の抗命義務」その6
36位 21年8月11日 鈴木首相も平沼枢相の意見に賛成したる様子(東郷茂徳)
37位 20年5月11日 靖国神社ハ戒厳司令部ニ対シ制高ノ位置ニアリ
38位 20年7月11日 8月15日以来、別な国家が生成しつゝあるといふ認識
39位 19年1月21日 京都で「金融緊急措置令」を知った村田守保
40位 20年4月24日 ソ連参戦前に戦争終結を策すべきである(瀬島龍三)

41位 19年12月9日 『氷の福音』を読んで懐かしい気持ちになった
42位 20年3月30日 澤柳政太郎君の無責任
43位 18年12月31日 アクセス・歴代ベスト108(2018年末)
44位 20年1月20日 私は逃げると思っていました(佐藤優)
45位 20年5月4日 「達磨に手足は不要なり!」と豪語
46位 19年1月23日 神社神道も疑いなく一種の宗教(美濃部達吉)
47位 18年5月16日 非常識に聞える言辞文章に考え抜かれた説得力がある
48位 18年5月4日 題して「種本一百両」、石川一夢のお物語
49位 18年5月23日 東条内閣、ついに総辞職(1944・7・18)
50位 18年9月30日 徴兵検査合格者に対する抽籤は廃止すべし

51位 19年1月30日 鵜原禎子が見送る列車は金沢行きの急行「北陸」
52位 20年3月28日 北方の天子は足利氏の飾り物であった(菊池謙二郎)
53位 19年1月24日 天皇に奉呈する請願書は侍従職に宛て郵便を以て差出す
54位 20年5月3日 われわれの死は昭和維新の人柱として……(安藤輝三)
55位 20年4月20日 礫川ブログへのアクセス・歴代ベスト30(20・4・20)
56位 18年1月7日 ハーグ密使事件をスクープした高石真五郎
57位 19年3月7日 土井八枝さんの「仙台方言集」はウソからマコト
58位 19年3月8日 梅林新市氏は珍しい方言集を発見して紹介した
59位 16年2月20日 廣瀬久忠書記官長、就任から11日目に辞表
60位 18年9月28日 新潮社に入社すると「ひとのみち」に入る

61位 18年7月9日 本居宣長は世界の大勢を知らないお座敷学者(竹内大真)
62位 20年5月1日 「維新大詔」が渙発されるまでは戦いぬかねばならなかった
63位 17年8月14日 耐へ難きを耐へ忍び難きを忍び一致協力
64位 18年8月10日 天日槍はどこの国からきたのか
65位 19年12月13日 ほうきの柄で生徒13名をなぐり、1名に頭部裂傷を与える
66位 18年8月14日 天日槍の来朝と赤絹掠奪事件
67位 20年1月31日 占領部隊は武士のなさけを知らない(迫水久常)
68位 20年2月15日 「いかにも岡田である」(松尾伝蔵)
69位 20年4月22日 大本営の議と御前会議
70位 19年1月6日 大山のヒトツバを煎じて飲めば必ず治る

71位 18年11月27日 火事のとき赤い腰巻を振るのはなぜか
72位 17年8月17日 アメリカのどこにも、お前たちの居場所はない
73位 19年2月15日 秋田方言と出雲方言が似通っているのを奇とし
74位 20年1月24日 首相の義弟・松尾伝蔵大佐の遺体だった(迫水久常)
75位 20年4月19日 四時半、機関銃の音に目を覚ました(迫水久常)
76位 20年1月23日 お父さんはきっと生きていらっしゃいますよ(迫水万亀)
77位 20年5月2日 茲に天誅必加を決意す(山田洋)
78位 19年1月17日 「一マイル競走」の原作者はレスリー・M・カークではない
79位 20年4月17日 陛下は純白の御手袋をはめられた御手にて……
80位 20年3月8日 南北朝合一後は南朝も北朝もない(北畠治房)

81位 18年5月30日 和製ラスプーチン・飯野吉三郎と大逆事件の端緒
82位 19年1月18日 山本有三の『真実一路』と吉田甲子太郎の「一マイル競走」
83位 20年3月6日 余も北朝の天子を御気の毒と思ふ(牧野謙次郎)
84位 19年1月29日 成田鉄道多古線を走った代用燃料車のゆくえ
85位 20年8月10日 宇野十郎少佐は爆撃機操縦の名手、陸軍航空の花形であった
86位 21年12月15日 関軍曹に相当する軍人は存在しない
87位 20年4月18日 国家の維持について頼る所は国民を残すことのみ
88位 20年2月23日 首相にマスクとロイド眼鏡を手渡し
89位 18年12月28日 絞首刑でなく銃殺刑にしてほしかった(ベルトホルト夫人)
90位 21年8月25日 既にわれわれは「休戦の談判」を放棄している

91位 20年5月10日 戒厳司令部、化学戦を準備す(2月28日)
92位 19年2月27日 貸座敷業のかたわら「大阪方言」を著した横井照秀氏
93位 20年1月26日 総理生存の旨を天皇陛下のお耳にいれておかねばならない
94位 20年3月15日 菊池謙二郎の「南北朝対等論を駁す」を読む
95位 19年8月22日 「降伏文書調印に関する詔書」(1945・9・2)
96位 18年11月25日 瀧川政次郎の「火と法律」を読む
97位 20年4月6日 科学が負けたのだから降伏しても恥ではない
98位 20年8月15日 仁科芳雄博士の表情は蒼白そのものだった
99位 18年2月14日 自殺者に見られる三要素(西部邁さんの言葉をヒントに)
100位 18年3月15日 二・二六事件「蹶起趣意書」(憲政記念館企画展示より)

101位 19年1月16日 京都から彦根までの切符を買うために朝四時半に家を出る
102位 15年8月5日 ワイマール憲法を崩壊させた第48条
103位 20年1月30日 この話はきかなかったことにしておく(大角海相)
104位 19年6月17日 寺院財産の管理規定を完備しなければならぬ
105位 18年12月30日 読んでいただきたかったコラム10(2018年後半)
106位 20年8月1日 いかなる天皇制の理論分析にも私は満足できない(針生誠吉)
107位 20年1月27日 一人の中尉が立ってきて栗原中尉だと名のった
108位 18年10月29日 それならば、なぜ判決を急ぎ、証拠を隠滅したのか

*このブログの人気記事 2021・12・31

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読んでいただきたかったコラム10(2021年後半)

2021-12-30 01:35:39 | コラムと名言

◎読んでいただきたかったコラム10(2021年後半)

 二〇二一年も、そろそろ終わろうとしている。この一年、いろいろなことがあった。
 恒例により、二〇二一年後半(七月~一二月)に書いたコラムのうち、読んでいただきたかったコラムを、一〇本、挙げてみたい。おおむね、読んでいただきたい順番になっている。

1) 三国同盟の締結は妥当の政策であった(近衛文麿)    9月30日

2) 本多熊太郎とポピュリズム            11月25日

3) ああ、もう一度ハワイをやる(山本五十六)    12月10日

4) 香港のIDカードのルーツは「良民証」か         9月8日            

5) 映画『二・二六事件 脱出』(1962)を観た  12月14日

6) 岩淵悦太郎は『中等文法』を復刻すべきだった    7月13日

7) 金メダルかじり事件と個人の尊厳          8月19日

8) 片山病(日本住血吸虫病)と漆船の伝説       10月2日

9) 映画『眼の壁』で印象に残ったシーン        10月1日

10) 吉野源三郎・富本一枝・渡邊一夫の三人で作った本 12月25日

次 点 秋田県西馬音内の「矢崎新聞店」は健在      11月27日

*このブログの人気記事 2021・12・30(10位に珍しいものが入っています)

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七つの死体が火に包まれているのだ

2021-12-29 04:59:39 | コラムと名言

◎七つの死体が火に包まれているのだ

『特集文藝春秋 私はそこにいた』(一九五六年一二月)から、木谷忠の「七戦犯の骨を探して」という記事を紹介している。本日は、その四回目(最後)。

   灰は太平洋にまかれたか?
 ほかに仕様もないので私たちは火葬場を遠巻きにみていた。すると、前夜から場内の茶屋に潜んでいた第一班の連中がゾロゾロと追い立てられてくる。関係者以外だれにも見せないという厳格さだ。前夜は凍るような綺麗な星空だつたのに、今朝はいまにも降りそうな厚い灰色の空だ。一時間もしたろうか、火葬場の高いエントツからドス黒い煙りが上り始めたのに気がついた。七つの死体はいよいよ火に包まれているのだ。
 どんよりした空に昇りかねて、エントツの煙りは地に這う。イヤな、何ともいいようのない異臭が煙りとともに久保山一帯を覆う。東條ほか六人の臭いだ。
 一時間ほどでトラックとジープが走り出てきた。兵隊たちもサッとジープに飛び乗つて引揚げてしまう。私たちはわれ勝ちに火葬場の中に駈け込んだ。どうなつているのか出来るだけそのままの様子をみておきたい。
 五つ位並んだ大きいカマはまだ強い余熱を持つたまま大きく口を開いていた。カマの中はどれも綺麗なつていて、何も残つていない。二人のオンボウが何もなかつたような顔でしきりにタタキになつた床の上をホウキで掃いていた。灰と土の混り合つた一ト山ができ上る。何とはなしにぼんやりとその仕事をみていると、同僚の一人が「それは何ですか」と何かを感付いた真剣さで尋ねた。「残りの灰ですよ」とオンボウは答える。
 われわれは直ぐ火葬場の責任者にその残灰の処置をどうするのか、と聞いた。その答えはいつもと同じように、火葬場の片隅にある供養塔の下のツボに入れるのだという。ただのゴミと同じように、どこへでも捨てるというわけにはゆかない性質のものだから、だれの場合にもそうしているのだという。
 ここ数週間、われわれが師走の風にふるえ上りながら、連日連夜追いかけ、張り込みをやつてきた、いわば唯一の成果ともいうべきものがここにある、と私たちは思つた。たとえそれが土と混り合った残灰であろうとも、骨灰のほとんどすべてが米国の手でどこへ運ばれてしまつたのかわからないのであつてみれば、これがわずかに残された東條らの一部なのだ。そして、それが土ボコリと一緒にホウキで掃き集められているこの姿! 
 われわれはすぐこれを記事にして、東京本社に送つた。しかし翌日の紙面にはこの記事は見当らなかつた。翌々日も。東京本社はGHQをおもんぱかつて、この記事を抑えないわけにゆかなかつたのだ。
 GHQは、従つて第八司令部も、処刑された七戦犯の遺骨の処置については、実に気に病んだらしい。まだ昭和二十三年、米国は日本における軍国主義復活の不安を拭い去れないでいた。もし東條らの遺骨がどこにある、という事実がはつきりしてしまうと、いつかその地が、日本軍国主義の、あるいは民族主義の、聖地になることがあるかも知れないと恐れていた。これが、東條らの遺骨を米軍が集めて、日本人のだれも知らない、おそらくは遠い太平洋上に運んでバラ撒いたといわれる――そしてそれは事実でもあつたろうが――理由だつたし、久保山火葬場の供養塔に残灰があることを報道することもはばかられた理由でもあつた。
 その後すでに八年も経つうち、七戦犯の遺骨、残骨についていろいろなうわさと報道が行われている。長野県の某氏がこつそりと持つていると伝えられたかと思うと、直ぐそれが全くのニセ物だといわれたり、また熱海の松井石根(まつい・いわね)元大将未亡人の邸に久保山火葬場の供養塔下から持出した、例の残灰が保存されているとか。
 しかしただ一つ、当時米軍がああまで気に病んでいた日本国民の〝東條への郷愁〟は、幸にも心配されるほどのことはなかつたということだけははつきりしている。

 ここで木谷忠記者は、「骨灰のほとんどすべてが米国の手でどこへ運ばれてしまつたかわからない」と書いている。また、そのことを記事にして東京本社に送ったが、紙面には載らなかったとも書いている。これは、重要な証言である。
 すでに述べた通り、本年六月、A級戦犯七名の遺骨は飛行機によって太平洋にまかれたという事実が、新たに発見された米国公文書によって明らかになった。このことは、新聞等で、大きなニュースとして報じられた(東京新聞、2021・6・7)。しかし実は、戦犯の処刑がなされた当時においても、一部の日本人は(報道関係者含む)、「遺骨は飛行機によって太平洋にまかれた」ことを把握していたのではなかったか。

*このブログの人気記事 2021・12・29

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われわれは必死に幌トラックのあとを追った

2021-12-28 00:01:01 | コラムと名言

◎われわれは必死に幌トラックのあとを追った

『特集文藝春秋 私はそこにいた』(一九五六年一二月)から、木谷忠の「七戦犯の骨を探して」という記事を紹介している。本日は、その三回目。

   右翼の残党と間違えられる
 この間、われわれはまた横浜市内の火葬場めぐりもした。処刑された七戦犯の死体はおそらく第八軍管轄下の横浜に運ばれて、市内どこかの火葬場で火葬されるということは、どうやら大体確実のようだつた。久保山、元町、根岸などいくつかの火葬場を訪ねて、処理能力などを聞いてみると、結局可能性のあるのは、久保山火葬場と山手の高台にある米軍墓地の二つにしぼられてきた。われわれはいざというときには、この二つの場所に張り込むことを決めた。
 クリスマスが近づいて、街にクリスマス・トゥリーとサンタクロースが氾濫し出した頃とうとうそのいざという日が来た。いろいろの点からみて、十二月二十一日と二十二日が最後の日とみられた。時刻はおそらく深夜という見込みも強かつたので、われわれの夜の張り込みはますます真剣なものとなった。そしてついに二十二日の夜十時過ぎ、凍りつくような星空の下をフュルプス大佐が一人階段を降りて水色のプリモスに歩み寄るのを私は見た。車が走り出すのと同時に私はかねて頼んであつた崖下の民家に飛込んで「出たゾ!」という一言の一報を入れた。間もなく、京浜国道への分岐点に配置してあつた別の見張りからも「水色のプリモスが東京へ向つた」と第二報が送られた。
 この苦心の第一報、第二報が新聞にとつてまた世の中の人々にとつて、何程の役に立つたか、よく分らない。しかしわれわれにはそんなことをいつている間はなかつた。直ぐ全員が支局に集合し、三班に分けて、一班は久保山火葬場内の茶屋の中に泊り込み、一班は 山手の米軍墓地門前に張り込み、一班は市内の要点に立番〈タチバン〉して、東京から死体を運ぶトラックが入つてくるのを見張つた。
 私は米軍墓地に割当てられた。人家のない淋しい高台の上の墓地の、鉄条網の外に私は同僚と二人震えながら立つていた。二十三日の午前二時半ごろ、私は鎮まりかえつた街のかなり遠いところを重いトラックが走るような音をきいた。音はすぐ消えた。そして私は寒さで、思考力も体を動かす力も萎えてしまつたまま、ただ時間の過ぎるのを待つていた。六時ごろ空が白んでくると、ようやくぼんやりした頭がいくらかずつ動き出した。二時過ぎに聞いたあの音が気になつた。墓地の門を守る米兵にこの墓地には裏口もあるのかと聞くと、「ある」という。慌てて裏口にかけつけると、いる、いる、二台のホロ〔幌〕をかけたトラックと二台のジープが。ホロ・トラックの中にはおそらくずつしりと重い七つの棺が乗つているのだろう。間もなく、七時過ぎトラックはジープの先導で墓地の門を出た。久保山火葬場に向うのだ。火葬場のオンボウが、〝出勤〟する時間でも待つていたのであろう。
 われわれはむろん必死にホロ・トラックのあとを追つた。幸い他社はだれもいない。好機とばかり、トラックについて、火葬場に飛込もうとすると、殿り〈シンガリ〉をつとめていたジープから、数人の米兵が飛び降りて、グルッと入ロを取り囲み銃剣のついた銃を構えてわれわれをにらみつける。彼らはシンから真剣な表情だ。あるいは狂信的右翼の残党が死体の奪還をはかるかも知れないといつた想定も米軍のアタマにあつたのではないだろうか。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2021・12・28(9・10位に珍しいものが入っています)

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第八軍憲兵司令官の車は水色のプリモス

2021-12-27 03:10:52 | コラムと名言

◎第八軍憲兵司令官の車は水色のプリモス

『特集文藝春秋 私はそこにいた』(一九五六年一二月)から、木谷忠の「七戦犯の骨を探して」という記事を紹介している。本日は、その二回目。

   司令官邸に張り込む
 当時日本人が占領軍に対してもつていた畏敬の念と恐怖感は今日では想像もつかないほどだつた。私の第八軍からの追放のウワサは新聞記者仲間で次第に尾ヒレをつけて拡がりついには「彼は拳銃を突きつけられ、危うく射殺されるところだつた」というまでになつた。一寸した英雄扱いに気を好くして、私は別にこのウワサを否定はしなかつた。
 しかしとにかく第八軍からは締め出されてしまつた。仕方なしに私は方向を変えた。処刑の立役者(?)は実は第八軍憲兵司令官のはずである。そこまでは追放までに至る報い少い取材の結果わかつていた。そしてまた憲兵司令官に正面から会見を申入れても、立ち所に断られることも経験で知つていた。私は正面からではなく、後ろから常に彼の行動を監視することに決めた。事実処刑の日は的確にはわからぬながらも、極めて切迫していたのだ。彼、憲兵司令官が京浜国道を東京に向うときには、十中八九処刑が行われる日と見なければならない。私たちの任務の大きい一つは、「これから処刑」という第一報を入れることだつたのである。
 憲兵司令官はフェルプス大佐といつた。私はいつもクルマを持つて、彼の動きをひたすら物理的に追い駈けた。私は時々東京の本社に出かけて、社会部とも取材上の連絡を取つたが、その連絡も他愛のないものだつた。「憲兵司令官のクルマは水色のプリモス〔Plymouth〕、横からみるとこういう形、後からみるとこういう形、ナンバープレートは右半分が白、左半分が赤に塗り分けられてあり、MP何番と書いてある」といつたたぐいの、単純極まるデータの交換に過ぎない。事実それ以上の高度の情報は占領下の日本人記者には入手しようもなかつたのである。
 十二月に入つて、寒さがいよいよ厳しくなるにつれ、処刑の時期はいよいよ近づいてきた。マ元帥の再審査も終り、最後のひつかかりになつていた米国大審院への訴願も却下になる見通しがはつきりしてきた。私たちはいよいよ非常態勢に入り、昼間憲兵司令官を追いかけるばかりでなく、夜間も「深夜の処刑」を警戒して、憲兵司令官の家を張り込むことになつた。フェルプス大佐の家は、「Xエリア」と呼ばれる高台一帯の米軍用往宅地域の中にあつたが、夜の守衛が全部日本人なのをいいことに、話をつけて私は毎夜フェルブス邸の真下に張り込んだ。退屈さの余りいつか気を許しているうちに、家の前から水色のプリモスが消えているのを知つて、必死に守衛に頼み込み、とくにフェルプス邸を〝巡視〟してもらう。その後ろに足音を忍ばせてついてゆき、窓から覗き込むと彼の軍服がテーブルの上に投げ出してあるのでいくらかでも安心する、といつたような、労多くして、益少い、この張り込みは、十二月の凍るような寒空の下で、ついに二週間ばかりも続いたろうか。毎夜一応は午前一時になると、「もうこれから処刑ということはあるまい」というので、冷え切つた手足をちぢめながら、引揚げたのだつた。【以下、次回】

 文中、「プリモス」は、アメリカの自動車会社クライスラー社が製造していた乗用車の名前のひとつ。今日では、「プリムス」と呼ばれることが多い。また、「Xエリア」は、横浜市根岸にあった米軍住宅地区の通称。これは、「根岸エリアX」、「根岸台エリアX住宅地区」などとも呼ばれたという。

*このブログの人気記事 2021・12・27

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