礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

満井佐吉の血をはかんばかりの絶叫

2021-03-31 03:37:36 | コラムと名言

◎満井佐吉の血をはかんばかりの絶叫

 石橋恒喜著『昭和の反乱』(高木書房、一九七九年二月)の上巻から、同書上巻の「十八 陸軍空前の永田事件軍法会議」の章を紹介している。本日は、その六回目(最後)。

 真崎大将の登場
 前陸相・林〔銑十郎〕の喚問が終われば、次はそのライバル、前教育総監・真崎〔甚三郎〕の登場である。二月二十五日の第一師団司令部は、爆発せんばかりの緊迫した空気に包まれた。われわれ記者団もこの日の真崎の陳述に注目した。それは彼が総監を罷免された当時の真相を明らかにするとともに、反皇道派(宇垣〔一成〕、小磯〔国昭〕、二宮〔治重〕、建川〔美次〕)の企図した「三月クーデター」、省部の統制派系幕僚による錦旗革命事件を暴露するものと期待したからだ。ところが、どうだ。彼は非公開裁判が開かれたと思う間もなく、憤然色をなして退廷してしまったのだ。記者団はあっけにとられた。私もとまどいながら夕刊用のため鉛筆をとった。
「……満天下の視線を一点に集めつつ公判の開かれることすでに九回。きょうこそは被告の最も尊敬する前教育総監、現軍事参議官真崎甚三郎大将喚問の日である。さすがに熱心な一般傍聴人も劈頭〈ヘキトウ〉からの公開禁止を予想してかわずかに七名。見渡す限り廷内は私服憲兵の物々しい顔に占められている。問題の人、真崎大将は勲二等旭日章副章を佩用〈ハイヨウ〉。陣太刀型軍刀を帯びて午前九時半第一師団に到着した。同十時五分相沢〔三郎〕被告が出廷すると裁判長は被告の氏名点呼後、息もつかせず『これからの弁論は軍事上の利益を害する恐れありと認め公開を禁止する』と宣告、開廷一分で休憩。かくて同十五分、堀〔丈夫〕第一師団長に伴われながら、童顔に微笑を浮かべた真崎大将が、公判廷の奥深く吸い込まれ、非公開のまま再開されたが、午前十一時七分、突如、大将は興奮の色をたたえて退廷してきた。そして同二十分藤原〔元明〕副官を従えてサッサと帰ってしまった。これは裁判長がまだ休憩を宣しないうちなので、外部の人々は異様な感にうたれた。仄聞〈ソクブン〉するところによれば真崎大将は今度の喚問にあたり、公判廷の陳述が当然教育総監時代に知得した軍の秘密にわたるところから、これを陳述するのには『軍法会議法第二百三十五条』に則り、勅許を経べき〈フベキ〉性質のものと主張していた関係上、この日の軍法会議当局の処置について何らか不満を抱き、重要事項の訊問を忌避して退廷したものらしい(以下略)」。
 もちろん、このニュースは社会面のトップ記事。「永田事件公判に突如大波瀾」といったトッパン横見出しをあしらって、「真崎大将が退廷、手続上に不満か、緊張の法廷に衝撃」と見出しに打ち出した。
 軍法会議法第二百三十五条には「……国務大臣、元帥、参謀総長、海軍軍令部総長、教育総監、もしくは軍事参議官又はこれらの職にありしもの前項の申し立てをする時は勅許を得るにあらざれば証人としてこれを訊問することを得ず」との規定がある。そのため真崎は裁判長から召喚状を受けとると、勅許を得るよう強く軍法会議当局へ要請していた。ところが軍当局は、その措置をとらなかった。真崎はこれが不満だった。そして、勅許を得てから再喚問すべきである、との態度に出たわけだ。

 満井弁護人の獅子吼〈シシク〉
 かくて公判は午後一時七分再開、直ちに弁護人から「勅許奏請の手続きをとったうえで、真崎大将を再喚問してほしい」との申請があったが、裁判長はこれに留保を宣し、同十二分またも休憩。やがて定刻より遅れること三十五分、午後二時開廷。再び公開となった。
劈頭、まず弁護人・鵜沢〔聡明〕が発言を求めた。
「本件に関し被告の申し立てる重要な箇所をあげれば、真崎総監の更迭に関速して統帥権干犯の事実があったと強調している点である。弁護人としてはこの問題に関して、斎藤〔実〕内大臣の喚問を申請する。すなわち予審で示されたごとく、総監更迭の裏面に何らか内大臣の策動があったとのうわさがある。この事実を明らかにすることは、軍の明朗化のため、また斎藤内大臣のためにも必要である。なお大岸頼好〈オオギシ・ヨリヨシ〉大尉、菅波三郎大尉、赤塚理中佐、仙台の福定無外〈フクテイ・ムガイ〉師をも証人として申請する」
 白髪をふるわせながら斎藤内大臣の喚問を訴える老博士の姿は悲壮そのものであった。
 次に特別弁護人・満井〔佐吉〕が立ち上がった。彼はまず、「池田成彬〈シゲアキ〉、太田亥十二〈イソジ〉、木戸幸一、井上三郎、下園佐吉、唐沢俊樹ら六名を証人として申請したい」と、その理由を陳述した。そして、さらに「永田事件の根本原因は、社会機構の矛盾の持ち来たらせたものだ。昭和維新は歴史的必然である」と断じて、農山漁村の窮乏と国防の第一線をになう貧しい兵士との関係を痛憤、
「今や隊付青年将校は、無気力な軍上層部を信頼していない。この結果、昭和維新の叫びが起こったのであって、両者の確執は当然である。永田閣下は頭脳明晳、陸軍の偉材だったことは疑う余地はない。が、その企図したところは、政財界、官僚と握手妥協しつつ、修正的に統制経済を実現しようとしたものである。かかることは、すべて財閥団の支配力の作用するところにほかならない。重臣層もまた、統帥権干犯の常習者である。かのロンドン会詖においても、満州事変の朝鮮軍越境に関しても、時の一木〔喜徳郎〕宮内大臣は金谷〔範三〕参謀総長の上奏を阻止した。そのとき部内の局課長以上のものは総辞職しようとしたが、某将軍(筆者注、武藤信義教育総監をさす)の慰撫によりわずかに事なきを得た。最近、山本英輔海軍大将が国事を憂えるの余り、斎藤内府に対して善処の忠告を発したという事実さえあるではないか」
 と前後三時間にわたって熱弁をふるった。法廷内の時計の針は、すでに午後五時を指していた。この間、裁判長は弁護人の激越な大演説にたまりかねたか、
「弁護人の論述は長くなるようだから、あとは書面で提出して欲しい」
 と制したが、満井は色をなして一歩もあとへ引かない。
「裁判長閣下! 国家危急存亡のときであります。一時間や二時間時間をさくことが出来ませんか」
と食い下がる場面もみられた。
 この日、皇道派の御大将真崎の出廷に加えて、満井の血をはかんばかりの絶叫は、何か無気味な影が忍び寄りつつあることを暗示していた。
 一夜明ければ二月二十六日である。「満井弁護人起ち痛憤の長広舌」といった大見出しで飾られた新聞が各戸に投げ込まれるころ、一千四百名にのぼる軍隊が決起した。そして、帝都の空に〝昭和維新革命〟ののろしを打ち上げたのである

*このブログの人気記事 2021・3・31(9・10位に珍しいものが入っています)

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相沢の殺人は、「巷説を盲信」した結果か

2021-03-30 19:43:29 | コラムと名言

◎相沢の殺人は、「巷説を盲信」した結果か

 石橋恒喜著『昭和の反乱』(高木書房、一九七九年二月)の上巻から、同書上巻の「十八 陸軍空前の永田事件軍法会議」の章を紹介している。本日は、その五回目。

 林前陸軍大臣の出廷
 二月十七日、第八回目の軍法会議が開かれた。法廷の内外は殺気に満ちて、いたるところ銃剣の林である。この日、法廷には永田事件当時の林銑十郎陸相が、証人として喚問されたからである。私は同日づけの東日朝刊に、左のような予報記事を書いた。
「永田事件軍法会議公判は天下の耳目をあつめて去る十二日ついに軍法会議法による裁判長独自の職権で前陸軍次官、現近衛師団長橋本虎之助中将の証人喚問を見たが、さらに公判第八日目の今十七日は午前十時、事件当時の陸軍大臣であった現軍事参議官林銑十郎大将が証人として喚問をうけ、法廷に立つこととなった。同事件の公判は、回を重ねるとともに漸次その内容が複雑多岐にわたることが明かとなり、殊に相沢三郎中佐が決行の意志を固めるに至った原因動機の糾明〈キュウメイ〉は、全く難事中の難事とされているのであるが、その重大性にかんがみ、あくまで公判の至公至正を期する佐藤〔正三郎〕裁判長のかたき決意に基づいて、この証人喚問となったものである。なお同日は橋本近衛師団長証人喚問の日と同様、開廷とともに公開停止の宣告が下されるものとみられるが、公判廷における佐藤裁判長の訊問と、これに対する林大将の証言の如何は、今後における公判の推移に最も深い関連をもつものとして注目される」
 林は教育総監・渡辺錠太郎と同期の陸士第八期生。第六期の関東軍司令官・南次郎を除いては、陸軍の最長老である。その大長老がところもあろうに軍事法廷に喚問されるというのだ。国民は新聞報道以外には問題の本質がつかめないままに、ただただ驚きの目をみはるばかりであった。
この朝、軍法会議は午前十時五分開廷。さすがに熱心な傍聴人も、公開禁止を予想してか六分の入り。被告の同志の青年将校数名が、はじめて傍聴席に姿を見せたのが人目をひいた。相沢〔三郎〕も前日散髮したとかで、青いひげのそりあとが、くっきりと浮んでいた。裁判長は被告の氏名点呼を終わるや否や、公開禁止を宣言した。開廷わずか一分である。
 林大将に対する尋問は二時間にわたった。私は夕刊用として次のような記事を送った。
「(略)勲二等旭日章を胸間に輝かした林大将が静かに法廷に吸いこまれる。陸軍を代表した古荘〔幹郎〕次官がただ一人特別傍聴席に入った(中略)同十時二十分いよいよ公判は非公開のまま開廷。直ちに相沢中佐に退廷を命じ、証人林前陸相の重大な訊問が開始された。法廷のドアというドアはかたく閉ざされて、会議所の周囲はぐるりと憲兵に取り巻かれた。午後零時十五分公判廷のドアがようやく押し開かれ、林大将が沈痛な顔を現した。次回は来る二十二日。同日は林大符の証人訊問の内容を裁判長が非公開のまま被告に読みきかすこととなったが、林大将の登場により、近く前教育総監真崎〔甚三郎〕軍事参議官の喚問も必至とみられている」。
 非公開の法廷における証人尋問は、裁判長、検察官、弁護人の順序で行われた。
「証人は真崎教育総監が不同意のまま更迭の手続きをとったものなりや」、「被告人は、真崎総監が不同意だったにもかかわらず更迭の手続きをとったのは、省部規定に違反し統帥権を干犯したものであると述べている。果たしてその事実ありや」、「十一月二十日事件〔士官学校事件〕での村中孝次〈タカジ〉、磯部浅一〈アサイチ〉の停職処分は、青年将校に対し永田〔鉄山〕中将が圧迫を加えたもので、重きに失すると被告人は述べている。事実はいかん」、「満州、朝鮮旅行の際、証人および永田中将と南大将、宇垣〔一成〕総督との談合の内容はいかなるものだったか」、「永田中将が元老、重臣、財閥、新官僚から使嗾【しそう】されたような事実ありや。また〝朝飯会〟との関係いかん」。
 これは例の怪文書「軍閥重臣閥の大逆不逞」「教育総監更迭事情要点」「〝粛啓仕候〟と冒頭せるもの」などの真偽について質したものだった。つまり、相沢のとった「上官暴行殺人」行為は、怪文書によって〝巷説を盲信〟した結果のものか、それとも〝事実〟に基づいたものであったかの点を突いたわけだ。
 これに対して林は、かなり率直に答えている。「省部担任規定」の存在の有無は、人事の最高機密にわたる問題であるから答える自由を持たない、と拒否したほかは、スラスラと陳述している。永田と朝飯会の関係についても極力弁護につとめたことはいうまでもない。「朝飯会」とは元老西園寺〔公望〕秘書・原田熊雄、内府秘書官・木戸幸一、陸軍政務次官・岡部長景〈ナガカゲ〉、貴族院議員・黒田長和〈ナガトシ〉、新官僚派の後藤文夫、伊沢多喜男、唐沢俊樹らを中心とするグループのこと。皇道派はこのグループを永田ら統制派と結託した〝非維新勢力〟とみて、敵視していた。
 このように軍法会議は、完全に皇道派のペースで進んだ。このままでいけば相沢の判決は、かなり軽いものになろう、というのが大方の観測であった。
 一方、これを眺めて、憤懣やる方なしといったのは統制派幕僚や陸軍第十六期生会の有志である。十六期生は永田のクラスメートだ。彼らは相沢の陳述や満井の弁論は、故人の人格と名誉を傷つけることはなはだしいものがあるとして激怒した。そして、協議の結果、永田弁護の証人として代表を法廷に喚問するよう上申書を出すことになった。上申書を携えた代表数名が師団司令部に押しかけたのは、確か二月十九日であったように記憶する。「相沢減刑派」対「相沢厳刑派」の抗争は、いよいよ激しさを加えつつあった。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2021・3・30

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どうだ、海軍部内にもえらい提督がいるだろう(亀川哲也)

2021-03-28 02:42:14 | コラムと名言

◎どうだ、海軍部内にもえらい提督がいるだろう(亀川哲也)

 石橋恒喜著『昭和の反乱』(高木書房、一九七九年二月)の上巻から、同書上巻の「十八 陸軍空前の永田事件軍法会議」の章を紹介している。本日は、その四回目。

 二・二六予言の「山本建白書」
 二月十六日の夕刻、私は亀川〔哲也〕を訪問した。シベリア寒波も退散して、初めて春らしい行楽の日曜であった。ひととおり軍法会詖についての話を終わると、「これを読んでみたまえ」といって部厚い封筒を差し出した。封筒の表には「斎藤実〈マコト〉内府に送るの書」としたためてあって、裏面には「山本英輔」と差し出し人の名が書いてあった。山本英輔〈エイスケ〉といえば海軍航空本部長、横鎮〔横須賀鎮守府〕長官、連合艦隊司令長官、軍事参議官などを歴任した海軍の長老である。しかも現役の大将だ。私は不思議に思って書状を開いてみた。すると長さ七メートル余におよぶ長文の手紙である。その文面は次のような文句で始まっていた。
「拝啓、愈々御勇健にて今回は内侍補弼の重任を拝せられ、謹賀の至不堪候〈イタリニタエズソウロウ〉。よくよく時勢を明察せられ、単に表面にあらはるる現象のみをとらへて皮相の臆断を下さるる事なく、禍根の奈辺に伏在するやを突き止められ、果断以て之を処置せられんことを切望に堪へず候。小生最近に至り始めて突き止め得たるところに依れば、時局不安の禍根の存在するところは帰するところ一点にあり。この点を押へて善処すれば万事直に〈タダチニ〉解決すべく、今日世間が見て非常に憂慮して不安に駆られ、国家の将来はどうなるだらうと戦々兢々〈センセンキョウキョウ〉としてゐるところは、この一点より出発したるに、二、三の枝先きの繁茂せる枝葉の姿を見てをるに外ならず(中略)その根源を押へてしかと握り、統制を図れば自然に消滅すべきものと存候。数年来激化し来れる陸軍部内二大対立、その他 一、二の小派の抗争は一種の勢力争ひ感情の衝突の如く思はれ候故、ある手段を講じて之を握手融和せしむるか、然らざればいづれか方を倒せば之を安定せしめ得べしと考へをりしも、最近小生が熱心に調査研究し得たるところによれば、その根源に対し適切なる方策を講ぜざる間は不可能にして今後も何回となく相沢事件や五・一五事件の如きを発生し、遂には軍隊の手を以て国家改造を断行するといふファッショ革命まで導くものと断定仕候〈ツカマツリソウロウ〉」
 これに続いてさらに陸軍部内の統制、皇道両派の動きについて言及、こうも述べていた。
「万一、現〔岡田啓介〕内閣が四月まで続けば、四月ごろ打つ手を参謀本部にて計画中に御座候。これは地方も呼応して声援すと申しをり候。(中略)これは好んで為〈タメ〉にすに非ず。血気少壮の将校を勃発せしめずして、何とか打開策を講ぜんとして板挟みになりをる中堅将校等の窮余の策ならんかとも、小生は憶測し、同情に堪へず候。要は速に新人を引出し、陸軍の希望を容るる策を樹て、その根本問題を解決し、かつ上中下層各派を融和せしめ得る胆力と機略とを有するものに処置せしめざれば、遂には大事件を惹起すべしと存じ候。始めは将官級の力を藉りてその目的を達せんと試みしも容易に解決されず、つひに最後の手段に訴へてまでもと考へる方の系統、ファッショ気分となり、之に民間右翼、左翼の諸団体、政治家、露国の魔の手、赤化運動が之に乗じて利用せんとする策動なり。之が所謂統制派となりしものにて、表面は大変美化されをるも、その終局の目的は社会主義にして、昨年陸軍の『パンフレット』はその真意を露すものなり。林〔銑十郎〕前陸相、永田〔鉄山〕軍務局長等は、之を知りて為せしか、知らずして乗ぜられてをりしか知らざれども、その最終の目的点に達すれば資本家を討伐し、総てを国家的に統制せんとするものにして、ソ連邦の如き結果となるものなり。然れども宣伝がうまいのか、世にはこれが穏健なる如く見誤られ、重臣や政府はこの方を援助されたる如く覚ゆ。将官級の他の一方は、わが国体に鑑み皇軍の本質と名誉とを傷けることなきを建前とし、大元帥陛下の御命令に非ざれば動かないといふ主張で、これが荒木〔貞夫〕、真崎〔甚三郎〕の皇道派なり。非常に正当なる次第なるも、為政者が一向に陸軍の要望を満たしてくれざるため、この一派の為すところは意気地がなく思はれ、もはや頼むに足らず、むしろ統制派の方が増しだとてその下〈モト〉を去るものが続出せるは、荒木・真崎派が凋落したるやうに見えたるがその時機なり。これに色々の怪文書が飛び真崎大将等は兇悪の本尊の如く思はれ、民間は皆これを信じて恐怖を感じ嫌悪し、その排斥せらるるを快しとせり(中略)真崎大将は中佐時代ハノーバーにて一年も一緒に交際しをり、親しき間がらなるを以て小生は世問の評判はあたらずと信じをり候。重臣や政府もこれを誤解しあるものと、小生は察しをり候(中略)陸軍の不統制は血を見ざるうち早く治めざるべからず。相沢中佐はこの現状を見てこのまま放任せば将来有望なる多数の青年将校の直接行動となる故上級者として見るにしのびず、佐官級のものが誰か一人犠牲になって、これを救はざるべからずと決心、決行したるが永田事件なり……」(以下略)
 私がけげんな顔をしているのを愉快そうに眺めながら、亀川はいった。
「どうだ、海軍部内にもえらい提督がいるだろう。これは山本海軍大将が陸軍部内の対立抗争の激化を憂えて、先輩の海軍大将斎藤実内大臣へ提出した建白書の写しだ。いまこそ補弼【ほひつ】の大任にある内大臣は、活眼を開いて山本大将の忠言に耳を傾けるべきときだと思う。さもないと日本はたいへんな騒ぎになるぞ……」
 これがのちに有名な「山本建白書」だ。山本の皇道・統制両派に対する評価の当否については、その後の歴史の示すところだから、あえて触れる必要はあるまい。ただ、山本が二・二六事件の突発を的確に予言して、天皇側近の反省を求めていた点は注目に値いする。
 ちなみに山本は、この真崎擁護の建白書が宮中方面の怒りに触れて、事件鎮圧直後の三月、現役から追放されてしまった。【以下、次回】

※都合により、明日は、ブログをお休みします。

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近衛師団長の橋本虎之助が喚問された(1936・2・12)

2021-03-27 00:42:26 | コラムと名言

◎近衛師団長の橋本虎之助が喚問された(1936・2・12)

 石橋恒喜著『昭和の反乱』(高木書房、一九七九年二月)の上巻から、「十八 陸軍空前の永田事件軍法会議」の章を紹介している。本日は、その三回目。

 橋本近衛師団長の喚問
 永田事件軍法会議第六回目は、裁判長が開廷を宣すると同時に非公開となった。現職の近衛師団長・橋本虎之助が、証人として喚問されたからである。橋本は真崎〔甚三郎〕教育総監罷免事件、永田軍務局長斬殺事件、十一月二十日事件〔士官学校事件〕当時の陸軍次官で、事件解明のカギを握る重要人物だ。
 この日〔一九三六年二月一二日〕、残雪におおわれた東京も、久しぶりの暖かさ。師団司令部構内の老梅も、ようやくほころびそめていた。
 非公開となると、記者団も退廷しなければならない。テントへ引き上げた私は、すぐ原稿用紙に向かって鉛筆を走らせた。
「永田屯件軍法会議第六日目は十二日午前十時から青山の第一師団軍法会議所法廷で開かれた。この朝、公判廷には前陸軍次官、現近衛師団長橋本虎之助中将出頭の報に、公判廷の内外は色めきわたって、特別傍聴席も一般傍聰席も超満員。古荘〔幹郎〕陸軍次官がはじめて傍聴席に姿を現わしたほか、心労の余り病に倒れた特別弁護人満井〔佐吉〕中佐も病躯〔ビョウク〕を押して出廷。爆発せんばかりの緊張裡に同十時八分裁判長開廷を宣し、型の如く被告氏名の点呼を終る。この時、突如、裁判長は昂奮に顔面を蒼白にしながら正面判士席に起立。『これよりの公判は軍事上の利益を害するおそれあるにつき、弁論の公開を停止し、公判廷整理のため暫時休憩いたします』と厳かに公開の停止を宣告、同十時十分休憩となる。 次いで約五分ののち佐藤裁判長以下各判士、島田検察官、鵜沢、満井両弁護人が着席するや、同十時半、ついに証人として喚問された橋本前陸軍次官が憂愁の色濃く眉をくもらせながら出廷。古荘次官、堀軍法会議長官列席のうえ、いよいよ非公開のまま永田事件の状況に関し、橋本中将への重大なる尋問が行われた。親補職たる近衛師団長の喚問という、陸軍空前の大事件に立ちいたったので佐藤裁判長や杉原法務官、島田検察官らのほおも、ここわずか数日のうちにゲッソリと削りとられて軍法会議が刻一刻、重大性を増していることを物語っていた。残雪に閉ざされた公判廷の外部はピストルを腰にいかめしい憲兵や歩兵連隊から派遣された巡察兵が十重二十重に取り巻いて、法廷の付近には司令部員も近寄れぬ厳戒ぶり。かくて橋本中将の証人尋問を終わってのち、鵜沢弁護人から相沢中佐に寄せられた激励の手紙を裁判長に提出(中略)同十一時五十分閉廷となる。次回は十四日午前十時から開廷のはず」
 もちろん、このニュースは夕刊のトップ記事。「永田事件の軍法会議、遂に公開を停止、『軍事上の利益を害する惧れ』、橋本前次官が出廷」というのがその大見出しだ。永田事件公判は、いよいよやま場にさしかかったのである。
 ところで、橋本の法廷への出頭は、スラスラと実現したものではない。最初、彼は裁判長からの出頭要請に対して、頑強にこれを拒んだ。近衛師団の幕僚たちも、出頭に応じるべきでないとして師団長のしりをたたいた。その理由は「現在、橋本は近衛師団長として宮城守衛という特殊の責務と栄誉を有する将軍である。にもかかわらず、他師団の、しかも階級の低い将校によって構成される法廷へ出頭するのは、累を将来におよぼすおそれがある。もしも裁判長が橋本にたずねたいことがあるとすれば、法務官を差し向ければいいじゃないか」というにあった。反皇道派の杉山元参謀次長も、これと同じ意見であったようだ。
 しかし中立派の川島〔義之〕陸相や古荘幹郎〈フルショウ・モトオ〉次官は、裁判長の強硬方計を支持した。すなわち、「橋本が前陸軍次官として法廷に立つものなら、何ら差しつかえがないではないか。むしろ出廷して事件の真相を明らかにし、永田のために弁護してこそ、粛軍の実をあげ得ることになりはしないか」と主張した。そこで橋本も陸相の勧告に従った。そして、親補職に対する証人喚問という、陸軍空前の事態に立ちいたったわけである。このように橋本の出頭が実現すれば、さらに大物への証人喚問は必至である。次に予想されるのは、前陸軍大臣・林銑十郎と前教育総監・真崎甚三郎の両巨頭だ。われわれ記者団は、かたずをのんでその成り行きを注視した。
 そのころ私は取材のため,時の人へ林と真崎を訪れた。林は風邪をこじらせたとかで、千駄ヶ谷の私邸に引きこもっていた。それでも長時間にわたり、心境をもらしてくれた。その時のくわしい対話の内容は忘れたが、
 ①軍法会議から呼び出しがあれば、進んで出頭するつもりだ。それが世間の疑惑を晴らす道である。
 ②過日、亀川哲也なる人物がやって来て、相沢中佐の公訴を取り下げることは出来ないか、との話があった。そのさい彼が言うにはこのまま公判を続行すると、重臣や大官まで喚問しなければならないことになろう。すると、勢いの赴くところ、いかなる不祥事態が突発するか、はかり知れないものがある。それを防ぐためには、相沢に特赦とか大赦とかの方法をとって、軍法会議を打ち切る以外には策がない、とのことだった。それに対してわが輩はこう答えた。相沢の公訴取り下げといったような問題は、わが輩の干与できることではない。現在の自分は単なる軍事参議官の身分であって、中央の政治に口を出すわけにはいかないのだ。しかし、君の要望については、一応、川島陸相に伝えようといっておいた。
 などであったように記憶する。
〝相沢の公訴取り下げ〟――いかにもブランメーカー、亀川らしい発想だ。林を訪問してから数日後のこと、亀川に相沢の特赦問題について聞いてみた。彼は答えた。
「実は村中君(孝次)ら若い諸君にはかってみたら、〝不同意〟といわれたので中止した。若い将校たちの意見では、公訴取り下げなどということは相沢精神を生かす道ではない、あくまで公判を続行して、中佐の信念を天下に明らかにするのが本当である、というにあった。鵜沢博士も満井中佐も自分の案に賛成してくれたのだが……」
 と残念がっていた。
 真崎の世田谷の私邸には、二、三度出かけたように思う。まだ新築したばかりの家だったが、時めく陸軍大将の住まいとしては質素きわまるものだった。第一回の訪問の日、名刺を出すと副官の藤原元明少佐が出てきた。
「閣下は健康を害しているし、総監を辞められてからは、部外の人には会わんことになっている。とくに君のところの新聞は、総監罷免事件のとき一方的に閣下を悪者扱いにしたではないか。けしからん。また悪口を書きに来たのか。帰ってくれ」
 と名刺を突き返された。そこで私は言った。
「自分は社会部記者で、軍の人事の報道には関係がない。きょうは永田事件の軍法会謓について、大将の意見を聞きに来たのだ。取りついでもらいたい」
 藤原はシブシブ私を応接間に通した。その日、真崎は下痢で苦しんでいるとかで、顔色もさえなかった。そして、小さな火鉢を囲みながら、ボソボソと質問に答えてくれた。
「軍法会議にはお許しがあれば出廷して、何でも話すつもりだ。が、その前には、わしの意見は言いたくない。何かいうと真崎は派閥をつくり、若い将校を扇動すると中傷する向きがあるのでねえ……」
 などと語っていた。私はそれまで彼を傲岸【ごうがん】な〝佐賀っぽ〟であるとみて、敬遠していた。しかし、二時間余り話し合ってみたところでは、〝天下をねらう大伴黒主〈オオトモノクロヌシ〉〟どころか、ぐちっぽい弱々しい人物と感じた。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2021・3・27

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いま牧野伸顕はどこにいるのでしょうね(渋川善助)

2021-03-26 01:07:38 | コラムと名言

◎いま牧野伸顕はどこにいるのでしょうね(渋川善助)

 石橋恒喜著『昭和の反乱』(高木書房、一九七九年二月)の上巻から、「十八 陸軍空前の永田事件軍法会議」の章を紹介している。本日は、その二回目。

 相沢被告の独演会
 このようにして、相沢〔三郎〕の陳述は第二回公判(一月三十日)、第三回(二月一日)、第四回(二月四日)、 第五回(二月六日)と続いたが、公判の流れは全くの皇道派ベース。自由に発言を許された形の相沢の陳述は、まるで独演会の観があった。彼は尊皇絶対を叫びあるいは昭和維新を絶叫し、時にはゼスチュアをまじえながら、永田斬殺の場面を語った。果ては、長々と武道論をぶち上げることもあった。
 満井〔佐吉〕中佐の援護射撃も強烈であった。公判第二回目の法廷でも新式の陣太刀式軍刀を腰にして立ち上がった。そして、「法務官に敬告する」と前置きして、またまた次のような重大提言を行った。
「裁判長閣下! 法務官による公判誘導は、皇軍精神に反するものである。軍法会議の精神は建軍の精神擁護である。これにのぞむものは、皇軍の本質を体得しているものでなければならぬ。本科将校たらぬ法務官も、この精神を理解しているものとは思うが、かかる重大事件においては、法務官たるものは単に専門的な参考意見を出すだけでよいと思う。いわんや事件の本質は皇軍統御の根本問題であって、一歩誤れば全軍騒然たらんとする危機にある。しかるに法務官が本公判の誘導者たる観あるは、はなはだ遺憾である。ゆえに裁判長閣下には、法理と末節に拘泥する法務官に左右されず、全責任をもって本科将校たる閣下自ら裁きに当たられんことを希望する」
 事実上の法務官忌避だ。主理法務官の杉原〔瑝太郎〕や検察官の島田〔朋三郎〕は困惑した表情で、どちらが裁く側か、どちらが裁かれる側か、とまどいを感じる場面さえ続いた。
 相沢支援団体の宣伝工作もすさまじかった。彼らはこの公判廷を「維新か」、「非維新か」の決戦の場であるとした。すなわち、この法廷闘争を通じて、宇垣〔一成〕、南〔次郎〕、渡辺〔錠太郎〕、小磯〔国昭〕、建川〔美次〕ら反皇道派系首脳の実態を暴露するとともに、彼らのいう元老、重臣、財閥、新官僚につながる、永田〔鉄山〕、東条ら統制派(清軍派)幕僚の醜状を天下に訴えようとするにあったのだ。直心道場の元士官候補生・渋川善助や村 中孝次は、機関紙「大眼目」を発行して全軍の同志の奮起をうながした。中村義明は雑誌「皇魂」を、大森一声〔曹玄〕も雑誌「核心」を印刷して、〝相沢に続け〟と呼びかけていた。
 確か公判第三回目(二月四日)の休憩時間であったと記憶する。私がテントの中で社の同僚たちと雑談していると、「東日の石橋記者殿はいらっしゃいませんか」という大声がした。見ると、第一回以来、被告家族席でメモをとっている和服姿の青年である。各新聞社のテント村はざわめいた。「石橋はボクです。何かご用ですか」と聞きただすと、「ちょっとお話ししたいことがある。失礼だが弁護人控え室までお出でくださらないか」とのことだった。
 私は考えた。何か記事の上で彼らの気にさわったことでもあって抗議されるのだろう、と。私は恐る恐る、この精悍なつら魂の青年のあとについて行った。通されたところは弁護人控え室であった。弁護人の鵜沢〔聡明〕と特別弁護人の満井を囲んで、亀川哲也と背広服の青年が話し込んでいた。
 和服の青年はすぐ口を開いた。「私は渋川善助です」と自己紹介をした。それから振り返って「彼は村中孝次君です」と背広服の男に引き合わせた。これは意外だ。「十一月二十日事件」の首謀者・村中というと、剣道の猛者という評判が高い。だというのに、見たところ小柄なやさ男ではないか。私はあっけにとられた。
 そこで二人は丁重に私にイスをすすめながら、「これは私たちの発行している『大眼目』新聞です。ご一読ください」と新聞を差し出した。そして、渋川が、第一面にのっていた渡辺錠太郎教育総監の顔写真を指差して言った。
「こやつは皇軍の奸賊です。いつかわれわれは、こやつに鉄槌を下さないではおきません」
 私は渋川の見幕のすさまじさにびっくりして腰を上げた。すると渋川が私へ声をかけた。
「いま牧野伸顕はどこにいるのでしょうね」
 私は答えた。
「さあ、関係がないから知りませんなあ。しかし、牧野伯の所在を知りたいなら、新聞の『人事往来』櫊を調べたら分かるじゃないですか」
「なるほどねえ…」――渋川はニッコリ笑ってうなずいた。
 これはあとで分かったことだが、そのころ渋川は、前内大臣・牧野の所在探索役を引き受けて、懸命にそのありかをさぐっていたのである。牧野が湯ケ原温泉に滞在中であることを知ったのは、やはり「人事往来」欄の報道であったという。
 ところで公判は、回を追うにしたがって、いよいよ緊迫した空気に包まれた。満井は「相沢中佐は〝個人〟として永田中将を刺したのではなく、陸軍歩兵中佐・相沢三郎としての〝公人〟たるの資格において決行したのである。国家危急の際は、国憲のために国法を破るも差しつかえない、と思って 行動したと解すべきである」と主張し続けた。
 第五回目の事実審理に入ると、問題は事件の核心たる「真崎教育総監更迭問題」および「十一月二十日事件〔士官学校事件〕」に触れてきた。弁護人は事件の真相を究明するため、「いかなる重臣、顕官といえども法廷に喚問すべきである」と要求した。第一師団当局は裁判を公開すべきか否かについて、回答を迫られるにいたったのである。そのため、六日閉廷とともに、裁判長以下各判士、弁護人とが参集、協議の結果、突如、次回八日、開廷の予定を変更して、十二日に延期することを決めた。その翌日、弁護人・鵜沢は、政友会から離党した。その理由は、
「本事件を単なる殺人事件という角度から見るのは、皮相のそしりを免れません。遠く建国以来の歴史に関連を有する問題といわねばなりません。従って統帥権の本義をはじめとして、政治、経済、民族の発展に関する根本問題にも触れるものがありまして、実にその深刻にして真摯なること裁判史上、空前の重大事件と申すべきであります(中略)裁判の進行とともに各方面の関係を明確にするためには、公明正大なるを要し、いかなる顕官・重臣といえども証人たらざるを得ない場合もあるかと思われます。私としては、かかる場合に一党一派に籍をおき、多少なりとも党派的好尚に影響されてはならぬと痛感し、政友会入党三十年の微力をいたした過去を一擲〈イッテキ〉し、ここに政友会を離脱することにあいなった次第であります」
 というにあった。全国民はこの鵜沢声明によって、いまさらながら事件の深刻さに驚きの目を見はった。そして、今後、大官たちが続々と法廷へ喚問されるであろうことを予想して、その成り行きに注目した。あらしは刻々と近づきつつあったのである。【以下、次回】

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