礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

西洋文明と東洋文明の分水嶺は1769年(佐伯好郎)

2024-10-02 00:25:23 | コラムと名言
◎西洋文明と東洋文明の分水嶺は1769年(佐伯好郎)

 佐伯好郎の『支那の景教に就いて』(初出、1931)を紹介している。本日は、その二回目。

 又、本論に入るその前に一寸卑見を略述致したいと思ふことがあります。或は私の考〈カンガエ〉が間違つて居るかも知れませぬが世間の所謂西洋文明とか東洋文明とか申すものに関する愚見を申上たいのです。私の考へる侭を申上げて見ますと、大体次の通〈トオリ〉です。即ち西洋文明と申します所謂『ウエスタン・シビリゼーシヨン』なるものは最近百五十年年間のものと私は考へて居ります。世界歴史に於て一番重要な年代は西暦一千七百六十九年であります。何故に一千七百六十九年が世界歴史に於て――少くとも東洋人の立場から見て――一番大切なる年代であつたかと申しますと、此の年にナポレオン帝が生れ、此の年にウエリントン侯が生れ、かの一千八百十五年のウオーターローの大戦が此の年に決定せられてあつたから重要であるといふのではありませぬ。此の一七六九年は彼のゼームズ・ワツド〔James Watt〕が蒸気力を完成した年であるからであります。西洋はこの蒸気力を摑んでからといふものは、所謂西洋文明は幾何的【ジオメトリカル】の進歩を致したのであります。一千七百六十九年までの西洋文明と東洋文明とを較べて見ますと、例へば九段の遊就館に行つて日本のものを見ても、又た倫敦〈ロンドン〉博物館に行つて一千七百六十九年以前のヨーロツパのものを見ても、東洋の方が遥に進んで居るとも決して遅れては居りませんことを発見するのです。現に第十三世紀にイタリーから支那に来ましたマルコ・ボーロの報告文書に拠つても、或は第十六世の初めに当りて日本に来たフランシス・サビエールの日本より本国に送つた書簡集を読んで見ても、第十七世紀の初に日本より英国に送つた三浦安針(ウイリヤム・アダムス)の書簡を見ても悉く日本や支那の文化を見て驚嘆して居るのです。西洋が所謂スチーム・エンヂンのシビリーゼーシヨンを摑まへるまでは西洋人は支那に来ても日本に来ても皆な悉く感服して本国に帰つたのであります。その当時は支那人は漢字を使ひ、又た日本人も相当に難かしい日本文字を使つて居たのであるが故に日本や支那の文化が進歩しないとか。若くは西洋はローマ字を使つて居るから長足の進歩をして居るのだといふやうな勝手の報告は決して致して居りませぬ。少くともマルコ・ポーロの時代、フランシス・サビエールの時代、或はウイリヤム・アダムスの時代や甲比丹〈カピタン〉船長の時代まではそんな勝手な報告を書いて居る者はありませぬ。何故ないかと申しますと当時の支那の文明と謂ひ日本の文明と謂ひ凡て〈すべて〉東洋の文明といふものが西洋の文明よりは進んで起つたからであります。東洋文明は第十八世紀までは物質的にも精神的にも西洋諸国より進んで居つたのであります。所が西洋文明諸国が一千七百六十九年に蒸気力を完成しました。それから東洋文明諸国が物質的に西洋に押しつけられる様になつたのです、併し欧州諸国は一七六九年に完成した蒸気力を、十分に利用し得ざる中に仏蘭西〈フランス〉革命やナポレオンの騒動が始つて、一千八百十五年までは御承知のやうに西洋はこの蒸気力をどうすることも出来なかつたのです。英国にしても一千八百二十五年から初めて産業に向つたのであります。ですから東洋文明が西洋文明に遅れ出したのは僅かに一千八百二十五年の産業革命の最初からであると私は信じて居ります。この見地から致しまして私は西洋の文明と東洋の文明を比較研究いたしますに当りてはこの蒸気力の応用完成を以て一大時期としたいのです。そうしてその以前の東西両文明の進歩の状態は一から二、二から三といふ算術的の進歩の仕方でありましたことを発見します。併し西洋が一度び蒸気力を摑んでからといふものは、西洋の進歩の状態は幾何的であつたのです。即ち一から二、二から四、四から八、八から十六といふやうな進み方をしたのであります。勿論一千七百六十九年からナポレオン騒動時代の間にアダム・スミスの経済学の著書もあります。而して色〻と西洋文明の原動力となるものゝ変化はありました。併し兎に角〈トニカク〉一千七百六十九年が西洋文明と東洋文明の分水嶺になつて居ると思つて居ります。それ故に私は今日の西洋の文明と今日の東洋文明とをそのまゝ比較することは公平なる方法でないと考へるのです。例へばキリスト教は疑〈ウタガイ〉もなく西洋文明の根柢であります。併し今日のキリスト教と今日の支那若くは其他の東洋の思想とをそのまゝ今日の状態に於て比較対照するといふことは、公平でないと思ふのです。否非常に無理があると考へるのであります。それで本当に東洋文明と東洋文明とを比較対照しやうと思へば、先づ第一に蒸気力のない時代に溯つて両者を比較しなければ決して本当のことは分らぬ。と私は思つたのであります。偶〻〈タマタマ〉この支那に伝来したキリスト教である景教の問題があるのです。そこでこの景教を中心として、之を研究して、之に依つて西洋の精神文明の土台になつて居るキリスト教対東洋思想の問題を此の見地から研究することが比較的公平なる研究の方法であらうと思ふて居るのです、換言しますれば景教を研究することに依つて一方に於ては西洋のキリスト教そのものが一層よく判明になります。又たそれと同時に他方に於ては景教が何が故に支那に於てあゝいふ風な状態になつたかといふやうなことを研究することに依つて、(第一)支那の思想と西洋の思想とは果して調和するものか、調和しないものか(第二)、又た若し調和するとせばどういふ風になるかといふやうな問題も自然明瞭になつて来ると思ふのであります。そうなれば景教の研究も必らずしも無益ではないと信んじて居ります。〈附録18~20ページ〉【以下、次回】

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佐伯好郎の『支那の景教に就いて』(1931)を読む

2024-10-01 01:18:49 | コラムと名言
◎佐伯好郎の『支那の景教に就いて』(1931)を読む

 最近、オリオン・クラウタウ著『隠された聖徳太子』(ちくま新書、2024年5月)を購入し、一読した。実に刺戟的な本で、特に第一章「一神教に染まる聖徳太子」に注目した。そこに、佐伯好郎の名前が出てきたからである。今日、日本の学者・研究者で、佐伯好郎という言語学者・東洋学者に関心を持っておられる方は、皆無に近いのではないだろうか。そうした中で、ブラジル生れの宗教史学者であるオリオン・クラウタウさんが、その著書で、佐伯好郎という学者に言及されているのは興味深いことである。
 その佐伯好郎に、『支那の景教に就いて』(外務省文化事業部、1931)という著書がある。これは、佐伯好郎(当時、明治大学教授)が、1931年(昭和5)11月7日、外務省文化事業部でおこなった講演を記録したものである。その後、この本の内容は、バッヂ博士著・佐伯好郎訳補『元主忽必烈が欧州に派遣したる景教僧の旅行誌』(待漏書院、1937:春秋社松柏館、1943)に、附録として収録された。そのタイトルは、「支那の景教に就て――外務省文化事業部に於ける講演」である。
 本日以降、その佐伯講演の内容を紹介してみたい。なお、便宜上、『元主忽必烈が欧州に派遣したる景教僧の旅行誌』の春秋社松柏館版に載っているものを典拠とした。

     支 那 の 景 教 に 就 て
      ――外務省文化事業部に於ける講演――   佐 伯 好 郎

 私が只今御紹介を戴きました佐伯と申すものであります。茲で愚見を開陳して御清聴を煩はしますことを実に光栄に存じます。併し私の研究もまだ全く纏まつては居りませぬ。がたゞその概略を申上げたいと思ひます。先づ第一に景教とは何かと云ふこと即ち景教全般に付て申上げましよう。而して殊に支那に於ての景教のことをその次に申上げ更に又一体過去に於て景教徒が全世界に於て幾何位あつたか、又現今はどの位居るか、最後にこの景教がどういふ訳で今日は殆んど跡方を留めなくなるまでに亡んでしまつたかと云ふ問題に言及したいと思ひます。而して結局東洋固有の精神文明とかの西洋の精神文明であるところのキリスト教とが過去に於て如何なる関係であつたか、現在に於てはどうなつて居るか又た将来どうなつて行くものであらうかと云ふことまで考へて見たいと思ふて居ります。是には勿論色々の研究方法があることです。併し西洋の精神文明の土台になつて居るところの西洋の基督〈キリスト〉教そのものを支那に伝来した景教の立場から観察するのが最も有益ではないでしようか。言葉を換へて申しますと、御承知の如くキリスト教はローマ領の猶太〈ユダヤ〉に起りローマ帝国内に伝播〈デンパ〉した。そしてギリシヤ文明といふものは最初はキリスト教の強敵であつたのですが、後にはそのギリシヤ文明がキリスト教に入つて今日のキリスト教の教理や神学となつたのです。畢竟ローマ帝国の法律学と希臘〈ギリシャ〉の哲学とがこのキリスト教といふものを非常に強大にしたのであります。是がキリスト教とギリシヤ哲学との関係の一面であります。併し同じキリスト教でありますところの景教が支那に伝来しまして、そして支那の儒教、それから老荘の教〈オシエ〉、又は仏教と対立関係になつて居つたのであるが、その結果は一体どうなつたかと云ふ様な問題は大に研究の価値あるものと存じます。丁度ギリシヤ哲学やローマ法学がキリスト教に入つたやうに、キリスト教である景教の中に支那の思想が入りはしなかつたのか、それともその反対に景教即ちキリスト教が支那の思想の中に吸収されてしまつて丁度西洋に於ける基督教と正反対の結果になつたのではないか、若し果してかくの如き正反対の結果になつたと致しますれば更にどういふ訳でさうなつたかといふやうな六ケ敷〈ムツカシイ〉問題を中心として支那の景教を考へて見たいのであります。〈附録17~18ページ〉【以下、次回】

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