礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

精神的に亡びた国は、その形骸までも失う(内村鑑三)

2023-01-01 02:28:51 | コラムと名言

◎精神的に亡びた国は、その形骸までも失う(内村鑑三)

 年末に部屋の片づけをしていたら、内村鑑三著『失望と希望』(羽田書店、一九四九)という本が出てきた。著者は内村鑑三、編者は内村美代子(内村鑑三の長男・内村祐之の妻)である。
 本扉には、「内村美代子編/内村鑑三思想選書Ⅱ/失望と希望/羽田書店刊行」とある。背表紙には、「内村鑑三思想選書 Ⅱ 時事歴史篇 羽田書店」とある。ちなみに、羽田書店の「羽田」の読みは、「はた」である。
 巻頭近くに、「すでに亡国の民たり」という短い文章がある(一五~一七ページ)。一九〇一年(明治三四)五月に発表されたものだという。編者の内村美代子は、これこそ、敗戦直後、「失望」のどん底にある日本人に薦めたい文章だと考えたのであろう。
 読んでみると、一二〇年前に書かれた文章とは思えない現実味と説得力があった。

    すでに亡国の民たり

 国が亡びるとは、その山が崩れるとかその河が乾上【ひあが】るとかその土地が落ち込むとかいふことではない、たとへ日本国は亡びても、その富士山は今の通りに蒼空にそびえ、その利根川も木曾川も今の通りに流れ、その田畑は今の通りに米麦〈ベイバク〉を産するにきまつて居る。
 また国が亡びるとは、必ずしも外国人がその政治家となるといふことではない、我々の総理大臣が伊藤〔博文〕侯であらうがサリスベリー〔Salisbury〕侯であらうが、そのことはあまり国の興亡に関係することではない、我々は或る場合においては、外国人を雇ひ来て大臣や官房長の賤業を彼等に授ける時があるかもしれない。
 国は土地でもなければまた官職でもない、国はその国民の精神である、この精神さへあれば、その土地は他人の手に落つることがあつてもその国は亡ぴるものではない、あたかも今日のユダヤ人がその本国はトルコ人の手に在るにかかはらず有力なる国民である如く、また米国人がその州長または市長として外来のドイツ人またはアイルランド人をいただくことあるにもかかはらず立派なる独立の民であるが如きものである。
 国民の精神の失せた時にその国はすでに亡びたのである、民に相愛の心なく、人々互に相〈アイ〉猜疑し、同胞の成功を見て怒り、その失敗と堕落とを聞いて喜び、われ一人の幸福をのみおもうて他人の安否をかへりみず、富者は貧者を救はんとせず、官吏と商人とは相結托してつみなき援助【たすけ】なき農夫、職工等の膏【あぶら】をしぼるに至つては、その憲法は如何に立派でも、その軍備は如何に完全して居ても、その大臣は如何に智い〈サトイ〉人達であつても、その教育は如何に高尚でも、かくの如き国民はすでに亡国の民であつて、ただわづかに国家の形骸を存して居るまでである、故にもし国の興亡を見んとおもへば、その陸軍は何十万であるかその海軍は何十万トンであるかを知るの必要はない、その国民は浮薄であつて、その商業の多くは欺偽〈ギギ〉に類するものであつて、その教育は知識の売買であつて、その政治は政権の掠奪であつて、その倫理と称するものは政略より打算したる政令の如きものであつて、その国はすでに精神的に亡びたものである、さうしてすでに精神的に亡びた国がつひにその形骸までも失ふに至るのは当然の勢ひである、実に痛歎〈ツウタン〉の至りではないか。 (『萬朝報』明治三十四年五月)

 年頭にあたり、今年二〇二三年が「希望」の年であることを祈りたい。

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