礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

統帥権をめぐる法解釈を金子に依拠して以来

2023-01-28 19:13:18 | コラムと名言

◎統帥権をめぐる法解釈を金子に依拠して以来

 今月一二日のコラム「金子堅太郎と加藤寛治」で、飯田直輝氏の論文「金子堅太郎と国体明徴問題」(『書陵部紀要』第60号、二〇〇九年三月)の一部を引用した。引用した箇所の最初のセンテンスを、再度、引用してみる。

〔一九三五年〕三月十七日、軍事参議官海軍大将加藤寛治が金子〔堅太郎〕の子息武麿〈タケマロ〉を招き、「江藤源九郎問題」を相談した結果、同日金子は加藤に電話し、「美濃部は大問題、荒木【貞夫】、徳富【蘇峰】より尋ねられしも断れり、加藤君なれば語る」と述べた。

 原文には、このセンテンスの最後に、(19)という註番号があり、論文の末尾には、次のような「註」がある。

(19) 「加藤寛治日記」昭和十年三月十七日条(『続・現代史資料』五・海軍、二九三頁)。金子と加藤は、昭和五年のロンドン海軍軍縮問題で加藤が統帥権をめぐる法解釈を金子に依拠して以来親交があった。

 この間のブログで見たように、金子堅太郎は、一九二九年(昭和四)一二月、加藤寛治を自邸に招いている。このころから、両人の「親交」が始まったという見方は穏当なところだが、「それ以前」から、両人の親交が始まっていた可能性も否定できない。上記の註の、「加藤が統帥権をめぐる法解釈を金子に依拠して以来」の「以来」の二字は、再考の余地があるのではないか。【この話、続く】

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