礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

ききちがえをするのは貴様らがたるんどるからだ(教師)

2024-07-19 04:10:48 | コラムと名言

◎ききちがえをするのは貴様らがたるんどるからだ(教師)

 角川文庫『八月十五日と私』(1995)から、小松左京の「昭和二十年 八月十五日」を紹介している。本日は、その三回目。傍点は、太字で代用した。

 しかし、前のほうにいた私たちの班の中では、論争がまきおこった。――いったい、ポ ツダム宣言を「離脱」したとはどういう事だろう? 「雕脱」するためには、それにはい っていなければならない。しかしポツダム宣言は米英ソ中四国が行った宣言のはずである。そんなものに日本がはいっているはずはない。陛下はポツダム宣首を「受諾」したといわれたのではなかったか? とすると……。
「貴様ら、なにグズグズしとるか!」
 と、しゃべっている私たちを見て、教師が近づきながらどなった。
「陛下の玉音に接しながら、なおだらだらしとるか! ――この不忠モン」
 とたんに総ビンタがきた。――しかし、中で勇敢な一人が、おずおずと、いった。いまラジオをきいていたら、たしか陛下は、ポツダム宣言を「受諾」したといわれたようにきこえました。ということは、日本は敗けたんやないですか?
「なにッ日本は敗けただと? ――きさまなにをきいとったのか! この非国民!」
 とそいつははったおされた。――その時以来、その男の鼓膜はおかしくなってしまったのだから、ムチャな話である。
 そんなききちがえをするのは、貴様らがたるんどるからだ、といって、さんざんぶんなぐって教師はいってしまった。――この教師が戦後、それも終戦後三か月もたたないうちに、突然、
「私はもともと民主主義者で……」などといい出したのだから、私たちの戦後の「大人不信」は深くなってしまった。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2024・7・19(10位に極めて珍しいものが入っています)

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日本国民のみなさん、日本の天皇は……(米軍ビラ)

2024-07-18 03:17:38 | コラムと名言

◎日本国民のみなさん、日本の天皇は……(米軍ビラ) 

 角川文庫『八月十五日と私』(1995)から、小松左京の「昭和二十年 八月十五日」を紹介している。本日は、その二回目。

 だが、八月十三日、十四日と、二日つづけて、不思議千万にも、あれほど熾烈だった空襲がなかった。警戒警報は何度も鳴ったが、侵入してくるのはたいてい一機、それも、伝単(ビラ)をまいて行くだけだった。「敵の謀略直伝」であるビラはひろう事を厳禁されていた。ひろってもっていたために、憲兵隊にひっぱられたやつもいた。しかし、誰も彼も、そのビラを一度は見た事があり、その内容が、「日本国民のみなさん、日本の天皇は、ポツダム宣言をうけいれ、無条件降伏を申し入れました」といったものである事は、誰もが知っていた。そして八月十四日、翌十五日に、「重大放送」がある、という情報がつたわってきて、それはかえって、「敗戦」の、噂をうち消してくれるものとうけとられていたのである。
 十五日の朝になって、「重大放送」が「陛下の玉音」である事がはっきりすると、みんなは、ほんの少しばかり興奮した。
「いよいよ本土決戦やな」
 と変にうれしそうにいうやつもいた。
 いつもより十分早い、午前十一時五十分に作業は終わり、私たちは工場の中央のラジオの所に集まった。私のいる罫書【けが】き班は、ラジオに一番近かったので、一番そばに陣どれた。――いよいよはじまった「陛下の玉音」を、みんなはコチコチになってきいた。何しろ、天皇陛下は、子供のころ「御真影〈ゴシンエイ〉をじかに見ると眼がつぶれる」とおどかされた「現人神【あらひとがみ】」であり、その玉音が、ラジオできけるなどという事など、あり得ようとは思えなかったからである。
 しかし、必死になってききとろうとしても、ラジオも悪く、そのカン高い、節のついた言葉はどうにもききとれず、ただ「ポツダム宣言」という言葉と、「たえがたきをたえ」という言葉しか理解できなかった。ついに何もわからずじまいに放送が終わると、担任の教師は大感激して演説をぶった。
「ただいま陛下は、もったいなくもおんみずから、ポツダム宣言を離脱したといわれた。われら陛下の玉音にしたしく接したこの感激を身に帯し、ますます一億一心、尽忠報国の意気にもえ、聖戦の完遂にむかって邁進すべきである。天皇陛下万歳!(ここでみんな万歳三唱)――ただちに午後の作業にかかれッ!」
 歳とった工員は、感激のあまり涙をながしていた。ほかの連中も、何となくわりきれない顔をしながら、職場へかえっていった。【以下、次回】

 いわゆる玉音放送には、「共同宣言」という言葉はあったが、「ポツダム宣言」という言葉はなかった。そのあとに放送された「内閣告諭」では、そのいずれもが使われていない。その後さらに、放送員により、ポツダム宣言が読み上げられたので、そこでは「ポツダム宣言」という言葉が使われたはずである。ただし、多くの日本人は、それ以前の報道によって、「ポツダム宣言」という言葉やその内容は、把握していたと思われる。
 神戸第一中学校の勤労学徒とその引率教師は、おそらく、この放送を最後まで聞いていたのであろう。それにもかかわらず、引率教師は、「ポツダム宣言を受諾」を「ポツダム宣言を離脱」とカン違いした。そして、少なからぬ工員や生徒が、その教師のカン違いを受け入れたのであった(小松左京もそのひとり)。

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本土決戦よ、早くはじまれ(小松左京)

2024-07-17 00:54:15 | コラムと名言

◎本土決戦よ、早くはじまれ(小松左京) 

 角川文庫『八月十五日と私』(1995)の紹介に戻る。本日は、作家・小松左京(1931~2011)の「昭和二十年 八月十五日」を紹介したい。ただし、かなり長いので、その後半のみ。これを何回かに分けて紹介する。

 昭和二十年 八月十五日    小 松 左 京

【前半、約5ページ分を割愛】
 八月七日の新聞――タブロイド版といって、いまの新聞紙一ページの半分の大きさだった。――は、広島でおちた「新型爆弾」の記事が一面にのっていた。八月九日には、一面焼け野原になった中で、焼けただれてガイ骨みたいになった市電と道ばたにゴロゴロ石のようにころがっている頭蓋骨の写真がのっていて、米国のこの暴虐!とうたっていた。
「これはどうも、原子爆弾らしいぞ!」
 と名古屋大の動員先からかえってきていた兄貴はひと目みていった。
「へえ! 原子爆弾?」
 マッチ一箱の大きさで、富士山をふっとばせるとつたえられた原子爆弾の事は、私たちは戦争がはじまるころから知っていた。――アメリカがとうとう、そいつを完成させたか、と、兄と私は興奮して語りあった。妙な事だが、そのものすごい兵器を、アメリカが完成させたという事についての敗北感はなかった。かえって敵が完成させたのなら、日本も、 もうじき完成させられるはずだ、というおかしな確信があった。
 その翌日の新聞の下隅に、ソ連が、まだあと一年の期間がのこっている「日ソ中立条約」を一方的に破棄し、宣戦布告して攻撃を開始した記事がのっていた。――しかし、私たちはちっとも動揺しなかった。どっちにしたって、もうじき決着がつく。アメリ力でもソ連でも中国でもやってこい。本土決戦よ、早くはじまれ――そんな、妙に軽々とした気分だった。むしろ、決定的に動揺したのは、動員先で銀行屋の息子の友人から、「日本は、もう負けた」
 という話をきいたときだった。――日本は、無条件降伏することにきめ、銀行の上層部では、いま資産をかくしにかかっている……。そのショッキングな「秘密ニュース」を、私たちは昼休みの工場の物かげで、息をのんできき、きくだけきいてから、その友人を、「日本が敗けたなんて、きさま、非国民だ」といって、みんなでぶんなぐった。【以下、次回】

 小松左京は、本名・小松実(みのる)。敗戦当時十四歳で、神戸第一中学校の生徒だった。

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元大統領暗殺未遂事件で思い出した映画

2024-07-16 02:58:25 | コラムと名言

◎元大統領暗殺未遂事件で思い出した映画

 トランプ元大統領の暗殺未遂事件(今月13日)には驚かされた。最初、銃弾が右耳を貫通したと聞いたので、右耳から入った銃弾が脳を貫通したのかと思ったが、そうではなく、右耳の上部を貫通したということらしい。
 狙撃犯は、大統領の右方向の高い位置から、元大統領を狙ったが、たまたま、元大統領が右を振り向いたため、銃弾は、元大統領の右耳の上部を貫通した。これは、狙ってできるようなことではない。トランプ元大統領は強運だったと思う。
 ニュースで、この事件を知って、あるアメリカ映画を思い出した。2007年公開のパラマウント映画『ザ・シューター/極大射程』である(アントーン・フークワ監督)。現職大統領が、近くの建物から狙撃されるが、銃弾がそれて、隣にいたエチオピア出身の大司教が死亡してしまう。
 大統領(元大統領)が狙撃されるが、銃弾がそれ、隣にいた人物が死亡しているところ、近くの建物にひそんでいた狙撃犯が、高い位置から狙撃しているところ、周辺のビルには、数多くの警備要員が配置されていたが、にもかかわらず、犯行を阻止できなかったところ、などで、共通点がある。
『ザ・シューター/極大射程』は、アメリカ映画が得意とする陰謀物である。映画としては、なかなか面白くできている。なお、今回の事件に「陰謀」がからんでいるのかどうかは、まだ何とも言えない。

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民衆の恥知らずなしぶとさ、したたかさ、狡智

2024-07-15 04:03:56 | コラムと名言

◎民衆の恥知らずなしぶとさ、したたかさ、狡智 

 角川文庫『八月十五日と私』(1995)の紹介に戻る。本日は、作家・夏堀正元(なつぼり・まさもと、1925~1999)の「非国民二等兵」を紹介したい。ただし、紹介するのは、その「抄」である。

 非国民二等兵        夏 堀 正 元

 一九四五年八月十五日を、わたしは弘前陸軍病院の大滝温泉療養所で迎えた。秋田県の花輪線にある静かな山中の温泉場で、米代川〈ヨネシロガワ〉のほとりにある。大学時代、文学書や哲学書ばかり耽読していたわたしのなまくらな身体は、かつて〝八甲田山・死の行軍〟で知られた第八師団の猛訓練に耐えられず、重度の肋膜炎になっていたのである。学徒兵だったわたしは二等兵として酷使され、演習のほかに空襲に備えて連日のように不慣れな壕掘りをさせられて、とうとう発病してしまった。もっとも、古い三八式歩兵銃すらも不足し、ときには弾丸のでない模擬銃をもたされたことがあるから、猛訓練の演習といっても、どこか兵隊ごっこの感があった。そんなわけで、初年兵にとっての最大の仕事は、むしろ過酷な壕掘りにあったといえるような具合だったのである。
 わたしが弘前の部隊に入隊したのは、おなじ年の三月二十五日、そして六月中旬には発病して陸軍病院に入院する羽目になったのだから、甲種合格としては情ない話であった。だが、右肋膜炎は千五百CCの水を取ったものの、なかなかよくならず、その後もずっと熱がつづいて、米軍機による本土空襲が激しくなると、大滝温泉に移送されたのである。
【中略】
 それにしても、八・一五の敗戦は、わたしの確信ですらあった。その二年前の十八歳の日記に、こう書いている。
「この戦争は、絶対に負けなければならない。もしも日本、ドイツ、イタリアの枢軸側が勝利したら、世界は狂熱的なファシズムの毒を撒き散らす三つの獣性国家によって支配され、精神の自由は盲目の帝国のなかで圧殺されるだけである。いまこそ、精神の自由のために日独伊は負けるべきなのである」
 したがってその日、わたしは敗戦の事実を冷静な歓びのなかで受けとめていた。
 わたしが弘前の原隊に帰ったのは、それから半月後の九月一日であった。部隊はまだ解散せず、兵舎も、内務班の顔ぶれも元のままであった。
 しかし、わたしの身辺では、驚くべき変化が起った。「非国民!」「不良学徒兵!」「貴様なんか早く第一線にでて、くたばりやがれ!」とわたしを罵倒し、上靴で顔がみるみる変形するほど殴打をくりかえしていた班長をはじめ兵長、上等兵、古兵たちの態度が、掌〈テノヒラ〉を返したようにガラリと変ったのである。まだ微熱がつづいて、班内の所定の二等兵の寝床に横たわったり、坐りこんだりしているわたしに、彼らはまるで上げ膳据え膳の大サービスを始めたのだった。
 なかには、わたしの下着から褌〈フンドシ〉まで無理矢理脱がせた、いかつい顔の大男の兵長などは、そこにぎっしりとついているシラミとその卵を丁寧につぶし、ときには前歯でシラミを殺してくれたほどである。むろん、温泉でふやけたわたしの肌をところかまわず刺しつづけた南京虫退治もしてくれた。
 わたしは啞然とした。薄気味がわるかった。「いったい、どうしたというんですか」と、彼らの想像もつかなかった突然の親切の理由を訊いた。
「貴様は――いや、あんたは日本が負けると予言していた。それも八月なかばだ、と見事 にいいあてた。まるで神業だ。これからの日本は、あんたのような ひとのものだ。あんた は絶対に偉くなるよ」
 農民あがりの兵長は、ほとんどへつらいの色もみせず、ケロリとした表情でいって、ハ、ハ、と笑った。 
【中略】
 生れてはじめての屈辱的な制裁をわたしに加えたそのおなじ連中が、敗戦直後のいま、「これからは、あんたの世のなかだ」といって、わたしのシラミまで食いつぶしてくれている。彼らのほとんどは県下の農村出身者であり、商人であり、職人であり、サラリーマンであった。なかには銀座でバーテンダーをしていたというヤクザっぽい上等兵もいた。
 彼らはみな、わたしを殴ったことすらなかったかのように、平然と豹変した。時と場合に応じてあっさりと心変わりする人間というものが、ほんとうに怖ろしい生きものであると知ったのは、このときである。民衆はオポチュニストである、と切り捨ててしまうことは易しい。だが、彼らはオポチュニズムをとおして、あわよくばなんらかの権力を手に入れようとするエセ知識人とは違う。彼らは移ろう権力にたいして逆らおうとしないだけなのだ。褌や下着のシラミを取ってもらいながら、わたしは日本の民衆の恥知らずなしぶとさ、したたかさ、狡智に、頭をどやしつけられた思いだった。
 そのとき、わたしは一種の戦慄を覚えていた。それは人間(民衆)にたいする畏怖の念というべきものであった。これにくらべれば、粗野と卑劣と虚偽と喧嘩と醜悪が渦巻いている軍隊の、日常的な恐怖などは、どこかつくりものめいていた。【以下、割愛】

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