礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

八丈方言は、日本全国にその類型を見ない

2024-09-30 03:19:37 | コラムと名言
◎八丈方言は、日本全国にその類型を見ない

 平山輝男著『日本の方言』(講談社現代新書、1968)の第3章から、「奈良朝の面影を残す八丈方言」の節を紹介している。本日は、その三回目(最後)。

かわりゆく方言
 また、相手を指す二人称にオメーとオマイとが一緒に行なわれていて、このうち、オメーは敬意を表わして目上の人に対して使われ、オマイは同等以下の人に対して使われていることは、すでに述べました。
 これらの使い分けは青ガ島方言では、青少年層でもはっきりしていますが、八丈島方言の青少年層ではもう古い敬意を示すオメーは意識がうすれて、オマイまたはオメーと発音しても、ともに同等以下に対して使うものが多くなりました。
 なお、この青ガ島・小島・八丈島の方言では、ともに動詞に接頭語をつけて、たとえばヒットル(取る)、ヒッカスル(忘れる)、ヒッピロゲル(広げる)……のようにいいますが、これは鎌倉時代ごろからの東部方言に見られるすがた(腹カッ切って、ヨッぴいて……)の名残りともみられましょう。また、パック(枯れる)、ピヨメ(ひよ子)のように「パ行」の音が聞かれます。これは、前に述べた日本の古代音がこの方言に残っているのだと考えられそうですが、実はそうではありません。つまりパックも接頭語の付くヒッパック(枯れる)も同時に行なわれていますから、おそらくこの接辞のために「パ」になり、その接辞がなくなってもそのまま使われるようになったのでしょう。またピヨメなどはその鳴き声をまねた、いわゆる疑声語から出たピでありましょう。
 青ガ島の高年層では、「先生」をシェンシェーと発音しますが、このシェ[ʃe]の音は共通語のようにセンセーというよりはやはり古い音です。
 また「鍵」をカギ、「籠」をカゴのように破裂音[ɡ] を伴い、鼻音[ŋ] を発しないのも特徴の一つと考えられます。ただし、これは伊豆諸島全体に共通であり、また九州や中国地方などでも広く[ɡ]が行なわれています。近ごろは共通語でも、主として若い人たちの発音で鼻音が消えかかっていく現象がみとめられます。語彙の面でもツブリ(頭)、マナコ(眼)、オトゲー(顎)……のように古語がかなり残っています。そして、これらは八丈島・小島方言にもほとんど共通です。
 以上述べたなかには、八丈方言の古い面がかなりありますが、一方では孤立的変化をとげて、共通語よりも新しい変化を示している面もあります。そのうち、とくにめだつものは、前にも触れた崩壊アクセントです。大島・三宅島以下の北部・中部の伊豆諸島方言や共通語では、たとえば、
  「雨」と「飴」を区別してメ、ア
  「箸」と「橋」を区別してシ、ハ
  「日」と「火」を区別してヒガデタ、ガキエタ
のようにいいます。南部伊豆諸島の青ガ島方言をはじめ、八丈島・小島では、この種のアクセントによる区別がまったくない、いわゆる崩壊アクセントです。
 青ガ島方言は、音声の面では、人家が散在しているせいか、集落内で少しずつ違います(これを島の人は俗にたね<血族>が違うからだといっています)。しかし、語彙や文法の面では、ほとんどおなじです。音声面の違いも根本的なものではなく、音韻論のうえではまったく同一の体系と解釈されます。
 青ガ島方言(小島方言も同様)は八丈島方言の分かれたものと思われますが、そのなかには、八丈島よりいくらか古い面をとどめているといえましょう。

八丈方言の持殊性
 この青ガ島方言は、八丈島や小島などの方言とまったく同一基盤のものです。これらの青ガ島・小島・八丈島の方言を合わせて、八丈方言と名づけ、私は現在におけるこの八丈方言の特殊性を重要視したいと思います。
この八丈方言を前記の北部・中部の伊豆諸島方言と対立させることは当然ですが、さらにこの八丈方言の全体系が現在のすがたではきわめて特異であって、日本全国にその類型を見ないほどですから、共時論的に考察して、私は東部方言・西部方言・九州方言の三大対立に伍して独立させることを提唱した次第です。
 この八丈方言の地盤は、国語史にさかのぼると、確かに東部方言の仲間ですが、黒潮の彼岸という特殊な環境のため、古い言語のすがたをかなりとどめており、また一方では孤立的変化と流罪・漂着の人々による諸方言の影響を受け、現在では特殊な言語体系を示しています。
 九州方言が、古くさかのぼっては西部方言の中に入れられるように、八丈方言も古くは東部方言の中に入れてよいものです。しかし、現在の共時態としてみられる特殊性を考えますと、九州方言を独立させることとおなじく、この方言も独立させることが自然でしょぅ。ただ、その方言の行なわれている領域が狭すぎますが、方言区画は領域の広い狭いよりも、その方言自体の特殊性によるべきです。そして、方言の体系はあくまで共時論的立場において立てなければなりません。たとえ国語史的事実が東部方言的色彩を濃くしていても、それらの事実は方言区画を決定する場合は考慮の外におくべきです。

 文法からみた八丈方言の対立比較表 【略】

 八丈方言は音韻体系だけでは、東京方言(東部方言)や京阪方言(西部方言)とおなじ体系です。しかし文法やアクセント体系のうえで対立がいちじるしいので、東部方言と西部方言との区画が認められているのと同様に、この八丈方言も音韻体系だけは東京方言と共通の要素を示していても、主として文法の面での対立によって東部方言・西部方言・九州方言に伍す方言として、四大対立を認めることは妥当でありましょう。〈122~125ページ〉

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青ガ島では、「降る雨」をフロアメという

2024-09-29 00:01:06 | コラムと名言
◎青ガ島では、「降る雨」をフロアメという

 平山輝男著『日本の方言』(講談社現代新書、1968)の第3章から、「奈良朝の面影を残す八丈方言」の節を紹介している。本日は、その二回目。

独特なことば
 この〔青ガ島の〕方言の会話によく使われるアラは第一人称の「あれは」のちぢまった形、アレはワレの[w]音が落ちたものと思われ、この方言では主として中年層以上にワレ、青年層には多くアレが使われる傾向きです。アレ・ワレが第一人称として使われているすがたは古典的な古さを示すものです。
 なお、さつまいものことをカンモというのは、カライモ(唐芋)のことで、これは九州南部の、たとえば都城〈ミヤコノジョウ〉といっているのと一致します。この方言領域では、カンモすなわちさつまいもは、主食としてたいへん重要なものです。
 この方言でカム(噛む)という動詞は、一般に広く「食べる」という意味を表わし、たとえば、柔らかい豆腐のようなものでも、
  トーフオカモワ(豆腐を食べますよ)
のようにいいます。その他、
  イモオカモワ・メシイカモワ
  イモウカモワ・メシオカモワ
のように、水や牛乳などの液体の類以外は、いもでも飯でもすべてカムでまにあわせています。
 共通語をはじめ多くの方言で、現代口語動詞の終止形は、ウ段音で終止する形(たとえばカムのように)が多いのですが、これも無理に言わせればいいます。しかし、この形はむしろ共通語その他の影響を受けたものと思われます。ウ段音で終止する形は、比較的に青少年層のことばに多くまじって現われます。

古い形を残すもの
 また連体形が、シノワケ(死ぬわけ)のようにオ段音になっています。たとえばつぎのとおりです。
  シノワケ(死ぬわけ)
  ヨモホン(読む本)
  フロアメ(降る雨)
 このすがたは珍しいもので、現代方言の中では、伊豆諸島のなかでも、青ガ島・小島・八丈島、およびこれらの島についで交通不便な島の一つである前記の利島などに聞かれるくらいです。これは奈良時代にできた『万葉集』の東歌や防人歌の資料と一致します。その集中の「フロヨキ」(降る雪)<万・三四二三>、「タトツク」(立つ月)<万・三四六七>などは、「降る」「立つ」の連体形が「降ろ」「立と」のようにオ段音です。奈良時代の中央語(当時の大和方言のうち)では、「降る雪」「立つ月」でしたが、当時の東部方言ではオ段音も用いられたわけです。この事実と、この青ガ島・八丈島・利島などの方言で用いられているすがたと一致する事実をもって、ただちに奈良時代の古形残存説を唱えることは慎むべきことかもしれませんが、青ガ島・八丈島・利島など、本土との交通がとくに不便であった長い過去をもつことを思えば、これを否定する積極的資料がないかぎり注目すべきことでしょう。
 また、この方言では、形容詞の連体形の語尾がケです。すなわち、アカケハナ(赤い花)、シロケイロ(白い色)、カナシケコト(悲しいこと)……のようになります。
 これも現代方言としては珍しいものです。これと似たすがたは、おなじく『万葉集』東歌のなかに見出だされます。<万・三五六四>歌中のカナシケコロというのは、「かわいい、いとしい子」という意味で、当時の中央語では「カナシキコ」のように表現していたはずです。つまり、奈良時代の西部方言では、形容詞の連体形では「――キ」であったのが、東部方言では「――ケ」で表現されることもあったわけです。
 この古い東部方言の形式に、青ガ島方言の形容詞の連体形が似ています(千葉方言にも聞かれます)。
 なお、形容詞を推量表現に用いるとき、たとえば「赤いだろう」は「アカカンナウワ」のようになります。これは、おそらく「あかくあんなん」の変種で、東部方言の古形でありましょう。これに似たすがたは、伊豆諸島方言のうち八丈島・利島・御蔵島・坪田(三宅島のうち)など特殊な環境を持つ方言に認められます。たとえば、「赤いだろう」という表現をとりますと、
  アカカンナウワ……(青ガ島)
  アカカンノーワ……(八丈島)
  アカカンノー………(利島・御蔵島・坪田)
 これら諸方言の中では、青ガ島のがもっとも原形に近いものでしょう。
 その他、青ガ島方言で、
 ヨミンナカ(読まない)
 カキンナカ(書かない)
のようにいいます。また、
 キーテタモーレ(聞いてください)
これをもっと敬意を深くするとキーテタモーリヤレといいます。高年層の一般表现ではキーテタベというのも残っています。
「読んでいらっしゃる」をヨンデオジャロワといいます。〈116~120ページ〉【以下、次回】

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青ガ島は周囲9キロの火山島で、人口は375名

2024-09-28 00:28:40 | コラムと名言
◎青ガ島は周囲9キロの火山島で、人口は375名

 当ブログでは、昨2023年の後半、アクセントの問題を採りあげた。その際、平山輝男という国語学者(1909~2005)についても、たびたび話題にした。
 最近になって、書棚を整理していたところ、平山輝男著『日本の方言』(講談社現代新書、1968)という本が出てきた。初期の講談社現代新書で、ザラっとした感じのビニールカバーが付いている。
 同書の第3章「全国方言の諸特徴」の最初に、「奈良朝の面影を残す八丈方言」という節があった。本日以降、この節を、何回かに分けて紹介してみたい。
 なお、平山輝男は、昭和30年代の初頭、方言調査のため、大島一郎らゼミ生ともに、八丈島と青ガ島を訪れている(2023・12・4の当ブログ記事参照)。

  〈1〉 奈良朝の面影を残す八丈方言

言語を分ける「黒瀬川」
 黒潮の流れをへだててはるか南方に浮かぶ八丈島は、とくに語彙・語法に特色があります。またアクセントは型が崩壊して、話者が内省しても型知覚がないものです。
 八丈島以南の小島・青ガ島方言なども、八丈島系で、アクセントも崩壊アクセントです。
 これに対して、御蔵【ミクラ】島以北の島々、すなわち御蔵・三宅【ミヤケ】・神津【コーズ】・新島【ニージマ】・式根【シキネ】・利島【トシマ】・大島の諸島は、大まかにいえば、同じ流れの方言です。とくにアクセントは、どの島もその基本的な体系は東京式アクセントです。したがってアクセントのうえでは御蔵島と八丈島との間に見られる黒潮の流れ(島民はこれを黒瀬川と呼びます)が東京式と崩壊アクセントとの明瞭な境界線になっています。八丈島およびその属島の方言は、アクセント以外の要素もかなり特殊で、従来、系統不明とか、または東部方言の一変種とか言われてきたくらいですから、この黒瀬川はアクセントだけでなく、方言全般のもっとも明瞭な境界線でもあります。私は八丈島および、その属島の青ガ島・小島の方言を合せて八丈方言として、東部・西部・九州の三大方言と対立させるべきだと思います。

伊豆諸島の最南端、青ガ島
 八丈方言の代表として、青ガ島方言をあげましょう。
 この島は伊豆諸島の中で、人の住む島としては本土からいちばん遠く離れている島で、東京から東南へ三六一キロ、八丈島からでも約七〇キロも東南へ離れています。
 この青ガ島は、周囲が約九キロの小さな火山島で、人口は三七五名、約一〇〇世帯ばかり(昭和四〇年現在)ですが、青ガ島村として独立しています。この島の海岸はすべて断崖絶壁をなしていて、切り立った大きな岩が屏風を立てたように聳えています。そして、船の泊まる入り江などもないので、この島に上陸することがまず一苦労です。神子【みこ】の浦は波の浸蝕によってできたわずかばかりの斜面ですが、ここの石ころの上に、人が乗ったままのはしけを、村人たちがたくさんかかって引き上げてくれるのです。沖で汽船からこの島の小さなはしけに乗り替えるのも骨が折れますが、この石ころの斜面に引き上げられるときは、たいてい波をかぶってしまいます。私どももかなり周到に包装したテープレコーダーや写真機などをぬらして故障させてしまったほどです。
 比較的に海が穏やかな七月ごろでも、こんな状態ですから、台風の起こりやすい十月ごろから春さきにかけてはまったく交通不便です。昭和のはじめごろから、ひと月に一回の定期船がこの島の沖に停泊することに決まったのです(それ以前は年二回)が、それでも海が荒れると船は来ないのですから、悪い季節には三ヵ月も四ヵ月も本土との交通がと絶えてしまいます。青ガ島の校長の話によりますと、本土からの年賀状などは三月になって見るのが普通のことであるといいます。
 以上のように不便な交通状態は、本土の文化に接触する機会を少なくし、ごく最近まで電気もなく、ラジオ、映画などは、もちろんなかったのですが、これらは方言のうえにどのような影響を及ぼしているのでしょうか。〈114~116ページ〉【以下、次回】

「小島」とあるのは、「八丈小島」のこと。この『日本の方言』が出版された年の翌年(1969)、無人の島となった。
「青ガ島」は、一般的には「青ヶ島」と表記される。この本では、「青ガ島」となっている。ただし、原文では、「ガ」は、「ヵ」に濁点がついた字である。
「崩壊アクセント」という言葉があるが、これは平山輝男のアクセント観を示す用語であって、「無アクセント」(一型アクセント)と同義である。なお、私見によれば、「無アクセント」は日本語における最も古い姿を残しているものであって、既存のアクセントが「崩壊」したことによって出現した姿ではない。

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原武史さん、近鉄特急で京都から津まで移動

2024-09-27 00:12:10 | コラムと名言
◎原武史さん、近鉄特急で京都から津まで移動

 原武史さんの「歴史のダイヤグラム」(朝日新聞連載)を、毎回、楽しく読ませていただいている。今月21日の記事は、「京都から津に行くには」と題されたもので、1977年(昭和52)3月25日に、近鉄特急に乗って、京都駅から津駅まで移動した思い出が記されていた。
 当時、原さんは、中学2年生だった。この日、友人Nと京都を観光したあと、帰京しようとしたが、東海道新幹線のダイヤが乱れ、いつ帰れるか見通しがつかなかった。友人Nは、奈良市内の親戚の家に泊るという。原さんは、津市近郊にある伯父の家に泊ることにした。以下、記事の引用。

 しかし、京都から津まではかなり遠い。特急券を買うNと中央口の近くにあった近鉄の切符売り場に行ってみると、18時15分発鳥羽〈トバ〉ゆきの特急があった。三重県まで一本で行けるのは好都合だが、停車駅は大和八木〈ヤマトヤギ〉の次が松阪で、津には行かなかった。
 窓口の職員に津まで行きたいのだがと告げると、大和八木で同じホームの反対側に停まる近鉄名古屋ゆきの特急に乗り換えろと言う。事情が呑み込めぬまま、津までの特急券を買った。
 近鉄の乗り場に行くには、いったん国鉄の改札を抜ける必要があった。改札に接する1番線(現・0番線)の長いホームから、17時36分発の客車列車が出ようとしていた。東海道本線と草津線を経由して、三重県の柘植【つげ】まで行く普通列車だった。
 京都―草津間だけとはいえ、戦前を思わせる古色蒼然とした列車が東海道本線を走っていたのだ。この列車に乗り、柘植と亀山で乗り換えれば、距離的には近鉄よりも短いことに気づいた。
 後ろ髪を引かれる思いで鳥羽ゆきの特急に乗った。大和八木では、同じホームの反対側に近鉄難波(現・大阪難波)発近鉄名古屋ゆきの特急が入ってきた。そして鳥羽ゆきが出て3分後に続けて発車し、名張〈ナバリ〉に停まると次は津だった。……

 記事によれば、名古屋ゆきの近鉄特急が津駅に着いたのは、20時7分だったという。京都駅発が18時15分だから、2時間を要していない。
 では、もし、この日、原武史さんが、京都駅1番線から出ていた柘植駅ゆきの国鉄普通列車に乗ったとしたら、津駅に着くのは何時ころになったのだろうか。
 今、机上に、『時刻表 1978夏号』がある。発行日・発行所の記載はなく、表紙に「謹呈 日本国有鉄道」と書かれている。その221ページに、1977年3月15日に改正された草津線の時刻表が載っていた。それを見ると、京都駅発17時36分の柘植ゆきがある(726列車)。1977年3月当時の列車の運行状況も、この時刻表と、それほどの違いはなかったと推定できる。
 726列車の柘植駅着は、19時18分。ここから津に向かうには、まず、関西本線の上りで亀山駅までゆかなければならない。名古屋ゆきの急行「かすが4号」(210D)の柘植駅発が19時25分。次の停車が亀山駅で、19時45分に着く。ここで紀勢本線の下りに乗り換えることになる。名古屋発・津ゆきの923列車の亀山駅発は19時55分、終着の津駅着は20時20分である(いずれも、前記『時刻表』による)。出発から到着まで、2時間44分もかかることになるが、到着時間は、近鉄特急を利用した場合に比べて、13分遅くなるだけである。
 原さんは、すでに、近鉄の乗車券・特急券を購入していたわけだが、もしそうでなければ、京都駅で、「古色蒼然とした列車」に乗り込むという選択もありえたと思った。

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クワイはヴェトナム語でkhvaiという(坪井九馬三)

2024-09-26 02:31:33 | コラムと名言
◎クワイはヴェトナム語でkhvaiという(坪井九馬三)

 本日も、山中襄太著『国語語源辞典』(校倉書房、1976)の紹介。本日は、「くわい」という項目を紹介したい。

くわい【慈姑,茨菰】 大言海くわゐ――噛破集(クヒワレヰ)ノ義ニテ,葉ノ形ニ云フニモアルカ。[考]広辞苑は,中国原産としているが,向坂道治〈サキサカ・ミチジ〉氏の「植物渡来考」(p.67)によれば,クワイ,ラッキョウ,コンニャク,ショウガなどは,薬草として渡来栽培され,中国原産ではなくて,インド,ペルシャからの再渡来植物であろうという。こういう渡来関係が,語源を考える手がかりになる。坪井九馬三氏によれば,ヴェトナム語ではクワイをkhvaiといい,モン語ではyam(山芋) を kadap kwai, kduip kwaai などという(「我が国民国語の曙」P.42)。この khvai, kwaiなどは,日本語そっくりである。中国で慈姑,茨菰,藉姑,河鳧茈などというが,これらは音訳語らしく,文字通りの意味ではなさそうである。本草綱目に「慈姑,一根歳生十二子,如慈姑之乳諸子,故以名之」と説明しているが,本草綱目の著者の李時珍は,言語学者でも語源学者でもないから,その語源脱明はほとんど信ぜられぬ。ということは,実際にその語源説明を多く読んでみれば,維でもその感を抱くにちがいないほどだからである。字義にとらわれた俗解がほとんどである。河鳧茈という名については,李時珍も説明していないようだが,これこそは上記のkhvai, kwaiなどの音訳らしい。この字はカフシと読めるが,この茈の字は芘の誤りらしい。河鳧茈ならばkwaiの音訳とみられる。日本語クワイも,このkwaiであろう。噛破集(クヒワレヰ)などと,不自然な無理な苦しい解釈をする必要はない。とかく,語源を日本語の枠内だけで説こうとすると,こんなコジツケになりやすい。しかしクワイの葉がクイワレ(噛破)て,三角にとがっているのは持徴的で,英語でarrow-head (矢の頭,矢尻,鏃,クワイ)というのももっともである。

 坪井九馬三(つぼい・くめぞう、1859~1936)は、明治・大正・昭和の歴史学者、東京帝国大学文科大学長。今回、その著書『我が国民国語の曙』(京文社、1927)を少し読んでみたが、復刻に値する名著だと思った。

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