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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

ゲッベルス宣伝相とディートリヒ新聞長官

2015-10-31 04:45:25 | コラムと名言

◎ゲッベルス宣伝相とディートリヒ新聞長官

 ゲッベルス宣伝相つながりで、本日は、ナチス・ドイツの「新聞弾圧」について紹介したい。以下は、日本ジャーナリスト連盟編『言論弾圧史』(銀杏書房、一九四九)の最終章「第一・第二大戦と新聞ジャーナリズム」からの引用。この章を執筆しているのは、反骨のジャーナリストとして知られた鈴木東民〈トウミン〉である。

 第二次大戦におけるナチスの新聞弾圧
 策二次大戦においては、戦争準備としての新聞政策が両陣営とも組繊的に行われたのであつた。この場命、世界的に優秀かつ有力な通信網をもつている英米が有利な立場にあつたことはいうまでもない。両陣営の宣伝戦は特にトルコを含むバルカン諸邦、中南米においてはげしく展開された。
 第一次大戦における新聞政策の失敗にもかかわらす、またヒトラア自身がその著「マイン・カムプ」(わが闘争)の中で第一次大戦当時のドイツ政府の新聞政策、すなわち新聞の報道、評論の自由を政府が奪つたことに対し鋭い攻撃を加えているにかかわらす、ナチ政府は典型的な新聞弾圧をやつた。この新聞統制(Gleichschaltung der Presse)がファシズム諸国の陣営において極めて完全に組織的に行われたことは第二次大戦における特徴的な点である。ナチ政府は戦争準備としての新聞統制をすでに政権を獲得したその年すなわち一九三三年二月の末から着手した。この年の二月二七日、ドイツでは国会議事堂の放火事件が起り、これを口実に共産党が解散されつづいて間もなく社会民主党も同様の運命を辿つたのであるが、こうした政党統制と同時に新聞統制も行われた。反ファシズムの新聞やユダヤ人経営の新聞は暴力でナチスに占領された。その他の新聞でナチスが欲しいと思つたものは、買収という名目で乗つ取りをやつた。
 ナチスの新聞政策のため一九〇以上の社会民主党の機関紙と七〇以上の共産党機関紙とが廃刊となつた。宣伝相ゲッベルスと新聞長官ディートリヒとによつて新聞の編集と経営とに対する統制が徹底的に遂行された。反動的な新聞、例えばフーゲンベルグ・コンツェルンの諸新聞はその存続を許されたが、しかしその編集は政府の厳重な統制下におかれた。フーゲンベルグは第一次大戦当時クルップ軍需工場の総支配人をしていた経歴をもち、後に政界に転じてドイツ国権党の首領としてドイツ・ファシズム運動の指導的地位を占めていた。かれはヒトラア、シャハト、ゼルテらと共にハルツブルグ戦線とよばれたファシズム統一戦線を組織したのであるが、ヒトラアが政権を獲得した後はヒトラアのために政治の圏外に追われてしまつた。かれの失脚後はその新聞コンツェルンも完全にヒトラアの支配下におかれたのである。この徹底したファシズム的新聞統制の結果、自由主義的なジャーナリストは失業、投獄または亡命の憂目〈ウキメ〉を見たのである。

*このブログの人気記事 2015・10・31(30日はアクセスが急騰、28日の10倍ありました)

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ディミトロフ、ゲッベルスを訊問する(1933)

2015-10-30 01:52:04 | コラムと名言

◎ディミトロフ、ゲッベルスを訊問する(1933)

 昨日の毎日新聞に、「一人一票の国民投票で首相候補を選ぶ会」の意見広告が載っていた。「ナチス憲法……あの手口学んだらどうかね。」という大きな見出しから始まるもので、かなり目立つ。ナチスが、独裁体制を確立するにいたる経緯を示す「年表」も付されていた(文責・升永英俊弁護士)。
 二〇一三年七月二九日の「麻生発言」のインパクトは、今日にいって、なお衰えていない。この意見広告を見て、私は、高山洋吉訳『ディミトロフ 国会議事堂放火裁判』(門脇書店、一九五五)という本を思い出した。
 ドイツ国会議事堂放火事件(一九三三年二月二七日)の犯人として逮捕されたブルガリアの政治家ゲオルギ・ディミトロフが、法廷でおこなった闘争の記録をまとめた本である。
 この裁判では、被告ディミトロフは、みずからの弁護人も兼ねた。そこで、法廷において、ディミトロフ対ゲーリング、ディミトロフ対ゲッベルスといった対決シーンが生まれた。本日、紹介するのは、ディミトロフが、証人ゲッベルスを訊問する場面(一七四~一八〇ページ)。

 一九三三年十一月八日の審理の速記から
  ゲッベルスの訊問から
ディミトロフ 証人は、内閣全体の確信するところにしたがえば、国会議事堂放火はドイツ共産党の側における武装暴動の序幕たるべきものであると声明しておられる。そこでお尋ねする、二月二十六日、二月二十七日、または国会議事堂放火の翌日、閣議はドイツのプロレタリアートおよびドイツ共産党の側において予想される暴動にたいしてすべての軍隊を部署につける決定をしたかどうか? そういう決定、明確な記録があるのかどうか?
ゲッベルス それは内務大臣の職務である。
ディミトロフ 証人は、当時内務省または陸軍省で予想される共産主義者の暴動にたいする武力の配置が命令されたかどうかを知っておられるか?
ゲッベルス ディミトロフ氏は私を陸軍大臣か内務大臣と混同しておられるようである。ところが、私は宣伝大臣で、戦争遂行とはなんの関係もない。私は、内務大臣は然るべき措置を講じたことであろうが、国防大臣は多分そういう措置を講じなかったと想像する。それにたいしてドイツ軍が召集されなければならなかったのだというふうに考えておられるとすれば、ディミトロフ氏はわが国における共産主義の危険を過大に、そして危険なものと見ておられるようである。突撃隊と親衛隊とを配置すれば十分、わが国の共産主義者などは一瞬にして鎮圧できるのである。
裁判長 他の所管事項に答える義務のないことは、証人のいわれる通りです。
ディミトロフ 私は後でその方面で証拠の申請をすることにします。しかし、ドイツ宣伝相として、またナチ党宣伝部長として、証人はおそらく、国会議事堂放火がただちに政府、特に宣伝省の側において、共産党、社会民主党その他の反対党の選挙煽動の弾圧のための序幕として利用されたことを知っておられるでしょう。
ゲッベルス (放火後に特別の宣伝措置が講ぜられたことを否定する。)
ディミトロフ 証人は自らラジオで、共産党ばかりでなく社会民主党も放火の張本人だといわれなかったか? このラジ才演説や、ゲーリング大臣その他の政府当局者の声明では、共産主義者ばかりでなく社会民主党も放火の張本人にされています。
裁判長 それは、誰が国会議事堂に放火をしたかという問題とどんな関係があるのか?
ゲッべルス 私は、その質問に喜んで答えよう。私は、ディミトロフがこの法廷で其産党や社会民主党の宣伝をして、それを弁護しようと思っているのだという印象を受ける。私も宣伝の何物かは知っている。そしてかれは、そんな質問で私の平静をみだそうなどと試みる必要はない。かれのそんな試みは成功しないであろう。われわれは共産主義者を張本人として告発しているのであるが、かれらと社会民主党とのあいだにも不断の連絡があった。われわれにとっては、両党のあいだに原理上はなんの違いもない、ただ戦術とテンポが違うだけだ。したがって、われわれが共産主義をマルクス主義のもっとも尖鋭な形、国会議事堂放火の張本人と見做しているとすれば、それによって当然、共産党とともに社会民主党をも撃滅するというわれわれの任務も与えられたのである。
ディミトロフ 一九三二年秋、パーペンおよびシュライヒェル政府の下でドイツに一連の爆弾暗殺が企てられた。そのために裁判になり、ナチ党にたいして、二、三の死刑の判決が下された。そこで私はお尋ねする、一九三二年のこのテロ行為ばナチ党のやったことではないのか?
ゲッべルス 外国の挑発者がナチ党の中へ送り込まれたというようなこともありうる。その合法的な線を守るために、ナチ党は急進的なステンネス派を除名するときに重大な危機を身に引き受けてさえいる。
ディミトロフ 敵を殺害し、そのために死刑の判決を受けたナチ党員に、ドイツ国首相ヒットラーは厳かに、そして示威的に敬意を表している。証人はこれを知っておられるか?
ゲッベルス 総統は、主観的にはもちろん祖国の利益のために正しく行動したと思っているこれらの人たちを絞首台の前に見棄ててはならぬと考えられ、そこでこの人たちに挨拶の電報を送られたのです。
ディミトロフ ナチ党が、ナチスの運動の目的でなされたすべてのテロ行為を大赦する議案を通したことは正しいことか?
ゲッベルス もしこの人たちが赤色テロにたいしで、身を護ったのであったら、われわれは、ドイツ国民を救済するためにその行為をやったこの人たちを投獄することはできなかったのです。
ディミトロフ 証人はドイツでたくさんの政治的殺人の行われたことを知っておられるか? 共産党の指導者カール・リープクネヒトやローザ・ルクセンブルグは殺害されている……
裁判長 おやめなさい! おやめなさい! われわれはここでは誰が国会議事堂に放火したのかを糾明せねばならぬのです。そんなに遠い過去まで遡ることはできません。
ゲッベルス アダムとイヴからはじめたらもっとよいのかも知れぬ。しかし、この殺害が行われたときはわれわれの運動は存在しなかった。
ディミトロフ 証人は、エルツベルガーやラーテナウのようなドイツの政治家が右翼団体に……
裁判長 (遮って)大臣がそれに解答するのを希望されさえしなければこの質問はただちに却下する。
ゲッべルス 私はこの質問を抑えようとは思わぬ。エルツベルガーやラーテナウの殺害は、ナチスの一団のやったことではない。当時、この運動はごく小さなグループに過ぎなかった……
裁判長 ディミトロフ、その質問も却下せねばなりません。前のことも考えなさい。*
 *裁判長は、ディミトロフがファシストの国会議事堂放火者を暴露する質問をして退廷させられたことをいっているのである。
ディミトロフ ドイツでそういうことをした一団は、今チナ党員の仲間ではないのか?
ゲッべルス 私は誰が殺害者であったのかいちいち知っていない。一部のものは外国へ逃亡し、一部のものはプロシャの警察に射殺されるか、自殺するかしている。大部分はもう生きていない。そして私はそういう連中のことは興味をもっていない。
総事総長ウェルナー博士 大臣がこの質問にお答えになるのはまことに結構だと思うのですが、私はこういう質問には全然お答えにならぬ方がよいと思います。これらの質問はただ一定の方向において宣伝するためだけに提出されるのだからです!
ゲッべルス 私がディミトロフの質問に答えるのはただかれや外国新聞に、私が質問に答えるのを回避し、質問を抑えたなどという機会を与えないために過ぎない。このちっぽけな共産主義煽動家などは私の眼中にはないのです。私は他の人たちの前に話をしたり回答したりしているのです。
ディミトロフ これらの質問はみな、私にたいする政治的告発と関係しています。私の原告は、国会議事堂の放火を手始めにドイツ憲法を暴力的に改変する手筈であったと主張しています。そこでお尋ねする、一月三十日〔ナチス・ヒットラー内閣が成立した日〕と二月二十七日とにはドイツでどんな憲法が行われていたのか?
ゲッべルス ワイマールの憲法が行われていた。この憲法がよいか悪いかは、どちらでもよいことである。しかし、それは合法的なものであった。そしてわれわれはそれを承認していた、その改正を共産主義者に委せておこうなどとは思わなかった、それを自分に留保しておいたのである。私はこれまでに企てられた改正はまだ不十分だと思っている。
ディミトロフ それは、貴下がドイツ憲法を尊重しておられない証拠です。
裁判長 (叫ぶ)憲法問題はおやめなさい!
ディミトロフ 大臣、オーストリアやチェッコスロヴァキアではあなたの同志、ナチスが非合法にも活動せねばならず、非合法な宣伝もせねばならず、また暗号アドレスや暗号通信で活動せねばならぬ状態におかれている、あなたはそれを知っておられるか!
ゲッべルス 君はナチスの運動にけちをつけようと思っているようである。私は君にショペンハウエルの言葉でお答えしよう、「人は誰でも外見で判断できるものだけの値打ちはあるが、その言葉で判断できるものだけの値打ちはないものだ。」
ディミトロフ 私は証拠を申請しているのです。武装暴動の序幕としての国会議事堂放火という命題は、ゲーリングやゲッベルスの証言と関係づけられねばなりません……
裁判長 その申請は文書で提出しなさい。
ディミトロフ 刑事訴訟法には、それは口頭でもできることになっています。
裁判長 違います。これでもうゲッベルス大臣の訊問は終りにせねばなりません。
ディミトロフ 私は証拠申請で……
裁判長 ここで証拠申請の内容を述べるのを禁じます。大審院は君の申請書に裁決を下すでしょう。

*このブログの人気記事 2015・10・30(なぜか福沢諭吉が急浮上)

 

 

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宮崎民蔵の「土地の歌」

2015-10-29 06:54:23 | コラムと名言

◎宮崎民蔵の「土地の歌」

 昨日の続きである。昨日、絲屋寿雄編の『宮崎民蔵 土地均享 人類の大権』(実業之日本社、一九四八)という本を紹介した。この本は、その冒頭に、「明治の土地問題―宮崎民蔵の土地復権運動を中心に―」という解説(執筆・絲屋寿雄)が置かれている。この解説は、五九ページわたる周到なものであるが、同書の眼目は、あくまでも、宮崎民蔵の原著『土地均享 人類の大権』(新進書局、一九〇六)を復刻するとともに、宮崎民蔵の手稿、日誌、書簡などの資料を公開したところにある。
 本日は、それら資料のうち、「土地の歌」と題する数え歌を紹介してみたい(二〇〇~二〇二ページ)。

 七、土 地 の 歌
一ツとせ
 こじきもかねもちも
  人にかわりのあるものか
二ツとせ
 ふたゝびかへらぬ此娑婆を
  泣てくらさにやなならんとは
三ツとせ
 みづのみ百姓も此土地〔を〕
  得ればめでたき自由民
四ツとせ
 喜びいさんではたらいて
  つまもこどもゝ笑顔【わらひがほ】
五ツとせ
 幾千万の泣く人の
  涙ぬぐへや我友【わがとも】よ
六ツとせ
 無理な年貢をむさぼりて
  遊んでくらす大地主【おほぢぬし】
七ツとせ
 なんぞも此土地かへさねば
  浮【うか】む瀬のなき小作人
八ツとせ.
 八ツに此身はさかるとも
  正しき道をあゆめかし
九ツとせ
 こゝでふんべつしないなら
  憂世はあわれや闇の中
十とせ
 とをとを土地をとりかやし
  此世ながらの極楽土

*このブログの人気記事 2015・10・29

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城泉太郎の土地共有論(1891)

2015-10-28 05:46:44 | コラムと名言

◎城泉太郎の土地共有論(1891)

 昨日の続きである。その後、明治中期の土地国有論について、少し調べてみたが、伊藤博文の周囲にいて、土地国有論を唱えた「某氏」は、まだ確定できない。
 しかし、同時代の日本において、樽井藤吉〈タルイ・トウキチ〉、大井憲太郎、城泉太郎〈ジョウ・センタロウ〉、宮崎民蔵〈タミゾウ〉といった人々が、「土地共有論」を主張、あるいは紹介していたことはわかった。
 以下は、絲屋寿雄〈イトヤ・トシオ〉編『宮崎民蔵 土地均享 人類の大権』(実業之日本社、一九四八)の冒頭に置かれている「明治の土地問題―宮崎民蔵の土地復権運動を中心に―」という文章(執筆・絲屋寿雄)の一部である。宮崎民蔵(一八六五~一九二八)は、明治・大正期の社会運動家で、孫文の支援者として知られる。滔天〈トウテン〉・宮崎寅蔵(一八七一~一九二二)は、その弟にあたる。

 二、民蔵の思想的道程
 さて、民磯の思想的道程に就ての研究に移ろう。
『土地共有』の思想の最初の日本移入とも思われるものはスペンサー氏著、松島剛訳の『社会平権論』(ソシアルスタチツクス)明治十四年〔一八八一〕発行で、『土地と万物とは万人の共有なり。』『各人他人の同自由を妨げずんば土地を使用する事自由なり、然るに之を禁ずるものは同等自由の法則に悖れり〈モトレリ〉』『土地を似て私有となすときは、地主の外は皆な地主の允許によりて地上に棲息する事を得るものにして、即ち白嚼に外ならざればなり。』と論じて居り(同書第九章『土地使用の権利』)、明治十五年〔一八八二〕九州肥前島原で結党式を挙げた樽井藤吉等の東洋社会党の行動綱領に『天物共有』とあるのは、前記スペンサー氏の土地共有論の主張を更に拡めたもので、土地の中に含まれた、鉱物、河川、森林等々凡ての自然物を総称する『天物』なる語を書経から援用して間に合したと当時の一人武富時敏氏は語つている(田中惣五郎氏『東洋社会党論考』一四四頁以下)。
 自由党左派の秀れた経済理論家大井憲太郎は『耕地の平均再分配』を提唱した先覚の一人である。彼の著『時事要論』(明治十九年〔一八八六〕一月発行)の均田論に言う。
『農民一般の情態、勤労倹撲なるに拘らず、家に儋石の儲〈タンセキノモウケ〉なきもの比々〔いたるところ〕皆な然りき、勤労節倹彼れの如くして止だ殆ど凍餒を免かれざれしを見れば、即ち一に〈イツニ〉我国の税法苛きが故に、農民をして余裕なからしめたるに外ならざるを推知すべき也。
 斯く我国の農民には余得なきを以て、一朝家に不幸災厄あれば数世之を償ふ〈ツグナウ〉こと能はず。三代若くは四五代前に典質となりし田地を耕し、名は自己の所有地たれども、実は小作人なるものあり、又数代前より全く他人の地所を借り耕して生活をなすものあり、直言すれば我〈ワガ〉農氏は概して数代前より窮乏なりしものなり……我農民中大農即ち相応の資産あるものは十の一にも足らず、十中の二三は中農にして其他は窮民の名を下すべきものなり、則〈スナワチ〉怠惰致貧とのみ評するは失当なり、今の貧民は大抵世襲の窮乏者なり、故によしや怠惰にあらずと雖も〈イエドモ〉素より余得の道無きの貧民、数世の間必ずや疾病其他の災厄に由りて、流離顛墜其窮困に陥ること無からんを欲すと雖も得べからざるなり。』
 以上の如き弊害を一掃するために、彼は土地の均分を主張するのである。
『此時に方り〈アタリ〉、一時窮民救助法を行はんか、一時の救助は以て斯く〈カク〉多数の窮民を抔ひ、恒産を得せしむるに足らず、国力も亦堪へ難きを奈何〈イカン〉せん、此に〈ココニ〉於て多数の人民に恒産を得せしめんには、他に方法を覓めざるべからず、乃ち毎戸平均に耕地を保有せしめ、典売を禁じて永世の資産と為さしめ、以て困苦に沈淪せしめざるの堤防と為すを良策とす。』
 明治二十四年〔一八九一〕発行の城泉太郎編述『賦税全廃、済世危言』はヘンリー・ジヨージの単税論を敷衍〈フエン〉したものであるが、その第十四章『土地共有賦税全廃論』に於ては『近世文明の大欠点たる貧富の不平均は土地私有の制度に原因する』ものであるから『此制度を廃棄して天下の土地を悉く共有物となさゞる可からず。』と云い、併し乍ら『現社会の組織を其侭〈ソノママ〉に保存して. 而して土地共有の実を挙ぐるの途』は『地租の外一切の課税を廃する事是なり』と述べ、『製造品に課税するときは其結果たるや、製造を停圧し、改良事業に課税するときば、商業を妨害し、資本に課税するときは、資本を外国に駆逐す。而れども之に反して土地を課税するときは、其結果たるや一般の事業を奨励し、資本に融通の途〈ミチ〉を与へ、財貨の産出を盛大ならしむるや必せり。」と資本家的自由主義の立場から単税論を主張している。
 ヘンリー・ジョージは一八三九年米国フィラデルフィヤ生れの社会運動家で「進歩と貧窮」(Progress and Poverty)「土地問題」(The Irish Land Question 1881)その他の著書がある。彼の主張によれば、土地は個人の独占すべきものにあらず、天賦権として全人民の共有財産たるべきものであり、したがつて地代は万人が平等に享受すべきものである。しかるに、土地を他人が独占せるがゆえに分配の不公平が生じ、富者は益々富み、貧困者は益々貧困に陥るのであるから、土地以外の一切の課税を廃して、土地にのみ課税する単税論を施行して土地共有を実現すべし、と主張するのである。
 以上の諸説が民蔵の『土地均享主義』の形成に多くの啓示を与えた事は、事実上否めないが特に彼に思想的影響以外、諸種の便宜と助力を惜しまなかつた人は東京築地の宣教師でへンリー・ジョージの流れを汲む単税主義者C・E・ガルストであつた。彼の手記『百姓の使者長州の会合』(明治三十九年稿)に頼りつゝ此間の事情を知つて置くことは無意味でない。

◎礫川ブログへのアクセス・歴代ベスト30(2015・10・27現在)

1位 14年7月18日 古事記真福寺本の上巻は四十四丁        
2位 15年2月25日 映画『虎の尾を踏む男達』(1945)と東京裁判 
3位 15年8月5日 ワイマール憲法を崩壊させた第48条
4位 15年2月26日 『虎の尾を踏む男達』は、敗戦直後に着想された
5位 13年4月29日 かつてない悪条件の戦争をなぜ始めたか     
6位 13年2月26日 新書判でない岩波新書『日本精神と平和国家』 
7位 15年8月6日 「親独派」木戸幸一のナチス・ドイツ論
8位 15年8月15日 捨つべき命を拾はれたといふ感じでした
9位 15年3月1日  呉清源と下中彌三郎
10位 14年1月20日 エンソ・オドミ・シロムク・チンカラ     

11位 13年8月15日 野口英世伝とそれに関わるキーワード     
12位 15年8月9日 映画『ヒトラー』(2004)を観て印象に残ったこと
13位 13年8月1日  麻生財務相のいう「ナチス憲法」とは何か   
14位 15年2月20日 原田実氏の『江戸しぐさの正体』を読んで
15位 13年2月27日 覚醒して苦しむ理性       
16位 15年8月3日 ストゥカルト(Stuckart)、ナチスの「憲法原理」を語る
17位 15年8月13日 金子頼久氏評『維新正観』(蜷川新著、批評社)
18位 15年2月27日 エノケンは、義経・弁慶に追いつけたのか 
19位 15年7月2日 井上日召、検事正室に出頭す(1932・3・11)
20位 15年8月12日 明治憲法は立憲主義を謳っていた

21位 15年2月28日 備仲臣道氏評『曼荼羅国神不敬事件の真相』
22位 15年3月4日  「仏教者の戦争責任」を問い続ける柏木隆法さん
23位 14年7月19日 古事記真福寺本の中巻は五十丁        
24位 15年8月2日 ケルロイター教授、政治指導と軍事指導の一致を説く
25位 15年9月7日 松川事件、現場に停車した一台のトラック
26位 15年1月8日  伊藤昭久さん、田村治芳さん、松岡正剛さん
27位 14年8月15日 煩を厭ひてすべてはしるさず(滝沢馬琴)   
28位 15年8月11日 総統、あなたはアーリア系ですか(1945・4・29)
29位 15年8月17日 大谷美隆「ナチス憲法の特質」(1941)を読む
30位 14年2月1日  敗戦と火工廠多摩火薬製造所         

次 点 15年8月23日 「ナチス憲法」という用語のルーツ

*このブログの人気記事 2015・10・28

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明治中期の土地国有論

2015-10-27 11:41:39 | コラムと名言

◎明治中期の土地国有論

 昨日、ふと、小野武夫の『地租改正史論』(大八洲出版株式会社、一九四八)を手にしたところ、明治中期の「土地国有論」に触れた箇所があった。しかも、この「土地国有論」は、伊藤博文の周囲の人「某氏」によって提出されたものだという。
 この「某氏」が誰なのか気になるが、今のところ、判断がつかない。博雅のご教示を乞う。以下は、前掲書の第一二章の全文(二三四~二三八ページ)。

 第十二章 明治中期に於ける「第二維新」の提出と土地国有論
 第二次地租改正後に至り興味ある議論の一つとして、「第二維新」の決行を慫慂して土地国有を勧むる者が出現した。蓋し第一次地租改正を終へた明治十四、五年頃は民権自由主義思想の激発期であつて、封建制度を送りたる後の日本社会は農村の地主乃至都市の資産家を背景として、自由民権論が盛んに唱へられてゐた。尤も当時思想界にはルソーの民約論などが輸入せられて社会主義思想が一部人士により唱へられてゐたけれども、土地国有の実現性など到底考へられなく、実際明治維新と共に一躍社会の表面に現はれたる資本家の政治力乃至経済力が支配的勢力を占めてゐたのであつた。蓋し資本主義躍進期たる明治前期の地租改正論に因みて〈チナミテ〉社会思想の一面として土地国有論の唱へられたことは注目に値する。
 明治二十三年〔一八九〇〕頃、伊藤博文の周囲の人某氏は土地国有を断行して、これを人民に貸与して借区税を徴し、之により一方に於て財政収入の増大を図ると共に、他方に於て小作人の生活を高めようと立案した。其の原本(明治二十二年に書かれた)「富国済貧方議」といふのが秘書類纂財政資料(下巻、三四四以下)に収められてゐる。それによると、『国庫ノ歳入金一億若千万円ヲ増加シ兼テ細民ノ負担ノ額殆ンド十ノ三四ヲ減免シ、其窮ヲ救フニ在リ』と冒頭し、一方に於て『将来国勢ヲ拡張シ、国力ヲ培養シ、富有ノ大業日新ノ盛徳ヲ成就スルノ期』は、明治の第二維新たる今日にあり、而もそれには国庫の充実を此際必要とする旨を説き、他方に於て『民間ノ実況ハ則チ民業萎靡〈イビ〉シテ振ハズ、細民ノ困窮一年ハ一年ヨリ其多数ヲ告グ、富民モ亦其影響ヲ免ルル能ハザルナリ』といふ事情を指摘し、このジレンマを如何にして解く可きかと云ふ問題を堤出ずると共に、此の解答として、『第二維新ノ組織』なるものを案出し、土地国有論を唱へてゐるのである。それには先づ、金額十六億円の地価公債証書を発布し、平均三歩の年利を附し、土地所有者に交附し土地を政府に収用する。政府はかくて収用せる土地に借区税を課し、民用土地現反別一千三百十六万五千九百三十八町歩に対し毎年金一億四千五百十九万四千四百二十九円四十銭の借区税を徴収する。それには、田に対して一反歩に付平均四円を課する。これは田地一反歩の収穫平均米二石、一石の価格金五円として、十分の四の率となる。これは一般の小作料が平均一石以上であるのに比較して甚だ低いと言はねばならぬ。畑は一反歩につき平均一円二十五銭を課する。此の場合、桑畑は我国第一の輸出品たる生糸の生産を奨励する意味なら半額の六十二銭五厘とする。宅地は一反歩平均五十円とし、塩田は一反歩平均三円五十銭、鉱泉地は一反歩四百円、池沼山林は一反歩平均五銭、山野原林は一反歩平均三銭、雑種地は一反歩平均五十銭とする。而して国家から土地を借り受ける権利ある者は、次の如き者に限定せられる。『第一、実際小作ノ労力三年以上ヲ経、時効アルモノ。第二、地価所有者ノ自家直接ニ之ヲ使用シ来リシモノ。第三、現在建造物ノ所有者。第四、其面積ニ対シ開墾発掘等ノ成績ヲ存スルモノ、又ハ動植物ノ生殖ヲ目的トシ多少ノ資本運用ヲ托セシモノ、其他一般産業ノ必要ニ関シ其使用ヲ恃ミタルモノ等之ニ類推ス。』以上の方法を実施すれば、現在の地租四千二百二十四万八千九百八十一円二十四銭九厘に比較して、一億二百九十四万五千四百四十八円十五銭一厘の収入増加となる。又他方に於て、小作人は従来の小作料に比較して十分の三、四を軽減されるであらう。かくて、『国庫富マザル可カラズ、貧民救ハザル可カラズ』との両目的を同時に達成し得ると云ふのである。併し以上の案については異論があらう。その第一は所有権を犯すことにより憲法に抵触しないかといふことである。併し、この場合、土地を無償で取上げるのではな公債を交付するのであるから、それは唯『名称ヲ変換』するにすぎない。第二に暴動が起きる虞〈オソレ〉があると思ふ人があるかも知れない。併し此の場合変革の対象となるのは少数の富民であるから、竹槍蓆旗〈ムシロバタ〉の危険はない。恰も〈アタカモ〉旧三百諸侯に公債を与へて土地人民を収用せると同一である。第三に、滞納の恐れなきに非ずと言ふかも知れない。併し本案では国庫収入増収となり、余裕が生ずるのあるから、かゝることを憂ふるに及ばない。のみならず、本案にして実施せられんか、次の如き積極的利益がある。第一に、小作人は小作料納入の煩琑〈ハンサ〉な手続を省かれ、小作人自ら精良なる米を造らんと努力し、土地を肥沃ならしめんと努力するに至るであらう。第二に、各地殖産興業の希望を有する者多きも、彼等は流動資本の欠乏に悩んでゐる。此際地主が土地の代りに公債証書を手にすることから、金融容易なる上に利子も低いから、此の点も彼等に利する所あるのであらう。かく小作人も地主も利するのである。
 以上は伊藤博文を取り巻く人々の中〈ウチ〉筆者不明某氏が、中央政府の一人として上局に具申した上地国有論の梗概であるが、此の筆者の立場の趣旨は土地を国有にして、財政収入の確保を図ると共に、小作人の生活を安定せんとするに在る。即ち土地を国有に移し、全国を若干の課税区に分ち、各区に対して使用料を課せんとするのである。此の使用料が国庫収入を賑やかにし、且つ又農村小作人を個人地主の誅求から救ふことが出来ると云ふのである。尚此の筆者は不動産たる土地が公債なる流動資本となりて、地主の手に入れば、地主は此の公債を各方面の新興産業に転換して商工業の発達を助くることになるであらうと説いてゐる。其の議論の是非は別として、当時駿々として発達の途に就いてゐた農村資本主義制度の動向の半面を指摘してゐると見れば興味が深いのである。

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