礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

丸銀の極印のある日本の一円銀貨

2019-06-30 02:54:48 | コラムと名言

◎丸銀の極印のある日本の一円銀貨

 本年五月一一日に「朝鮮政府、一圜銀貨・十文銅貨・五文銅貨を鋳造(1891)」というコラムを書いた。そこでは、土屋喬雄著『渋沢栄一伝』(改造社、一九三一)から、「朝鮮に於ける渋沢栄一」という文章の一部を紹介した。たとえば、次のような文章である。

 朝鮮には古来本位貨幣なく葉銭【えふせん】と称する数種の銅銭と真鍮銭【しんちうせん】とが流通するのみで、後【のち】当百銭、当伍銭等鋳造せられたが、何れも粗悪、幣制紊乱【びんらん】、貨幣の信用地に墜ち、物価の騰貴、貿易の不便甚しかつた。我国との諸関係密となるに従つてその不便は痛切に感ぜられたので、我国の指導下に朝鮮政府をして二四年〔一八九一〕我が幣制に做ひ一圜【けん】銀貨、十文【もん】、五文銅貨を鋳造せしめ、更に二十七年〔一八九四〕八月日清戦役中新式貨幣発行章程を発布し新貨幣制度を制定せしめた。

 この記述は、『日本貨幣カタログ 1997年版』(日本貨幣商協同組合、一九九六)のデータとは矛盾する。『日本貨幣カタログ』には、図版やデータが載っているので、こちらを信用することにすると、土屋喬雄の「二四年我が幣制に做ひ一圜銀貨、十文、五文銅貨を鋳造せしめ」とあるところの「二四年」(明治二四年=一八九一)は、「二一年」(明治二一年=一八八八)と訂正されなくてはならない。とりあえず、五月一一日のコラムのタイトルから、(1891)を削ることにしたい。
 なお、「一圜」の「圜」には、【けん】という原ルビがあったが、これも正確とは言えない。むしろ、【えん】がよいのではないか。
 
 土屋喬雄は、先ほど、引用した文章に続けて、次のように述べている。

 この制度は銀貨本位制をとり、銀五両、一両の二種の外【ほか】白銅貨、銅貨及び黄銅貨【おうどうくわ】等発行せられたが、間もなく発行利益の多かつた白銅貨のみ濫発せらるゝ様になり、又公鋳の外特許料を納めて私鋳を許可し、遂に官製の刻印を貸下げた官吏さへあつて偽造貨頗る多く、外国殊に我が大阪近傍その他岡山等の地で鋳造されて盛んに輸入せられたので、白銅貨の本位貨幣に対する相場は暴落するに至つた。

 ここでいう「銀五両、一両の二種の外白銅貨、銅貨及び黄銅貨」とは、一八九二年(明治二五)以降に発行された、五両銀貨、一両銀貨、二銭五分白銅貨、五分銅貨、一分黄銅貨を指している。二銭五分白銅貨の「私鋳」があった事実は、『日本貨幣カタログ』には記載されていない。

 土屋は、さらに、次のように述べている。
 
 かゝる有様の下にあつては、新式貨幣発行章程第七条の「新式貨幣が多額に鋳造せらるゝまでは暫く外国貨幣を混用するを得【う】」といふ規定に拠つて韓国法貨たるの効果を有してゐた我が一円銀貨の流通高が激増したのは当然であつた。然るに我が国は明治三十年〔一八九七〕十月一日より金貨本位制となり一円銀貨は当然朝鮮市場よりも回収せられねばならなかつたが、かくては粗悪なる韓銭を愈々跋扈【ばつこ】せしめ、我国貿易にとって不利益甚しいので、第一銀行は三十年八月「朝鮮国幣制私議」なる意見書を日本銀行に提出し、一円銀貨に刻印を捺して従前通り韓国貿易市場に通用せしむべきことを論じ、仁川釜山の日本人商業会議所又同様の意見を上申したので、遂に日本銀行、政府、並びに韓国を動かして貿易業者のために何等の不利益を蒙らしむることなきを得た。

 ここにある「刻印を捺して」通用させた一円銀貨とは、『日本貨幣カタログ 1997年版』の一五ページにある「新一円銀貨(小型)丸銀打」のことであろう。このカタログでは、「刻印」という言葉を使わず、「極印」(ごくいん)と言っている。図版によれば、○に銀の極印で、オモテ面の「一円」という文字の右または左に打たれている。「新一円銀貨(小型)丸銀打」のデータ等の紹介は割愛する。

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朝鮮の半圜銀貨(大型・小型)・二十銭銀貨(大型・小型)

2019-06-29 01:04:52 | コラムと名言

◎朝鮮の半圜銀貨(大型・小型)・二十銭銀貨(大型・小型)

『日本貨幣カタログ 1997年版』(日本貨幣商協同組合、一九九六)から、「朝鮮貨幣類」のところを紹介している。本日は、二六四ページにある半圜銀貨(大型・小型)、二十銭銀貨(大型・小型)の計四種を紹介する。
 図版は、いずれも、オモテ・ウラ両面。
 データによれば、半圜銀貨(大型)は、「光武九年」=一九〇五年(明治三八)、「光武十年」=一九〇六年(明治三九)の二か年にわたって発行されている。発行枚数は、それぞれ、六〇万枚、一二〇万枚。半圜銀貨(小型)は、「光武十一年」=一九〇七年(明治四〇)、「隆熙二年」=一九〇八年(明治四一)の二か年にわたって発行されている。発行枚数は、それぞれ、一〇〇万枚、一四〇万枚。
 二十銭銀貨(大型)は、「光武九年」=一九〇五年(明治三八)、「光武十年」=一九〇六年(明治三九)の二か年にわたって発行されている。発行枚数は、それぞれ、一〇〇万枚、二五〇万枚。二十銭銀貨(小型)は、「光武十一年」=一九〇七年(明治四〇)、「隆熙二年」=一九〇八年(明治四一)、「隆熙三年」=一九〇九年(明治四二)、「隆熙四年」=一九一〇年(明治四三)の四か年にわたって発行されている。発行枚数は、それぞれ、一〇〇万枚、二五〇万枚。
「隆熙二年」=一九〇八年(明治四一)、および「隆熙三年」=一九〇九年(明治四二)の三年にわたって発行されている。発行枚数は、それぞれ、一五〇万枚、三〇〇万枚、二〇〇万枚、二〇〇万枚。
 造幣廠は、いずれも大阪造幣局である。
 図版を見ると、四種とも、ウラ面には龍の図があり、そのまわりに、次のような文字がある。漢字およびハングルは、いずれも右書き。

半圜銀貨(大型)  「大韓・光武十年・□□・HALF WANG・」
半圜銀貨(小型)  「大韓・隆熙二年・□□・HALF WANG・」
二十銭銀貨(大型) 「大韓・光武九年・□□□・20 CHON・」
二十銭銀貨(小型) 「大韓・光武十一年・□□□・20 CHON・」

 □□、□□□は、いずれもハングル。半圜銀貨(大型・小型)には、「半圜」を示すハングル(ローマ字表記では、pan-ueon)、二十銭銀貨(大型・小型)には、「二十銭」を示すハングル(ローマ字表記では、i-sip-chon)がある。

※昨日のコラム「朝鮮の二十圜金貨・十圜金貨・五圜金貨」の最後で、次のように書いた。

 二十圜金貨に、「十圜」を示すハングルがあることはありえず、「二十圜」の三文字のハングル(ローマ字表記では、i-sip-ueon)でなくてはならない。おそらく、『日本貨幣カタログ 1997年版』の編集者が、図版を取り違えたのではないだろうか。

 その後、二十圜金貨の図版をよく観察してみたところ、おかしいのは、むしろ「オモテ面」である。「二十圜」という漢字三文字(タテ書き)の配列が不自然である。「二十圜金貨」の図版が入手できなかったので、「十圜金貨」の図版を拡大して、「十」のところを「二十」に書き直したのではないか、「ウラ面」のハングルまでは直さなかった(直せなかった)ので、こういうことになったのではないか、という疑念を抱いた。この点を、補足しておきたい。ちなみに、「二十圜金貨」の時価は、このカタログが発行された時点では、一八〇万円から七五〇万円。かなりの珍品らしい。

*このブログの人気記事 2019・6・29(10位の森友学園は久しぶり)

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朝鮮の二十圜金貨・十圜金貨・五圜金貨

2019-06-28 03:14:07 | コラムと名言

◎朝鮮の二十圜金貨・十圜金貨・五圜金貨

『日本貨幣カタログ 1997年版』(日本貨幣商協同組合、一九九六)から、「朝鮮貨幣類」のところを紹介している。本日は、二六三ページにある二十圜金貨、十圜金貨、五圜金貨の三種を紹介する。
 図版は、いずれも、オモテ・ウラ両面。データによれば、二十圜金貨は、「光武十年」=一九〇六年(明治三九)、「隆熙二年」=一九〇八年(明治四一)、および「隆熙三年」=一九〇九年(明治四二)の三か年にわたって発行されている。発行枚数は、それぞれ、二五〇〇枚、四万枚、二万五〇〇〇枚。
 十圜金貨は、「光武十年」=一九〇六年(明治三九)のみの発行、発行枚数は、五万枚。五圜金貨は、「隆熙二年」=一九〇八年(明治四一)のみの発行、発行枚数は、一万枚である。
 造幣廠は、三種とも大阪造幣局である。
 図版を見ると、ウラ面には龍の図があり、そのまわりに、次のような文字がある。漢字およびハングルは、いずれも右書き。

二十圜金貨   「大韓・光武十年・□□・」
十圜金貨    「大韓・光武十年・□□・」
五圜金貨    「大韓・隆熙二年・□□・」

 □□は、いずれもハングル。二十圜金貨には、なぜか「十圜」を示すハングル(ローマ字表記では、sip-ueon)、十圜金貨には、「十圜」を示すハングル(ローマ字表記では、sip-ueon o-chon)、そして五圜金貨には、「五圜」を示すハングル(ローマ字表記では、o-ueon )がある。
 二十圜金貨に、「十圜」を示すハングルがあることはありえず、「二十圜」の三文字のハングル(ローマ字表記では、i-sip-ueon)でなくてはならない。おそらく、『日本貨幣カタログ 1997年版』の編集者が、図版を取り違えたのではないだろうか。

*このブログの人気記事 2019・6・28

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朝鮮の鷲半圜銀貨・鷲五銭白銅貨・鷲一銭銅貨

2019-06-27 05:37:47 | コラムと名言

◎朝鮮の鷲半圜銀貨・鷲五銭白銅貨・鷲一銭銅貨

『日本貨幣カタログ 1997年版』(日本貨幣商協同組合、一九九六)から、「朝鮮貨幣類」のところを紹介している。本日は、二六二~二六三ページにある鷲半圜銀貨、鷲五銭白銅貨、鷲一銭銅貨の三種を紹介する。
 図版は、いずれも、オモテ・ウラ両面。データによれば、鷲半圜銀貨は、「光武五年」=一九〇一年(明治四三)に発行されている。鷲五銭白銅貨、および鷲一銭銅貨は、「光武六年」=一九〇二年(明治三五)に発行されている。三種とも、その年のみの発行である。造幣廠は、いずれも龍山典圜局、発行枚数は、いずれも「不明」。
 図版を見ると、三種とも、ウラ面に羽根を広げたワシの図があり、そのまわりに、次のような文字がある。漢字およびハングルは、いずれも右書き。

半圜銀貨    「大韓・光武五年・□□・HALF WANG・」
五銭白銅貨   「大韓・光武六年・□□・5 CHON・」
一銭銅貨    「大韓・光武六年・□□・1 CHON・」

 □□は、いずれもハングル。半圜銀貨には、「半圜」を示すハングル(ローマ字表記では、pan-ueon)、五銭白銅貨には、「五銭」を示すハングル(ローマ字表記では、o-chon)、そして一銭銅貨には、「一銭」を示すハングル(ローマ字表記では、il-chon)がある。

*このブログの人気記事 2019・6・27(8位の小平事件は久しぶり)

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朝鮮の二銭五分白銅貨・五分銅貨・一分黄銅貨

2019-06-26 03:13:34 | コラムと名言

◎朝鮮の二銭五分白銅貨・五分銅貨・一分黄銅貨

『日本貨幣カタログ 1997年版』(日本貨幣商協同組合、一九九六)から、「朝鮮貨幣類」のところを紹介している。本日は、二六一~二六二ページにある二銭五分白銅貨、五分銅貨、一分黄銅貨の三種を紹介する。
 図版は、いずれも、オモテ・ウラ両面。データによれば、これら三種の貨幣は、いずれも、「開国四五百一年」=一八九二年(明治二五)に初めて発行されている。二銭五分白銅貨が最後に発行されたのは、「光武五年」=一九〇一年(明治三四)、五銭銅貨が最後に発行されたのは、「光武六年」=一九〇二年(明治三五)、一分黄銅貨が最後に発行されたのは、「開国五百五年」=一八九六年(明治二九)である。
 造幣廠は、仁川典圜局、のちに龍山典圜局。ただし、一分黄銅貨は、すべて仁川典圜局。発行枚数は、記載されていない。
 図版を見ると、ウラ面に、次のような文字がある。漢字およびハングルは、いずれも右書き。

二銭五分白銅貨 「大韓・光武二年・□□□□・1/4 YANG ・」
五分銅貨    「大韓・光武六年・□□・5 FUN・」
一分黄銅貨   「開国五百一年・大朝鮮・1 FUN ・□□」

 二銭五分白銅貨のオモテ面には、「二戔/五分」とある。
 国名は、発行年によって異なっている。「大朝鮮」、「朝鮮」、または「大韓」。「光武元年」=一八九七年(明治三〇)以降は、「大韓」。
 □□□□、□□は、いずれもハングル。□□□□には、「二銭五分」を示すハングル(ローマ字表記では、tu-don-o-pun)、□□には、「五分」および「一分」を示すハングルがある(ローマ字表記では、o-pun、および、han-pun)。

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