礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

映画『ザ・インターネット』に見られる「決闘」

2017-11-30 04:28:23 | コラムと名言

◎映画『ザ・インターネット』に見られる「決闘」

 あいかわらず、山内進著『決闘裁判――ヨーロッパ法精神の原風景』(講談社現代新書、二〇〇〇)についての話題である。
 本書は、「新書」の形で出版されているが、その内容は、かなり専門的である。しかし、中世ヨーロッパの「決闘裁判」という素材自体が珍しいものなので、その珍しさに惹かれて、同書を手に取った読者も、少なくないだろう。また本書は、随所に「図版」が紹介されているが、この図版が実に興味深い。
 七七ページには、馬に乗った二人の騎士が、棍棒を振り上げて闘う姿を描いた図がある。七九ページには、鎧に身を固め、剣を手にした二人の兄弟が、四角いリングの中で決闘している図がある。これは、スイスでおこなわれた決闘裁判の図であるという。一二七ページには、鎧に身を固め、棍棒を手にした二人の騎士が、丸いリングの中で決闘している図がある。ちなみに、リングというのは、決闘裁判の舞台となる聖なる空間を指し、最初は文字通り円形であったが、いつの間にか、正方形に変わったという(一六〇ページ)。
 同書が紹介している図版の中で、最も興味深かったのは、男女間でおこなわれた決闘裁判を描いた図であった(一六九ページ)。著者によれば、男性と女性の間で決闘裁判がおこなわれたケースもあり、その場合は、男性にハンディキャップを負わせたという。この図では、男性は脇腹の高さまで掘られた穴に入っているが、女性は、自由に動きまわることができる。男性の武器は棍棒。女性は、袋に入った四ポンドないし五ポンドの石を振りまわす。
 さて、この男女間の決闘の図を見て、思い出したことがあった。それは、『ザ・インターネット』(コロンビア、一九九五)という映画、特に、その結末に近い場面である。
 主人公の女性アンジェラ・ベネット(サンドラ・ブロック)は、ある巨大組織による重大犯罪の証拠をつかんでいた。かねてアンジェラの行方を追っていた組織の一員ジャック・デブリン(ジェレミー・ノーサム)は、モスコーン・センターで開かれているコンピューター見本市で、ついにアンジェラを捕らえる。しかし、すでにアンジェラは、見本市の会場から、FBIに証拠を送信したところであった。すきを見て逃げるアンジェラ、それを追うジャック。ジャックは、消音器つきのピストルを持っている。モスコーン・センター内の倉庫を逃げまわっているうち、アンジェラは、CATWALKと書かれた扉を見つけ、それをあける。その先は、大きな吹き抜けに張りめぐらされている空中廊下であった。その廊下を走るアンジェラ。それを追いかけるジャック。隠れてジャックをかわしたアンジェラは、CATWALKと書かれた扉のところまで戻る。
 それに気づいたジャックが、扉のところまで追って来ると、そこには、アンジェラが立ちはだかっていた。ズボンにはさんだピストルを手にしようとするジャック。そのとき、アンジェラの一撃がジャックを襲う。何とアンジェラは、後ろ手に隠していた消火器を振りまわし、ジャックの顔面を痛打したのであった。続いて二発目、ジャックは消火器もろとも、空中廊下から落下してゆく。下で即死しているジャックの姿が映し出される。
 まさにこれは、男女間の決闘ではないのか。決闘ではあるが、最初、武器を持っているのはジャックのみで、アンジェラは、何らの武器も持っていない。しかし、アンジェラが消火器という武器を手にしたことで、「決闘」が成立することになる。ジャックは、ハンディキャップを負っていないが、アンジェラが武器を持っていることに気づいていないことが、ハンディキャップと言えるか。
 アンジェラは、この決闘に勝利したことで、「正義」の側に立った。一方、この決闘に敗れたジャック、あるいはジャックが属していた組織は、「悪」の側に立つことになったのである。

*このブログの人気記事 2017・11・30

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集団的紛争を神聖な個人戦に転化させた決闘裁判

2017-11-29 01:00:46 | コラムと名言

◎集団的紛争を神聖な個人戦に転化させた決闘裁判

 昨日の続きである。昨日は、『決闘裁判――ヨーロッパ法精神の原風景』(講談社現代新書、二〇〇〇)で、山内進氏が説いている内容を正確に紹介すべきところ、つい、話が脇道に入ってしまった。
 本日は、同書から、その記述を、そのまま、引用してみたいと思う。以下は、同書一七四~一七七ページからの引用である。

 決闘裁判は、中世ヨーロッパという広い時空間の中で存在した。時期と地域によつて、その内容や形式はしばしば異なつている。したがって、ここまで書き記してきたことがいつでもどこにでもそのまま当てはまる、とは残念ながらとてもいえない。だが、その基本的なあり方はほぼ理解していただけたことと思う。
 ここで明らかになったように、決闘裁判は暴力的ではあるが、紛争を解決するための裁判手続きだった。もともと一般的だったのは宣誓だが、偽誓が多いので重要な案件では避けざるをえなかった。そもそも宣誓では紛争が解決しないことが多かったのかもしれない。たとえば、サン・ジェルマンのエモワンの伝えるところによると、シルペリク一世の治世下で、夫に疑いをかけられた妻が、サン・デニスの聖壇にかけて、無実を固く信じていたその親族の者たちと一緒に雪冤〈セツエン〉宣誓を行ったことがあった。ところが、これに納得できなかった夫は、彼らを偽誓者と非難した。双方の怒りは頂点に、戦いが始まった。その結果、神聖で由緒正しい教会は血で汚されてしまった、という。親族同士の集団的な流血騒ぎよりも、一対一の決闘の方がよほど平和的である。
【中略】
 決闘は、神判だが、暴力的世界、そういって悪ければ実力主義の世界における独特の紛争解決法だった。暴力に走りがちな当事者またはその関係者を裁判の場で個別的に戦わせることを通じて、彼らを納得させることを目的とした。それがしばしば神判として意識されたのは、やはり時代の意識、感性のなせる業〈ワザ〉であろう。また、神判とすることで、結果への服従を容易にする効果を持ったにちがいない。神の裁きに異を唱えることは不敬だからである。公権力が未成熟で、裁判と判決の執行を単独でまかないきれない段階にあっては、これは必要な道具立てだった。
 決闘裁判は、紛争を自力で解決するための神聖で公的な、一対一の戦いであった。矛盾といえば矛盾だが、明快といえば明快である。武力と暴力が跋扈【ばつこ】し、これを抑えきる公権力はいまだに生成途上であった。皇帝の権力も国王の権力も、武力で諸侯や騎士、市民を支配できなかった。紛争は自力で解決されがちであった。自力救済としての集団的実力行使のための私戦をフェーデという。大規模なフェーデが戦争であり、騎士たちはフェーデと戦争に明け暮れていた。
 この集団的争いを裁判の中に閉じ込め、神聖で公的な個人戦に転化させ、自力救済を復讐の連鎖から断ちきろうとするのが決闘裁判だった。【以下、略】

 日本の法制には、中世ヨーロッパの「決闘裁判」に相当するものは、なかったように思う。であれば、すぐに思いつくのは、「喧嘩両成敗」あるいは「敵討」といった日本独自の法制を、中世ヨーロッパの「決闘裁判」と比較してみるということである。そうした日本独自の法制の意味や本質は、中世ヨーロッパの決闘裁判と比較することによって、見えてくるところがあるのではないか。もちろんすでに、そういった問題について考察されている研究者がおられるはずではあるが。【この話、続く】

 
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山内進著『決闘裁判』(2000)を読む

2017-11-28 08:16:28 | コラムと名言

◎山内進著『決闘裁判』(2000)を読む

 最近、読んだ本で、ひときわ印象的だったのは、山内進氏の『決闘裁判――ヨーロッパ法精神の原風景』(講談社現代新書、二〇〇〇)であった。こういう示唆に富む名著に気づくのが遅くなったことを悔やんだ。
 この本で言う「決闘裁判」とは、一対一の「決闘」という形で決着がつけられる「裁判」である。それは、中世ヨーロッパで採用された裁判の一態様であり、「神の裁き」という性格を持っていた。著者によれば、「神の裁き」とは、神前において、「生死を賭する戦い」によって、訴えの当否を決定する裁判である(一〇ページ)。
 この本は、きわめて専門的な内容の本であって、「新書」が求めているであろう通俗性には、やや欠けるところがある。しかし、私はこれを、きわめて通俗的に読んだ。すなわち、中世ヨーロッパにおいては、「正義」というのは、客観的なものではなく、戦いに勝ったものが「正義」とされたのである。そして、この論理は、中世ヨーロッパ特有のものというより、今日においてなお、欧米世界に貫かれている論理ではないのか、と考えさせられた。
 それ以上に「通俗的」なことも思い浮かんだ。アメリカの西部劇映画には、やたら、『○○の決闘』というものが多い。それらの映画のラストシーンは、主人公とその敵対者との「決闘」である。戦いに勝った主人公が、やはり「正義」だったという結末になるのである。
 また、西部劇でなくても、映画の結末近くで、主人公とその敵対者とが、一対一の格闘にモツレコムという展開になるものが多い。映画『エアフォースワン』でも、結末に近いところで、ハリソン・フォード演ずる大統領が陰謀団のリーダーと格闘するシーンがあったと記憶する。
 アメリカ映画における、こうした「決闘」や「格闘」も、おそらくは、中世ヨーロッパの「決闘裁判」に、その起源を求めてよいのだろう。もちろん、山内進氏の著書には、そんな通俗的なことは説かれていない。

*このブログの人気記事 2017・11・28

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青木茂雄「記憶をさかのぼる」その4

2017-11-27 02:03:00 | コラムと名言

◎青木茂雄「記憶をさかのぼる」その4

 昨日に続いて本日も、青木茂雄氏の「自伝」を紹介する。「わたしの幼少期(4)」と題する文章で、「水戸と大洗」という見出しがある。
 
記憶をさかのぼる    青木茂雄
わたしの幼少期(4)

水戸と大洗
 水戸市は高台の上とその下の低地とにかけて東西に広がった市街地になっており、高台の東端に旧水戸城が位置し、そこから西側に細長く広がった市街地が上市(うわいち)であり、旧水戸城の東側の低地に広がった市街地は下市(しもいち)と呼ばれていた。旧武士の居住区はほぼ上市にあった(新屋敷は上市の西の外れに位置していた)。目抜き通りが上市を一本貫いており(国道51号線)、当時は幅10メートルにも満たない道路に、路面電車が走っていた。茨城鉄道所属で水浜(すいひん)電車と呼ばれていた。その水浜電車に乗って、家族で水戸から10数キロ離れた大洗海岸(磯浜海水浴場)へ出かけた時の印象も強いものだった。4歳か5歳くらいだったと思う。初めて出かけたその日のことは、あまりはっきりした記憶はないが、電車の中からはじめて目撃した下市の目抜き通りのことは良く憶えている。ようやく見慣れかけてきた上市とは類似しているがまったく別の世界がある、しかも角を曲がるたびにまた別の街路が登場する、次から次へとまるで回り舞台のようであった…。上市はまだまだ遠い―世界は広いのだ。
 その後、毎年夏には、大てい家族で海水浴に出かけたから、その後の記憶も混ぜて書く。梅小路の新居から歩いて15分ほどで水浜電車の停車場「砂久保町」に着く。水浜電車は単線の軌条を走行し、一駅おきに交換所を兼ねた複線式の停車場があった。そこで上り下りの電車が交換して進行する。このシステムだとポイントの切り替えが自動的に行われ、特別の転轍システムを必要としない(単線運転のため運行本数に限度があったが、きちんと10分間隔で運行された)。そういう仕組みを運転席のすぐ後ろで観察した。私は幼いながらも豆鉄道マニアだった。「砂久保町」の駅は、複線型の停車場で、もうこのあたりは路面を離れて郊外を走る電車へ、と化していた。複線の軌条の両側にプラットホームがあった。レールとそのすぐ脇にそそりたつ(かに見えた)プラットホームの並びは私の鉄道の原風景と言って良い。直線に伸びた軌条がきれいに枝分かれしていく様は本当に美しかった。私の鉄道の原風景は、小さくて鄙びてはいるが私にとっての鉄道としての要件をすべて兼ね備えていた、この「砂久保町」駅にあると思っている。この砂久保町駅から、さらに、谷中、終点の上水戸(かみみと)へと通じていた。路面電車として水戸駅前を出発し、郊外電車として終着する。この変身ぶりは幼い私の胸を踊らせるに十分であった。
 当時の水浜電車は多分どこかの市電のお下がりであろうが、外の側面も内側も木製で、架線からは棒状のポールで電源の供給を受けるという旧式なものであった。もちろん連結車両はなかった。水浜電車はその後、年を経るごとに車両が新しくなり、鋼鉄製の車両となり、やがて昭和30年代も半ば近くに入るとポールが廃止されて都電型を変形したビューゲルとなった(このあたりの年代はきちんと調べたわけではなく、単に私の記憶による)。私たちは新型車両の登場を小躍りして喜んだ。この水浜電車は、その後日本列島を襲ったモータリゼーションの荒波にもまれて、1964年ころに上水戸・水戸駅前間が廃止され、1968年ころに水戸駅前・大洗間が廃止された(これも年代は私の記憶による)。
 さて、私の幼少時の頃に話は戻る。砂久保町から電車は目抜き通りを通り抜け、水戸駅前に到着すると、そこから大洗行きに乗り換える。私は競って最前列に詰め掛けた。それは極上席であったが、それがかなわない時は窓際の席で移り行く車窓の景色に身を乗り出した。単車両で、独特の揺れ方と軽いレールの継ぎ目の音…。電車はまず、旧水戸城のあった丘の中腹まで緩やかに上り、水郡線をまたぎ、それからおもむろに方向を変えて常磐線の水戸駅構内を高架線状態で横断し、やがて降下して下市に入る。このあたりがまず最初のハイライトであった。私が最初にいぶかった下市の町並みをを通り過ぎると、「浜田」(はまだ)の車両基地の間を通り(そこには赤茶けた車輪だけが無造作レール上に並べられていたりする、ある意味で絶景でもあった)、稲穂の香る田園地帯に突入する。「谷田」(やだ)「六反田」(ろくたんだ)という田圃の中の小さな停車場を過ぎ、涸沼川(ひぬまがわ)の鉄橋を渡ると、もう大洗町だ。海岸の丘陵地帯を越えると、一気に潮の匂い。私たちはたいてい終点の大洗駅の手前の「曲松」(まがりまつ)というやや大きめの停車場で降りて、すぐ近くの「磯浜海水浴場」を目指した。砂浜はぎっしり人で埋まり、そして芋の子を洗うという状態だった。磯浜海水浴場は大きな築堤によって外海から区切られており、波が穏やかで結構遠浅だった。砂浜には海草ホンダワラの群れが大量に打ち上げられいた。現在は、この地区は大型のフェリーの発着場となっており、海水浴場は北側の大洗か南側の大貫地区が中心となっているが、私の子供のころ大洗海水浴場と言えば、この磯浜海水浴場をさしていた。
 今と違って、あのころは旅行などはごく例外的で「大きな」出来事だった。私の経験したささやかな海浜行は最初の本格的な旅行の体験であった。 (つづく)

*このブログの人気記事 2017・11・27(10位に極めて珍しいものが入っています)

 

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青木茂雄「記憶をさかのぼる」その3

2017-11-26 01:03:05 | コラムと名言

◎青木茂雄「記憶をさかのぼる」その3

 本日は、青木茂雄氏の「自伝」の続きを紹介する。「わたしの幼少期(3)」と題する文章で、「群れて遊んだ」という見出しがある。
 
記憶をさかのぼる    青木茂雄
わたしの幼少期(3)

群れて遊んだ
 私の最初の移住地水戸市の「新屋敷」(町名は梅小路)は、旧上級藩士の居住地でありながら、移り住んだ当時にはすでに新住人で蚕食されていたが、ところどころに旧藩士の子孫たちも居住していた。そこはうっそうとした屋敷森で覆われ、中にはたいてい畑地があった。いくつか残されていた屋敷地も次第に消えうせて、その最後の屋敷森も2000年代にはいると、ただの貸しアパートになって消えうせた。
 独文学者で名うての右派論客の西尾幹二も戦争末期には東京池袋から縁故疎開で、この新屋敷の花小路(はなのこうじ)に一時家族で居住していた。また、私の母校である新荘(しんそう)小学校の前身新荘国民学校にも短期間在学していた、という。(西尾幹二『わたしの昭和史 少年編』1)これも何かの奇縁ではある。
 私のいたころの新屋敷は、まだ屋敷森も多く残っており、うっそうとした緑に覆われていた。私の移り住んだ梅小路以外は爆撃に逢わなかった箇所も多く、以前の姿がそのまま残っていた。昭和20年代はまだ、全体に自動車もまばらで、この新屋敷の広い道路には自動車などは滅多に通らず、子供たちが群れて遊ぶ格好の場所となっていた。子供たちはさそいあって群れて遊んだ。やや大きくなるに従って私もさそわれていろいろと遊ぶようになったが、まだ幼すぎて私の記憶にはその内容は残っていない。遊びが「遊び」として意識されるのはもう少し大きくなってからのようである。
 私がやがて通学することになる水戸市立新荘小学校は、私の家から200メートルほど離れた場所にあった。その校門の近くに古い焼け残ったトタン屋根の平屋の建物に、ある駄菓子屋が店を開いていた。老婆がひとり店番をしているその駄菓子屋(私の家族はなぜかそこを「鳥羽僧正とばそうじょう」と呼んでいた)に、私も小遣い銭をもらって駄菓子を買いにも出かけた。たいてい1円か2円、お札か硬貨を持って買いに出た(5円は大金だった)。一円札は二宮尊徳の肖像のある粗末な紙幣だったが、五十銭硬貨はそれに比べるとはるかに立派なものだった…。私が最初に自分で物を「買った」のは多分その店でだったと思う。
 その駄菓子屋(「鳥羽僧正」)の中は薄暗く、光線の届かない隅の方の商品は一様に埃を被っていた。、商品のケースには、駄菓子(水あめや「ソース煎餅」が定番だった)の外にメンコ(当時水戸では「パース」と呼んでいた)などの遊戯具が無造作にあふれ、雑然としていた。この駄菓子屋には私が小学校に通学するようになっても、しばしば立ち寄った。べえごま、塗り絵、あぶり出し、紙製のグライダー、印影紙、それに高価なものとして「スタート・カメラ」…、何から何まであった。いつのころか、その店もなくなった。    (つづく)

*このブログの人気記事 2017・11・26(10位に珍しいものが入っています)

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