礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

一日ゆるゆる御高話拝聴つかまつりたく(金子堅太郎)

2023-01-25 03:27:43 | コラムと名言

◎一日ゆるゆる御高話拝聴つかまつりたく(金子堅太郎)

 金子堅太郎と加藤寛治の関わりの話の続きである。
『続・現代史資料 5』〔海軍 加藤寛治日記〕(みすず書房、一九九四)の「Ⅲ 書翰」を見た限りでは、加藤に宛てた金子書翰で最も古いのは、一九二九年(昭和四)一一月二八日付のものである。
 本日は、その書翰、および二番目に古い書簡を読んでみよう。

  5 金子堅太郎書翰    [昭和4年11月28日]

   無用ナル軍縮会議(十月倫敦発行/ナショナル・レヴュー誌所論)
 英米両国ハ各自所要ノ海軍力如何ヲ知悉ス。英国側ニテ米国ニ向ヒ「貴国ノ欲スル丈ケ造船セヨ。我国ニモ欲スル丈ケ造船セシメヨ。吾人ハ貴国ト対等タルコトヲ期セス。又尺度若シクハ他ノ手段ニテ相互ノ艦船ノ大小ヲ測ランコトヲ思ハス。貴国ハ我海軍ノ目指ス所ノ敵国ニアラス。吾人ハ戦争ヲ厭忌〈えんき〉スルコト貴国ニ譲ラス。吾人ハ不戦条約ヲ調印セル他諸国ニシテ之ヲ恪守〈かくしゅ〉スル限リ此ノ盟約ヲ恪守スへシ」ト言明セハ、公式非公式ノ交渉ハ之ヲ避クコトヲ得へク、此ノ辺ニテ吾人ハ米国ト相当ノ国交ヲ樹立シ得ベシ。軍縮協定ノ交渉ハ徒ラニ際限ナキ闘論ヲ誘致シ時ニ或ハ英国側ノ危険ナル譲歩ニ終ルヘキ虞ナシトセス云々。
此論は頗る興味あるものと存候間御一読被下度候。  堅太郎
 加藤大将殿
  (註)封筒表、東京市海軍省、海軍大将加藤寛治殿、急親展、スタンプ4-11-28。封筒裏、神奈川県三浦郡葉山村、子爵金子堅太郎。

  6 金子堅太郎書翰    [昭和4年12月7日]

拝啓 只今御恵贈被下候米国東洋進出策一読候。彼国の東洋政略を簡単明瞭ニ御記述相成誠ニ有益なる書類と奉深謝候。其所記は小生兼而〈かねて〉より取調候事と符合し実ニ寒心ニ不堪〈たえず〉候。就而ハ〈ついては〉一日〈いちじつ〉緩々〈ゆるゆる〉御高話拝聴仕度〈つかまつりたく〉存候間、自然〔もし〕来〈きたる〉十一日御閑暇ニ有之候得ハ〈そうらえば〉御会見仕度候。小生は当日午後一時半より三時半迄虎の門維新史料編纂局ニ出勤致居候間、其方ニ御電話ニ而御返事奉願〈ねがいたてまつり〉候。其電話は銀座四二三二ニ有之候。場所は御指示次第其方ニ罷出〈まかりいで〉候而も宜布〈よろしく〉、又御都合次第ニ而ハ拙宅(〔麹町区〕一番丁三十番地)ニて御待受致候而も宣布、何れとも御指定次第ニ任せ可申〈もうすべく〉候。
封入之外字新聞ハ只今到着之分ニ付〈つき〉、或は已ニ〈すでに〉御一見とは存候得共〈ぞんじそうらえども〉、切抜き差出申候。草々頓首  堅太郎
 十二月七日
 加藤大将閣下
尚以会見之時刻は三時半よりと御思召被下度候。其後なれは小生は何等の要用無之候。
 (註)封筒表、東京市四谷区三光町十七、海軍大将加藤寛治殿、必親展、スタンプ4-12-9。封筒裏、神奈川県三浦郡葉山村、子爵金子堅太郎。封入新聞は見当らない。

「5」の書簡は、ロンドンの雑誌に載った記事の紹介であり、単なる情報提供のようである。しかし、「6」のほうは、「米国東洋進出策」なる文書をもらったお礼と、会談希望の連絡であって、両人が、この段階で、かなり親密な関係にあったことを示している。

*このブログの人気記事 2023・1・25(8位の塙次郎暗殺、9位の桃井論文は久しぶり)

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先日は遠路御来訪かつ御高話拝聴(金子堅太郎)

2023-01-24 04:24:43 | コラムと名言

◎先日は遠路御来訪かつ御高話拝聴(金子堅太郎)

 今月一二日に、「金子堅太郎と加藤寛治」というコラムを書き、その中で、飯田直輝氏の「金子堅太郎と国体明徴問題」(『書陵部紀要』第60号、二〇〇九年三月)という論文を引用した。論文中に、「金子は四月一日付加藤宛書翰で述べているように」とあった。この「書翰」は、金子堅太郎が、一九三五年(昭和一〇)四月一日付で加藤寛治に送ったもので、伊東隆ほか編『続・現代史資料 5』〔海軍 加藤寛治日記〕(みすず書房、一九九四)の「Ⅲ 書翰」に収録されている。
 本日は、この四月一日付書翰を読んでみよう。

  44 金子堅太郎書翰    [昭和10年4月1日]

拝啓 先日は遠路御来訪且御高話拝聴忝〈カタジケナク〉奉存〈ゾンジタテマツリ〉候。偖〈サテ〉天皇機関説に付愚見概略記述申し候間〈アイダ〉、御贈り申上げ候間御一覧被下度〈クダサレタク〉候。本問題は今日の如き喧敷〈ヤカマシク〉相成候上は枢密院官制第六条に依りて御諮詢相成、将来の禍根を一掃するの必要有之〈コレアリ〉候。新聞之報するが如く司法、内務両省に於て瀰縫策〈ビホウサク〉にて解決するものとは不存〈ゾンゼズ〉候間、何卒十分其方針を取る様御尽力被下度候。匆々頓首  堅太郎
  四月一日 
 加藤大将閣下

「遠路御来訪」とあるが、これは加藤寛治が、神奈川県葉山町の金子邸まで足を運んだことを示している。「御高話拝聴」とあるが、実際は、金子堅太郎が、「天皇機関説」問題について、持論を説き聞かせたのではないだろうか。
 この書翰には、タイプ印刷された金子の「意見書」が同封されており、「44 金子堅太郎書翰」には、その意見書も掲載されているが、その紹介は後日。
 当ブログでは、このあと、しばらく、金子堅太郎について、あるいは「金子堅太郎と加藤寛治の関わり」について、述べてゆくことになろう。

*このブログの人気記事 2023・1・24(9位の調布の一住民は久しぶり)

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『ゼロの焦点』カッパ・ノベルス版と新潮文庫版

2023-01-23 02:48:41 | コラムと名言

◎『ゼロの焦点』カッパ・ノベルス版と新潮文庫版

 いま机上に、松本清張の『ゼロの焦点』が二冊ある。カッパ・ノベルス版と新潮文庫版である。カッパ・ノベルス版は、初版発行が「昭和34年12月25日」だが、私が持っているのは、「昭和49年1月1日」に発行された「181版」である。新潮文庫版は、「昭和四十六年二月二十日」に初版が発行され、「昭和六十二年七月五日」の「五十一刷」で改版がおこなわれたという。私が持っているのは「平成六年六月十五日」に発行された「七十三刷」。新潮文庫版の末尾、四一〇ページには、「この作品は昭和三十四年十二月光文社より刊行された。」とある。新潮文庫版の底本が、カッパ・ノベルス版だということがわかる。
『ゼロの焦点』を最初に読んだのは、高校生か大学生のころだった。カッパ・ノベルス版で読んだと記憶する。その後、新潮文庫版で再読しだ。いま机上にあるカッパ・ノベルス版は、むかし読んだものではなく、数年前に古本屋で買い求めたものである。
『ゼロの焦点』を、これから読もうという方がいらしたら、カッパ・ノベルス版で読まれることをおすすめしたい。カッパ・ノベルス版には、新潮文庫版にはない、次の特長がある。

・カバーに、「著者紹介」と「あらすじ」がある。
・巻頭に、能登半島の地図が掲げられている。
・本文に、片岡真太郎によるイラストがある。

 以下に、カッパ・ノベルス版のカバーにある「著者紹介」と「あらすじ」を引用しておこう(カバーデザインは伊藤憲治)。

 著者紹介(カバー裏表紙
一九〇九年(明治四十二年)、九州小倉【こくら】の生まれ。少年時代にポーに心酔し、「アッシャー家の没落」などは暗唱するほど繰り返し読んだという。しかし、実際に小説を書きはじめたのは四十歳を越えてからのことであった。
第二十八回の芥川【あくたがわ】賞を受けた『或【あ】る小倉日記伝』は、朝日新聞西部本社広告部に勤務していたときの作品である。
以来、探偵作家クラブ賞受賞の「顔」をはじめ、各分野にわたって作品の数も多いが、なかでも長編推理小説『点と線』、『眼の壁』の二作は、テーマの新鮮さ、社会的視野の広さによって、これまでの〝探偵小説〟では満足できなかった高級ファンをあっと言わせ、〝推理小説ブーム〟へのきっかけとなつた。近作は『蒼【あお】い描点』、『黒い画集』、『ゼロの焦点』(いずれも光文社)

 あらすじ(カバー袖・表……裏)
A広告社の腕利【うでき】き社員、三十六歳の鵜原憲一【うはらけんいち】は、若く美しい妻を得て、ようやく独身生活にさよならをしたところだ。
健康で、精力的で、仕事は好調であった。将来の地位は約束されている。何ひとつ、不満も不安もないはずの男であった。
その彼が、新婚一週間にして、突如失踪【しつそう】した。なんの足跡ものこさず、煙のように消えたのである。……
ひとりのこされた若妻、禎子【ていこ】は、夫の行方【ゆくえ】をさぐるため、深い謎【なぞ】の中に踏みこむべく、西の古都金沢【かなざわ】へと旅立つ。夫はなんのために失踪したのか、あるいは失踪させられたのか?
『ゼロの焦点』では、北陸【ほくりく】の冷たい風光を背景に、追いつめられた人間の孤独と恐怖を描きつくし、最初から恐ろしい緊迫感に読者を引きこんでゆく。
著者が自ら、「僕の代表作」だと宣言する作品である。

*このブログの人気記事 2023・1・23

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映画『ゼロの焦点』(1961)と太平住宅

2023-01-22 04:22:44 | コラムと名言

◎映画『ゼロの焦点』(1961)と太平住宅

 昨日のコラムで、「Hans Potterの日々」というブログから「ゼロの焦点 ラストシーン考」という記事を援用した。
 このブログには、それとは別に、「ゼロの焦点 金沢の懐かしい風景を訪ねて」という長文の記事がある。映画『ゼロの焦点』のロケ地を紹介しながら、映画における景観と今日の景観とを画像によって対比するという、たいへん興味深い記事である。
 その記事のなかに、「鵜原憲一の勤務先」という項がある。引用させていただこう。

鵜原憲一の勤務先
失踪した夫、鵜原憲一の勤務先へ妻の鵜原禎子が訪れるシーンですが、事務所のボードに何故か「太平住宅」のポスター。鵜原憲一の勤務先のクライアント? クライアントだとしても、一社だけ掲示するのは不自然ですよね。
勤務先を映したシーン【写真略】
左にポスターが…(映画のシーン)
当時の住宅地図で確認すると、金沢市尾張町に太平住宅の事務所(地図❺)があります。自信はありませんがここでの撮影でしょうか。当時の金沢市尾張町には企業の支店や営業所が多かったようです。

 ブログの主宰者は、「ここでの撮影でしょうか」と言われているが、必ずしもそうとは限らないと思う。おそらく太平住宅は、この映画の「協賛」をしており、どこかの会社で撮影したシーンに、自社のポスターを割り込ませたのではないか。これについて参考になるのは、一九五八年に公開された松竹映画『眼の壁』である。内池秀人さんのブログ「エクランの撮影日記」に、「ロケ地探訪 映画『眼の壁』」という連載記事がある(貴重な労作である)。その連載記事の【おまけ】によると、映画『眼の壁』には、「太平住宅」という文字が五回、出てくるという。映画『ゼロの焦点』の場合も、よく探せば、「太平住宅」が出てくる場面が、ほかにも見つかるのかもしれない。
 ちなみに、太平住宅株式会社は、一九四六年三月の設立、二〇〇三年一月に経営破綻したという。

*このブログの人気記事 2023・1・22(8位になぜか百済善光)

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映画『ゼロの焦点』(1961)と「ヤセの断崖」

2023-01-21 00:55:23 | コラムと名言

◎映画『ゼロの焦点』(1961)と「ヤセの断崖」

 昨年末、NHKテレビで、松本清張と帝銀事件をテーマにした番組を視聴した。そのあと、松本清張原作の映画が観たくなり、松竹ホームビデオのVHSで、野村芳太郎監督の『ゼロの焦点』(松竹、一九六一)を鑑賞した。
 この映画についての感想は、一度、当ブログに書いたことがある(2015・7・9)。初めから三分の二ぐらいまでは、非常に流れがよく、適度の緊張感もあるのだが、そのあと突然、映画の雰囲気が変わってしまう。
 あえて言えば、この映画は、初めから三分の二ぐらいまでの「第一部」と、残りの三分の一の「第二部」から成っている。「第一部」は、原作の通り、主人公・鵜原禎子(久我美子)の視点から事件が描かれている。「第一部」の最後で、「犯人」が明らかになり、事件は解決したかに見えた。ところが、そうした事件像は、「第二部」でひっくり返される。「第二部」では、能登半島に赴いた鵜原禎子が、関係者の前で、「真犯人は別にいる」と、自分が推理したところを披露する。すると、その場にいた「真犯人」が、禎子の推理の誤りを指摘しながら、事件の「真相」を語る。――
 こういう「凝った」構成を採用したことにより、この映画は、松本清張の原作から、かなり離れることになった。
 今回、私は、この映画を半分ほど観たところで、ビデオを止め、原作(カッパ・ノベルス)を読み直した。それからまた、ビデオの続きを観た。そのようにして観た映画の感想だが、「二部構成」には無理があり、やはり最初から最後まで、鵜原禎子の視点で描いたほうがよかったのではないかというのが、ひとつ。そしてラストは、原作の通り、自死を選んだ真犯人が、舟に乗って沖に向ってゆくというものがよかったと感じたのが、ふたつ目である。
 ただし、原作よりも映画のほうがよかったと思えた点もあった。原作では、鵜原憲一の後任・本多良雄(穂積隆信)までが殺される。しかし、映画では本多は殺されていない。原作のほうは、やはり、殺しすぎだと思う。
 数日前、インターネットで、「Hans Potterの日々」というブログの「ゼロの焦点 ラストシーン考」という記事を拝見したが、それによれば、『ゼロの焦点』の最後で、関係者が「ガケ」の上に集まる場面は、「ヤセの断崖」と呼ばれる場所で撮影された。この場所を見つけたのは、野村芳太郎監督だという。そして、この映画の影響によって、「ヤセの断崖」は、能登半島有数の観光名所となった。
 ちなみに、テレビドラマのラストなどで、関係者が「ガケ」の上に集まるという場面を目にすることがある。こうしたシーンのルーツが、映画『ゼロの焦点』であることは、ほぼ間違いない。私は、この映画の「第二部」をあまり評価しないが、「ヤセの断崖」のシーンが、観光業界やテレビ業界に寄与した「功績」を否定する者ではない。

*このブログの人気記事 2023・1・21(なぜか、4・9・10位に「種樹郭橐駝伝」関係)

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