礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

言論自由人権尊重ノ主旨ニ悖ルコトナキヲ期ス

2023-02-28 02:35:44 | コラムと名言

◎言論自由人権尊重ノ主旨ニ悖ルコトナキヲ期ス

『国家学会雑誌』第五〇巻第八号(一九三六年八月)から、田中二郎の論文「不穏文書臨時取締法に就て」を紹介している。本日は、その三回目。
 昨日、引用した部分のあと、一行あけて、次のように続く。

 此の法案が議会に提出せられるや俄然大きな波紋を描いたことは勿論である。庶政一新の名に於て却つて弾圧政治を行ひ、専制政治を強化するものであるとの非難が囂々〈ゴウゴウ〉として起つた。事実此の法案は、先に述べた通り、反動的立法の名に値する内容を持ち、言論出版の自由を保護するの上からは危険極まるものであつたから、此の非難は寧ろ当然過ぎる程であつた。併しこの法案に対する反対論の中には、二の立場を区別しなければならない。一は出版の自由を確保するの見地から此の法案の成立に絶対に反対し、修正の余地さへも認めない者である。之に対して他の多くの論者は、成る程、原案のままでは到底之を承認し得べくもないが、之を適当に修正することによつて、不穏文書防遏といふ現実の必要を充さうといふ考を有して居たもののやうである。
 議会の大勢は、結局、怪文書の横行を防遏する実際上の必要に応ずる為めに法律制定の必要を承認しつつ、而も一方此の目的の為めに加へられる言論出版の自由の制限は之を最少限度に止めねばならぬとの立前から、本法案の修正通過を期することとなつた。そこで衆議院の委員会に於て此の法案の成立を必要ならしめる現実具体的な事象を仔細に検討批判し、結局、政府の意図が本法によつて怪文書即ち秘密出版の方法による不穏文書の取締を主たる目的として居ることを確め、此の直接の需要を充す上に必要な最少限度の規定を設けるに止めることとし、其の他附随的な而も一面運用上多大の危険を包蔵する法条を修正削除することとなつた。即ち本法案の主眼は、政府の説明する所によると、第一条第二項及び第二条に在り、よつて以て怪文書の取締を厳にすることに在つた。之に対して第一条第一項及び第三条は、所謂怪文書の取締を厳にする結果、形式的には出版法又は新聞紙法による成規の手続によりながら、而も内容的には、人心を惑乱し軍秩を紊乱し又は財界を攪乱する目的を以て治安を妨害すべき事項を掲げる不穏文書の出版が予期せられねばならぬと共に、通信其の他出版以外の方法に逃避して、同様の目的を達せんとする危険も考へられるので、前者に対しては之を厳重に処罰し、後者も亦之を厳重に取締ることによつて、不穏文書取締の目的を全うせんとするものに外ならなかつた。併し怪文書の横行を防遏するの必要は之を認めねばならぬとしても、此等の第二次的な規定を設けるの必要は、さほど直接現実的でないのみならず、其の用語が甚だ曖昧である為めに、此の規定の運用如何によつては、之だけの為めに言論出版の自由を全く犠牲に供せねばならぬ結果となるを免れない。そこで一方怪文書の取締の必要を充す為めの最少限度の要求を容れると共に、他方、出来るだけ言論出版の自由を傷害しないことを期し、結局、第一条を「軍秩ヲ紊乱シ、財界ヲ攪乱シ其ノ他人心ヲ惑乱スル目的ヲ以テ治安ヲ妨害スベキ事項ヲ掲載シタル文書図画ニシテ発行ノ責任者ノ氏名及住所ノ記載ヲ為サズ若ハ虚偽ノ記載ヲ為シ又ハ出版法若ハ新聞紙法ニ依ル納本ヲ為サザルモノヲ出版シタル者又ハ之ヲ頒布シタル者ハ三年以下の懲役又ハ禁錮ニ処ス」と修正し、且つ第三条を削除するに至つた。かくて成規の手続を履んだ出版物及び私的通信は本法の適用を受けないこととなつた。
 併しこれでも尚ほ用語は漠然たるを免れず、其の運用上の危険が感ぜられるので、衆議院は之に附帯決議として「一、本法ハ其ノ制定ノ趣旨ニ鑑ミ臨時立法タルベキモノトス仍テ〈よって〉政府ハ最善ノ努力ヲ払ヒ現下ノ社会不安ヲ一掃シ速ニ本法ヲ廃止スベシ、二、本法ヲ施行スルニ際シ政府ハ厳ニ之ガ運用ヲ慎ミ苟モ言論自由人権尊重ノ趣旨ニ悖ル〈もとる〉コトナキヲ期スベシ」との希望を附し、名も不穏文書臨時取締法と改めて之を通過せしめ、直ちに貴族院に送付した。貴族院に上程せられたのは会期終了の前日(五月十五日)であつた。政府は改めて提案理由を説明し、衆議院に於ける修正を述べて後、其の修正の「趣旨ハ、本法案ノ非常時立法タルノ性質ヲ明カニシテ、且取締ノ対象ヲ秘密出版ニ限ラムトスルモノデアリマシテ、本案ノ主眼トスル所謂怪文書取締ノ目的ハ大体達成シ得ルモノト考ヘラレルノデアリマス」と附言した。貴族院も此の修正案をそのまま承認し、ここに国民注視の的であつた法案の通過を見るに至つた。同法は〔一九三六年〕六月十五日に公布、即日施行せられた。【以下、次回】

 要するに、全五条の「不穏文書等取締法案」は、修正されて全四条の「不穏文書臨時取締法」となり、衆議院の「附帯決議」が付されて両議院を通過し、公布・施行された、ということである。

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近時いわゆる怪文書等の横行が甚しく……

2023-02-27 02:12:43 | コラムと名言

◎近時いわゆる怪文書等の横行が甚しく……

『国家学会雑誌』第五〇巻第八号(一九三六年八月)から、田中二郎の論文「不穏文書臨時取締法に就て」を紹介している。本日は、その二回目。
 最初の一行以外は、すべて、「政府による法律案の説明」の引用である。原文では、その「説明」は、カタカナ文だが、ここでは、ひらがな文に直した。

 本法案提出の理由として、政府は左の如く説明して居る。 
「近時所謂怪文書等の横行が甚しく、其内容も亦益々悪化するの傾向がございまして、之が為に或は人心を惑乱し、或は軍の秩序を紊乱し或は財界を攪乱する等、治安維持上に支障を生ぜしむる事例が尠くないのでございます。斯〈カク〉の如き事象は治安確保の為には到底之を放置し得ざることは言〈イウ〉を俟たない所でありますが、特に今回の如き大事変の後に於きましては、其徹底的防遏を講じますことの必要が切なるものありと痛感せられるのでございます。それ故茲に取締法を制定して著しく社会人心ノ不安を惹起し〈ヒキオコシ〉治安維持上に重大ナル支障を生ぜしむるが如き不穏なる出版物等を厳に取締らんとするものでございます。本法案の内容の主要なる点を申上げますと次の通りでございます。
 第一に近時所謂怪文書の実情に徴しまするに、或は人心を惑乱し或は軍秩を紊乱し、或は財界を攪乱する目的を以て、治安維持上重大なる支障を生ぜしむるが如き事項を掲載したる文書を出版するの事例が多いのであります。それ故、斯くの如き悪性なる目的を以て不穏なる事項を掲載しました文書図画を出版したる者及び之を頒布したる者を処罰する為に第一条第一項の規定を設けたのであります
 第二には右の如き悪性の目的を達成せんが為め、不穏文書を発行せんとする場合に於きまして、或は文書図画に何等発行の責任者の氏名及び住所の記載を為さず、又は仮令〈タトイ〉之を記載するも虚偽の記載を為し、或は出版法若くは新聞紙法に依つて定められた成規の納本を為さずして出版するが如き、秘密の手段を弄する者に至りましては、其罪質最も憎むべく、治安維持確保の為にも最も取締を厳にしなければならないと考へられますので、此種出版行為に対しましては特に厳罰を課することと致したのであります、第一条第一項の規定を其為めに設けたのでございます。 
 第三に不穏文書なることを知りて之を秘密の手段に依つて出版し、又は之を頒布するが如き所為〈ショイ〉も、亦治安維持上に支障を生ぜしむること勿論でありまして、近時の怪文書横行の弊風を防遏せんとする所期の目的を達するが為めには、此種の秘密出版を厳に取締るの要又切なるものがあると考へられるのであります。それ故此種の行為を処罰する為め、第二条の規定を設けた次第でございます。
 第四に所謂怪文書に依る弊害は、出版物に依り醸成せらるる場合が最も多いのでありますが、例へば通信等出版以外の方法に依り謡言が流布せられまして、之に依つて治安確保に重大なる支障を生ぜしめられる場合も亦尠くないのであります。治安確保の為には是等の所為も亦之を処罰する必要があると考へ、第三条の規定を設けまして、治安を妨害するが如き不穏なる流言浮説、人心惑乱、軍秩紊乱又は財界攪乱の目的を以て流布した者をも処罰することと致したのでございます。
 第五に所謂怪文書等の取締は其徹底的勦滅〈ソウメツ〉を期せざれば、所期の目的を達し難しと考へられますので、第四条の規定を設けて、前述の各罪に付き其未遂罪をも亦之を罰することに致したのでございます。併し出版物に依り犯さるる罪に付ては、図画文書等の印刷を依頼せられました印刷者が、印本を依頼者に引渡す前に自首した時は、其の刑ヲ免除することと致したのであります。是れ畢竟印刷者より自首する場合を多からしめ、以て文書の流布を未然に防止し易からしめんとしたるに外ならないのであります。
 第六に秘密の手段に依り出版せらるるものと認められる出版物に付ては地方長官、東京都に在りては警視総監に於おきまして、直ちに当該出版物の発売頒布を差止める必要がありますと認めたならば、其印本及刻版を差押ふることを得ることとしたのであります。尤も此差押は発行の責任者に付き真実記載又は成規納本ある迄の一時的の仮処分に止まるものでありますが、之に依り不穏文書と認められるものを早期に発見して其流布を未然に防止するを得るの効果大なるものがあると信ずるのでございます。
 以上申上げました所が本法案の内容の大体であります。要するに本法案の眼目とします所は、悪性の目的を以て又は秘密の手段を以てするが如き、罪質最も悪む〈ニクム〉べき不穏文書等の取締をせんとするものでありまして、此趣旨を明白にする為に、一般言論の取締法とは独立しまして、特別法を制定することと致したのであります。」【以下、次回】

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二・二六事件と不穏文書臨時取締法

2023-02-26 04:21:42 | コラムと名言

◎二・二六事件と不穏文書臨時取締法

 二・二六事件が収拾されて四か月弱が経った一九三六年(昭和一一)六月一三日、「不穏文書臨時取締法」という法律が成立した。この法律は、どういう内容の法律なのか。なぜ、この時期、「不穏文書」を取り締まる法律が作られたのか。
 同年八月、行政法学者の田中二郎は、「不穏文書臨時取締法に就て」という論文を発表した(『国家学会雑誌』第五〇巻第八号)。この論文を読んで、「不穏文書臨時取締法」という法律に関する基礎知識を得ておきたい。かなり長いので、何回かに分けて紹介する。

   不 穏 文 書 臨 時 取 締 法 に 就 て      田 中 二 郎

    制 定 の 経 過
 未曾有の大事変のあとを承けて〈ウケテ〉戒厳令下に開かれた第六十九議会は、我が議会政治の歴史の上に重要な意義をもち、いろいろの意味で注目せらるべき特色を現はして居る。兎も角〈トモカク〉、此度〈コノタビ〉の議会は或る程度に国民の言はんと欲する所を言ひ、国民代表機関としての自己の存在意義を新らしく国民の脳裡に印象づけ、多少とも国民の信頼を取戻すしたと言ふことが出来よう。又或る意味では国民の意思がここに代表せられることによつて、ひたむきな独裁的傾向への前進を堰止めるに多少の貢献を為したと言つてもよいであらう。其の多くの論議の一の具体的現はれとして政府提出の不穏文書等取締法案の議会に於ける論争を挙げることが出来る。此の法案は近時の所謂怪文書横行の防遏〈ボウアツ〉を目的とするもので、目的そのものは兎も角として、内容的には、反動的独裁的な寧ろ「恐怖的立法」であり、之が提案は痛く一般国民を刺戟し注目せしめたものであつた。何となれば此の法案通過の暁〈アカツキ〉は、其の解釈運用の如何によつては、憲法の保障する言論出版の自由は事実上全く無きに等しくならざるを得なかつたからである。議会が茲に決然立つて之に猛烈な批判を加へ、そこにつきつめた論議を展開したことは当然である。此の法案は結局不穏文書臨時取締法の名を以て、既に去る〔一九三六年〕六月十五日より実施されるに至つたが、之は議会に於ける真摯な論議の末、政府の譲歩により、取締の対象を必要なる最少限度に修正したもので、原案とは形式内容ともに相当に距り〈ヘダタリ〉のある比較的穏健なものとなつて居るのである。ここ迄に至るに付て、議会の立法府としての役割は相当に評価されてよいと思ふ。
 いま本法を紹介しようとするに当つては、先づ政府が如何なる趣旨目的を以て本法原案を提出したか、而して如何なる見地からそれが修正せられたかの経過の大体を述べておかねばならぬ。
 政府提出の原案は左の五条より成つて居た。
【一行アキ】
 第一条 人心ヲ惑乱シ、軍秩ヲ紊乱シ又ハ財界ヲ攪乱スル目的ヲ以テ治安ヲ妨害スベキ事項ヲ掲載シタル文書図画ヲ出版シタル者又ハ之ヲ頒布シタル者ハ三年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
 前項ノ罪ニ該ル文書図画ニシテ発行ノ責任者ノ氏名及住所ノ記載ヲ為サズ若ハ虚偽ノ記載ヲ為シ又ハ出版法若ハ新聞紙法ニ依ル納本ヲ為サザルモノヲ出版シタル者又ハ頒布シタル者ハ五年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
 第二条 前条第一項ノ事項ヲ記載シタル文書図画ニシテ発行ノ責任者ノ氏名及住所ノ記載ヲ為サズ若ハ虚偽ノ記載ヲ為シ又ハ出版法若ハ新聞紙法ニ依ル納本ヲ為サザルモノヲ出版シタル者又ハ頒布シタル者ハ三年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
 第三条 通信其ノ他何等ノ方法ヲ以テスルヲ問ハズ出版以外ノ方法ニ依リ第一条第一項ノ目的ヲ以テ治安ヲ妨害スベキ流言浮説ヲ為シタル者ハ三年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
 第四条 第一条乃至前条ノ未遂罪ハ之ヲ罰ス但シ印刷者印本引渡前ニ自首シタルトキハ其ノ刑ヲ免除ス
 第五条 発行ノ責任者ノ氏名及住所ノ記載ヲ為サズ若ハ虚偽ノ記載ヲ為シタルモノト認ムル文書図画又ハ出版法若ハ新聞紙法ニ依ル納本ヲ為サザル文書図画ニ付テハ真実ノ記載ヲ為シ又ハ成規ノ納本ヲ為ス迄地方長官(東京都ニ在リテハ警視総監)ニ於テ其ノ頒布ヲ差止メ必要アリト認ムルトキハ其ノ印本及刻版ヲ差押フルコトヲ得
 前項ノ規定ニ依リ頒布ヲ差止メラレタル文書図画ヲ頒布シタル者ハ三百円以下ノ罰金ニ処ス
    附 則 
 本法ハ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス     【以下、次回】

 冒頭に、「未曾有の大事変」とあるが、これが「二・二六事件」を指すことは言うまでもない。また、そのあと成立した「不穏文書臨時取締法」は、法案の段階では、「不穏文書等取締法」と呼ばれていたという。

*このブログの人気記事 2023・2・26(9位の西部邁氏、10位の石井四郎中将は久しぶり)

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荒木貞夫と「昭和維新」

2023-02-25 01:53:24 | コラムと名言

◎荒木貞夫と「昭和維新」

 荒木貞夫の名前が頻繁に登場するのは、いわゆる「昭和維新」の時期である。
 ひとつ例を挙げよう。中島岳志さんの『血盟団事件』(文藝春秋、二〇一三)を読むと、荒木貞夫が、次のような形で登場する。

 血盟団メンバーが、徐々に権藤空き家に集結していたころ、政局は大きく動いていた。満州事変勃発当時〔一九三一年九月〕、首相は民政党の若槻礼次郎だった。若槻内閣は、戦況のなし崩し的拡大を止められず、国際社会からの非難が高まった。また、失敗に終わったとはいえ、国内では十月事件〔一九三一年一〇月〕が進行し、政党政治そのものが危機に陥った。
 民改党と政友会は、政治のイニシアティブを取り戻すために、密かに協力内閣構想の実現を協議した。二大政党による大連立は最終手段に近かったが、弱体化した若槻内閣が政党政治を立て直すためには、方法がなかった。
 当時の政友会総裁は犬養毅だった。犬養は未曾有の国難の中で、陸軍組織の変革を進めるためには大連立による挙国一致内閣実現を模索すべきと考えた。与野党の有力者が相互に連立を模索する中、反対派を含めた政治的駆け引きが激化した。
 結果的に協力内閣構想は実現せず、若槻内閣は〔一九三一年〕十二月十一日、総辞職に追い込まれた。二日後の十三日に誕生したのは政友会による犬養内閣だった。政友会は少数与党で、政権基盤は脆弱だったが、国民の民政党政権への反発を追い風に支持を拡大した。
 犬養内閣が真っ先に手を付けたのは、経済政策だった。若槻内閣は、銃弾に倒れた濱口〔雄幸〕内閣の経済政策を継承し、緊縮財政を進めていた。濱口内閣から大蔵大臣を務めていたのは井上準之助だった。彼は金解禁によるデフレ政策を実施し、経済の立て直しを図った。しかし、「暗黒の木曜日」に端を発する世界恐慌が日本にまで押し寄せ、急速な物価下落と円高が進行した。日本の国内市場は収縮し、輸出業も大きなダメージを受けた。
 若槻内閣になってもデフレ不況が続くと、世の中では金輸出の再停止と景気対策を望む声が強まり、井上財政への批判が高まった。そんな中、成立した犬養内閣は大蔵大臣に高橋是清を任命し、金輸出再禁止を断行した。高橋は、円安誘導による輸出拡大と積極財政による景気回復を推し進めた。
 結果、国内産業は刺激され、外国貿易も好転の気配を見せた。また、物価が上がり、景気も上向きになったことから、不況脱出の兆しが見えたとして評価が高まった。「犬養景気」は、内閣への支持を拡大させ、経済再生への期待が高まった。
 一方、陸軍青年将校にとって、犬養内閣の成立は歓喜をもって迎えられた。陸軍大臣に荒木貞夫が就任したからである。
 荒木に信頼をおく藤井〔斉〕は、歓喜した。十二月十三日の日記には、次のように記されている。
〈荒木中将陸相となれり。来春は大望成るの時来たらんか、歓喜歓喜。(中略)愉快なる日かな、天の春廻り来れるか、希くは人事を尽さむ〉[藤井一九九〇:七一三]。
 また、荒木を支持する陸軍青年将校も、沸き立った。
〈今に荒木陸相が陛下から錦旗【きんき】節刀を戴き革命を断行する、我々は其の時、命に従って動けばよい〉[池袋一九六八:三二六]
 藤井をはじめとする海軍青年将校は、引き続きクーデターを志向したのに対して、陸軍青年将校たちは、大きな方針転換を行った。同志と見なす荒木が陸軍トップに立った以上、テロ・クーデターを起こす必要はなくなった。彼らは、荒木が断行する「革命」に従い、国家改造を実現すればよいと考えた。〈三二八~三三〇ページ〉

 犬養内閣が成立した一九三一年(昭和六)一二月から、二・二六事件が起きた一九三六年(昭和一一)二月までの間が、荒木貞夫という軍人の絶頂期だったと思う。しかし、二・二六事件が鎮圧されたあとは、「皇道派の重鎮」荒木貞夫の存在感は、一挙に低下したのであった。
 文中、(中略) とあるのは、原文のまま。また、[藤井一九九〇:七一三] 、[池袋一九六八:三二六]とあるのは、典拠とした文献とそのページ数を示す。文献は、それぞれ、藤井斉「故藤井海軍少佐の日記写(抄)」(『検察秘録 五・一五事件Ⅲ―匂坂資料3』角川書店、一九九〇)、池袋正釟郎「公判記録」(『血盟団事件公判速記録(中巻)』血盟団事件公判速記録刊行会、一九六八)。

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荒木貞夫と「シベリア出兵」

2023-02-24 04:28:04 | コラムと名言

◎荒木貞夫と「シベリア出兵」

 荒木貞夫の名前が日本の歴史に登場してくるのは、「シベリア出兵」の時からである。
 当ブログでは、今月一七日から二一日にかけて、荒木の「日華事変突入まで」という文章を紹介した。荒木は、そこでは、第一次世界大戦当時、「欧州」にいたと述べているだけで、「シベリア出兵」と自分との関わりについては言及していない(「日華事変突入まで」のうち、一七日に紹介した分を参照されたい)。
 信夫清三郎の労作『大正政治史』の第二巻(河出書房、一九五一)の第四章「シベリア出兵」には、荒木貞夫の名前が出てくる。本日は、同巻同章の一部を紹介してみよう。

 不満をいだいて退いた軍部は、しかし、出兵を敢行するためのあらゆる機会をとらえるため、あらゆる策動を忘れなかった。彼らは、目をロシアにおける反革命勢力にそそぎ、彼らをとおして日本の勢力をロシアのなかに扶植しながら、他日出兵する礎地をつくりあげようと努力した。そのため、彼らはとくにホルヴァート将軍とセミョーノフの活動に注目した。あるいは、彼らは、シベリアにおけるドイツ捕虜の活動を報道し、シベリアの危機を強調して出兵を招きよせようとした。彼らの策動には、おそらくは現地の領事館が協力した。
 めざす第一の反革命勢力はホルヴァート将軍であった。領事団によつてよびよせられた中国軍隊にまもられつつ、ボルシェヴィキの脅威からハルピン〔ママ〕を確保した将軍は、〔一九一八年〕一月に中国軍隊か帰還してからのちも、シベリアの首領となる日を夢みて虎視耽々としていた。三月、日本政府はホルヴァート将軍にたいして十分な支持をあたえるから、シベリアに秩序を回復しつつ独立政府を樹立する指導権を単独でとるよう非公式に要請した。参謀次長田中義一〈ギイチ〉は、ハルピン駐屯軍司令官中島(正武)少将をとおし、ホルヴァート将軍にたいして「新シベリア政府が完全組織されたのちに日本政府に暖助を要請されるならば、政府はあらゆる援助を惜しまないばかりでなく、共通の目的を達成するため他の全連合国を共通の仕事に勧誘するであろう」と申入れた。【中略】
 中島少将とホルヴァート将軍の会見が行われたのは三月下旬であつたと推測されるが、四月三日、日本は再びホルヴァート将軍に援助の申出をした。将軍は日本の意図をおそれた。将軍は、もし日本とだけ取引したならば、国を売るものとして強烈な反対がまきおこるであろうと憂慮した。日本の申出には、ただアメリカが加わつた揚合にのみ応じられると考えた。将軍はアメリカに接近し、アメリカの領事は好意をしめし、かくてホルヴァート政府の樹立問題はアメリカと日本の深刻な闘争にゆだねられた。
 めざす第二の反革命勢力はグレゴリイ・セミョーノフ大尉であつた。コサックを父とし、蒙古人を母とした彼は、軍人として大戦に参加し、累進して大尉となつていたが、革命わずか一週間後の〔一九一七年〕十一月十四日、早くも反旗をひるがえしてボルシェヴィキの討伐を宣言した。彼は、ブリヤート人・蒙古人・中国人およびロシア人を募つて特別マンチューリ支隊とよぶ一部隊を組織し、ボルシェヴィキの影響下におかれた満洲里の第七二〇国民大隊の武裝解除をおこない、同地を占領して全シベリアの同志を糾合しようとする第一歩を踏みだした。〔一九一八年〕一月三十日の報道は、彼が満洲からシベリアに汽車で一八時間のオ口ヴィヤンナヤを占領したことをつたえた。
 当時ハルピンに駐在していた黒澤準中佐は、関東都督府を説いてセミョーノフの援助を決定させた。のちには金子因之〈ヨリユキ〉大尉を班長とする教習班が、日本からセミョーノフの軍隊に派遣された。観戦武官としてロシアの戦線にあつた荒木貞夫中佐(のちの大将)や黒木親慶〈チカヨシ〉大尉が帰還し、平佐二郎大尉や酒葉要〈サカバ・カナメ〉大尉とともに参謀指導官という格で活躍をはじめた。満洲里〈マンチュリ〉日本居留民会長安生順一は、満洲各地に在溜していた日本在留していた日本在郷軍人の招募に着手し、日本義勇軍を編成した。四月のころ、セミョーノフ軍に参加していた日本人は、佐藤要造砲兵少尉・橋本柳一輜重兵少尉・松下太一郎歩兵少尉・奥村歩兵大尉・塩谷武次工兵中尉・千葉浩輜重兵中尉・上田浅一歩兵中尉・國澤圓二等主計などの予備軍人をはじめとし、伊藤銀次郎らの特務曹長級から兵士にいたるまでをあわせて全員三四六名であつた。
 しかし、ホルヴァート将軍の新政府樹立が日本とアメリカの深刻な闘争の対象となつたょぅに、セミョーノフの運動は日本とイギリスの深刻な闘争の対象となつた。【後略】〈四五二~四五四ページ〉

「シベリア出兵」というのは、きわめて複雑な問題であって、その全貌や本質を把握することは容易でない。
 荒木貞夫という軍人が、この問題に対し、どういう言動をしたかについても、知られていない部分が多い。
 ところが、最近になって、「荒木貞夫の口述記録――「シベリア出兵」について」という資料が世に出た(『近代中国研究彙報』第四二巻、二〇二〇年)。兎内勇津流(とない・ゆづる)さんによる有益な解題、松重充浩(まつしげ・ゆきひろ)さんによる周到な校註が付いている。これは、たいへん貴重な「史料」であり、同時に、実に興味深い「読み物」である。荒木貞夫という軍人、あるいは、シベリア出兵問題に関心をお持ちの読者に、一読をおすすめしたい。なお、同資料は、インターネット上で閲覧できる。

*このブログの人気記事 2023・2・24(9位に珍しいものが入っています)

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