礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

瀧川政次郎『律令の研究』初版(一九三一)の序

2018-08-31 01:12:57 | コラムと名言

◎瀧川政次郎『律令の研究』初版(一九三一)の序

 昨日は、瀧川政次郎『律令の研究』の名著普及会再刊本(一九八八)の「序」を紹介した。本日は、その初版(刀江書院、一九三一年九月一五日)の「序」を紹介してみよう。これまた、簡潔な名文である。
 文章中の漢字は、新字に直したが、仮名づかいは原文のママである。〔 〕内は、引用者による注。

   序
 本書は、我が国中古の根本法典たる律令のテキストに関する研究である。題して『律令の研究』と称するが、律令の内容並びにその社会的使命といふが如き社会経済史学的問題には全く触れてゐない。これは勿論、著者がこの種の研究の重要性を忘れた為めでもなければ、故意にこれを避けた為めでもない。ただこれを他日の研究に譲つた迄である。然らば著者は何故にまづテキストの硏究に手を染めたか。言ふ迄もなく、それがすべての律令研究の基礎工事であるからである。最近日本歴史の研究熱が、新旧の学者間に勃興しつつあることはまことに喜ばしい。がしかし,所謂新興史学の人々の間に、徒らに〈イタズラニ〉理論に馳せて〈ハセテ〉、事実の穿鑿〈センサク〉考証を軽視する傾向の見られるのは,頗る遺憾である。事実の穿鑿、文献の考証のみが、歴史家の本領でないことはもとよりであるが、而もこれを外にしては史学は成立し難い。著者が創意を加ふる余地勘くして、而も精根を疲らす〈ツカラス〉こと多き、この地味なる仕事に身を入れたのは、この傾向に慨するところ鮮し〈スクナシ〉としない。

 本書は、律令のテキストの研究を主題とせるものである。従つて本書に於いては、大宝律令のテキストの復現を目的とせる第三編と、養老律令のテキストの修補を主眼とせる第四編とが主要部を為してゐる。第一編の「本邦律令の沿革」は、寧ろ第二編以下の特殊研究の律令研究中に於ける地位を指示する為めに附加せられたものである。而して本書の第二編は、「日唐律令の比較」といふ先人の論じ尽した問題に就いて、落ちたるを拾ふた二編の論文より成り、附録に収めた五編は、何れ〈イズレ〉も日唐の律令に関する研究の断片である。本書の各章は、大正十二年〔一九二三〕七月以降、その成るに随つて〈シタガッテ〉大抵単行の論文として雑誌に発表した。次に各章の該当論文を示さう。
 第一編、第二章(『近江律令考』法学新報、第三十八巻、第十号)
     第三章(『天武律令考』法学新報、第三十九巻、第二号)
     第四章(『大宝律令考』法学新報、第三十九巻、第六、第十号)
     第六章(『删定律令考』法学研究、第二十四巻、第十号)
 第二編、第一章(『西域出土の唐職官令断片に就いて』法学協会雑誌、第四十七巻、第一号)
     第二章(『唐礼と日本令』法学協会雑誌、第四十七巻、第九号)
 第三編、第一章(『大宝律と養老律との異同を論ず』史学雑誌、第三十九編、第八号)
     第二章(『再び大宝律と養老律との異同を論ず』史学雜誌,第三十九編、第十一号)
     第三章(『三浦博士の「大宝・養老二律の比較研究」を読む』法学論叢、第二十
一巻、第三号)
 第四編、第一章(『律逸々』法学協会雑誌、第四十四巻、第二、第三、第四、第五、第六、第七、第九号)
     第二章(『倉庫令考』法学論叢、第十六巻、第二、第四号)
 故に本書の出版によつて初めて世に出るものは、結局第一編第一章、同編第五章及び第三編第四章の三編である。併し〈シカシ〉著者は、これらの諸論文を基礎として本書を纏め上げるに当つては、必要なる修正増補を施すことに最善の努力を払つた。中には完膚なき迄に旧稿を改竄〈カイザン〉して、全く面目を一新したものもある。但し第三編の初めの三章だけは、論争に係るものなるが故に、特に改竄を加へずして旧稿を転載した。【以下、次回】

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瀧川政次郎『律令の研究』再刊本(一九八八)の序

2018-08-30 06:53:56 | コラムと名言

◎瀧川政次郎『律令の研究』再刊本(一九八八)の序

 必要があって、瀧川政次郎『律令の研究』を読んでいる。この本は、一九三一年(昭和六)九月一五日、刀江書院から初版が刊行され、その後、五十七年余を経た、一七八八年(昭和六三)年十一月二〇日、名著普及会から「復刻版」が刊行された。「名著普及会再刊本序」は、長寿を保った瀧川政次郎本人の執筆である。名文である。
 本日は、これを紹介してみよう。なお、文章中の漢字は、正字(旧字)と新字とが混用されているが、これは、原文のママである。

名著普及会再刊本
 本書は初版が刊行されたのは、昭和六年であるから、本書は正に半世紀以前開版の古典である。当時著者は、三十代の精力旺盛な青年学徒であったが、この書は著者が全精力を傾けて書き上げた力作の一つである。幸いに著者は、昭和九年、本書を中央大学に提出することに依って法学博士の学位を得、また本書の刊行は、学界の歡迎するところとなり、昭和四十一年には、初版出版の刀江書院から再刊せられた。その再刊には、著者と、著者の門弟である小林宏、利光三津夫〈リコウ・ミツオ〉の三人による「律令研究史」を附録した(江戸時代 利光三津夫、明治大正時代 小林宏、終戦以後著者担当)。今回刊行するものは、その初版の写真覆製である。
 このたびの再刊に際しては、右の「律令研究史」を附載し、更に昭和四十一年以後現在に至る「律令研究史続稿」を増補したいと思ったが、律令研究史の執筆は既に年老いて其の事に堪えない。仍って〈ヨッテ〉その一端を伝えるものとして、皇学館大学助教授清水潔氏が、『日本歴史』四六五号に掲載せられた書評『瀧川博士米壽記念会編〝律令制の諸問題〟』を紹介しておく。『律令制の諸問題』は、昭和五十九年五月廿六日、私の米壽を祝って、十九人の著者の知友、門弟が執筆して献呈してくれた一冊の單行本である(東京、汲古書院刊)。清水氏は、その目録を掲げ、その主なるもの数篇に対して簡單な評言を加えている。その評言の中には「東洋史上全体の中で日本の律令制を把握すべきことは、瀧川博士年来の主張である。」とか、「律令の法典としての基礎的研究に飛躍的進展を遂げたのも、瀧川博士の功績によるところが大きい。」とか、「律令條文間の矛盾、重複など「律令の枘鑿〈ゼイサク〉」を指摘された瀧川博士の先駆的業績」といったような文があって、本書の価値に言及するところが尠く〈スクナク〉ない。
 半世紀以前、私が蒔いた律令研究の種は、この半世紀間に大きく成長し、今では毎月刊行される数種の学術雑誌に律令関係の論文が一篇もない月はないという盛況を呈しているのである故に著者は古代史家からは「律令の家元」と称せられ、諸著を贈り來たるものその数を知らず、それに一々礼状を書くことは、今や著者の毎日の大きい仕事になっている。
 著者は長生きの御蔭で、五十年前の旧著の再刊をこの眼で見ることが出来る。まことに有難度いことと、感謝感激している。是れも神助の致すところであろう。初版はこれを父の靈に捧げたが、このたびの再版はこれを母の靈に捧げる。著者が長生きしてこの喜びを悦び得るのは、母が著者を丈夫に産みつけ、大切に育ててくれたお蔭である。母シナは大和小泉藩(片桐藩)の藩士船木又兵衛の二女、明治元年生れである。資性穎悟〈エイゴ〉、博覧強記にして克く〈ヨク〉舩木家重代の家学有職故実の学を伝承した。著者が弱年にして法制史家として一家を成し得たのは、その家学に負うところ鮮し〈スクナシ〉としない。享年五十八歳。晩年天理教に入信し、その權少講義となって、布教に狂奔した。
 今回の再版に当っては、出版社との交渉等、一切の事務は、著者の愛弟子である嵐義人(現職、文部省教科書調査官)が、これを代行して呉れた。なお又、嵐君は、著者の喜壽に際し、その「著作目録」を作成して呉れたが、この度はそれを増補して巻末に附載して呉れるという。著者に印刷せられた「著作目録」のないことは大きな缺陥であって、時々知友からそれを督促されている。その事、実現せらるれば、著者の悦びは倍加されるであろう。
 株式会社名著普及会から著者の旧著が再刊されることは、今回に始まったことではない。会長小関貴久君は、著者の著作ならば何でも出版しようという肚〈ハラ〉で居てくれるらしい。私にとって、それは何よりも嬉ばしい〈ヨロコバシイ〉事である。学者が如何に素晴しい論著を製作しても、それを公刊してくれる出版業者が居なければ、その学説は江湖に拡がらない。恩師黒板勝美博士は、『新訂増補 國史大系』の出版に際してその出版社のみならず、その印刷職工までも宴席に招いて厚くもてなされた。著者もその顰み〈ヒソミ〉に做つて出版業者を享く遇したいと思う。擱筆に当つて一言小関氏に対しても謝意を表する次第である。
  昭和六十三年三月吉日       瀧川政次郎識す

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映画『意思の勝利』にはナレーションがない

2018-08-29 05:17:07 | コラムと名言

◎映画『意思の勝利』にはナレーションがない

 ナチ党の党大会を記録した映画『意思の勝利』(一九三五)を紹介している。本日は、その二回目(とりあえず最後)。

 場面変わって、飛行場で、ヒットラー総統の到着を待つ人々。カメラは地上である。
 やがて、ヒトラー総統の搭乗するユンカースJu52が着陸する。これを熱狂的に迎える人々。婦人や子どもも多い。一様に、右手を挙げ、口々に何か叫んでいる。
 カメラは停止した飛行機に近づく。ユンカースJu52の外板は、波形になっている。プロペラは二枚。係員がタラップを用意し、外から乗降用の扉を開ける。扉は、機体左側、主翼のやや後方にある。
 最初にあらわれるのは、ヒトラー。軽く右手をあげて歓迎に応え、すぐにタラップを降りる。これに軍服姿の男が続くが、顔はよく見えない。
 三番目にあらわれるのは、ゲッベルス宣伝相である。白っぽいコートに身を包んでいる。さらにもうひとり、背広姿の男、顔はよく見えない。
 人々に取り囲まれているヒトラーの姿がアップされる。表情が明るい。
 場面変わって、飛行場を出発する自動車の車列。道の両側には、おびただしい数の人々。一様に右手を挙げている。ヒトラーは、先頭のオープンカーに乗り、助手席のところで立ち上がって歓迎に応える。
 カメラは、高いところから、この車列を映す。ヒトラーが載った車の前に、撮影車両らしい車が一台。屋根の上に、カメラとカメラマンが見える。
 やがて、一行は、ある建物の前に到着する。玄関のうえには、HOTEL DEUTSCHER HOF という文字が見える。ホテルの部屋の窓を開け、群衆に向かって姿を見せるヒトラー。いかにも満足そうである。
 ――こんな感じで、映画は続く。この間、たえず音楽が流れているが、一切、ナレーションはない。これは最後まで同様である。ただし、群衆の歓声が音楽にかぶさることがある。また、演説の場面では、その音声が流され、音楽は消える。

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ユンカース Ju52と映画『意思の勝利』

2018-08-28 03:34:13 | コラムと名言

◎ユンカース Ju52と映画『意思の勝利』

 今月四日、スイスのJuエアが運用する航空機・ユンカース Ju52/3mg4eが、アルプス山脈のピーツ・ゼーグナスに墜落し、乗員乗客二〇人全員が死亡した。
 私は、このニュースを、東京新聞の記事「太郎の国際通信」(執筆は木村太郎氏)で知った(今、その新聞が見つからないので、掲載日等が確認できない)。
 その日の「国際通信」で木村太郎氏は、ユンカース Ju52というのは、一九三〇年代に開発された古い飛行機で、それが今でも使われていたことに驚いたと書いていた。また、レニ・リーフェンシュタール監督が製作した、ナチ党の記録映画『意思の勝利』(一九三五)の冒頭に、この飛行機が登場することを紹介していた。
『意思の勝利』のDVDは持っているが、まだ観賞したことがない。この「国際通信」を読んで、にわかに観たくなった。
 映画の冒頭、クレジットに、「1934年 ナチス党大会の記録」、「1934年 9月5日」などとある。そのあとは、雲海のシーン。飛行機の操縦席から撮影しているらしく、前方のエンジンが見える。この撮影機も、たぶん、ユンカース Ju52であろう。
 やがて撮影機は、雲の下に出る。ニュールンベルグの街並みが見える。古風で美しい高層ビルが、いくつも映し出される。中には、ハーケンクロイツがついた垂れ幕を下げているビルもある。
 続いてカメラは、一機の飛行機を捉える。ユンカースJu52である。中央に一基、左右両翼に各一基、計三基のエンジンを積んでいる。機体の横に、D-2600という文字が見える。尾翼には、ハーケンクロイツ。これが、ヒットラー総統の搭乗機らしい。
 さらにカメラは、道路上を隊列を組んで行進する人々を映す。おびただしい数である。党大会にむかう党員たちであろう。【この話、続く】

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朝廷は善光を百済亡命政権の元首に擁立した

2018-08-27 02:59:07 | コラムと名言

◎朝廷は善光を百済亡命政権の元首に擁立した

 利光三津夫氏の論文「百済亡命政権考」(『法学研究』第三五巻第一二号、一九六二年一二月)から、「緒言」を紹介している。本日は、その二回目(最後)。
 昨日、紹介した箇所のあと、改行して、次のように続く。

 大義名分を明かにし、君臣の別をきびしく定めている律令の制下にあつては、王号を称し得るものは、五世以上の皇親に限られている。従つて、臣下の喚び名に「王」の字を用いることは、その訓のいかんを問わず憚らねばならないことであつたと思う。当時臣下にして「王」の字を帯することを聴され〈ユルサレ〉たものは、この百済王氏を除いては、文武の朝の背奈王〈セナノコニキシ〉氏、聖武の朝の高麗王〈コマノコニキシ〉氏があつたのみである。而して、背奈、高麗の二氏が王号を称することを聴されたのは、百済王氏の先例があつたればこそであつて、その先例なかりせば、背奈、高麗氏に王号が聴されるべき筈はない。その理由は以下述べるところによって自ら〈オノズカラ〉明かとなろう。野村忠夫氏の研究によれば、百済王氏は、神亀、天平の間において、その一族は、すべて内位に叙せられるという数少ない貴種の一つであつて、これと比肩しうる貴族は、大化以前よりの大豪族である藤原、多治比〈タジヒ〉、石川の三氏と、この期に賜姓した橘氏との四氏があつたのみであるという(二)。従つて、初めて百済王氏に対して王号を賜与した朝廷は、百済氏を皇親に準ずるものとしてこれを優遇する意向を有したものと観てよいのではなかろうか。
 奈良時代に、百済王氏がこのような殊遇を賜つたのは、百済氏が百済国王の子孫であるからであるといつてしまえば、それまでであるが、それだけでは説明できない事情がある。即ち、新撰姓氏録によれば、高麗王氏は、高句麗好台七世の孫延興王の後であるという。高句麗国王と百済国王との地位を比較すれば、高句麗は百済よりも大国であつたのであるから、高句麗王の方が上位であるべきである。故に百済氏がその王族の子孫たるが故に優待せられたとすれば、高句麗国王の子孫である高麗氏もまた百済氏以上に優待されなければならない。しかるに高麗氏の一族は最初から内位〈ナイイ〉に叙せられることはなく、百済王と比肩される貴種とは見做されていない。また、新撰姓氏録〈シンセンショウジロク〉諸蕃に記載されている諸氏には、後漢の霊帝の子孫であるとか、呉王孫権の子孫であるとか、諸蕃帝王の裔と称する者が少くないが、それらの諸氏はいずれも外位〈ゲイ〉に叙せられた後に、内位に叙せられている。従つて、百済王氏一族のみが、朝廷の殊遇を賜つたことについては、特別の理由が存在したと考えなければならない。
 私は、その理由を探求して、百済王氏がかくのごとき殊遇を賜つたのは、天智の朝において、国際政治上の必要から、わが朝廷がこの氏の祖である百済の善光を、百済亡命政権の元首に擁立しなければならなかつたからであるまいかという考えに到達するに至つた。書紀、続紀の善光に関する記事は頗る簡潔であるが、これを当時の国際情勢に照して解釈してゆくと、わが朝廷は、当時の敵国たる唐、新羅が夫々〈ソレゾレ〉百済、高句麗の王族を擁して傀儡政権を樹立したことに対抗して、善光を日本における百済国の亡命政権の首班に擬した事実が観取せられるのである。
 百済王氏に関する先学の研究は数多いが、善光が、わが国に樹立された百済亡命政権の首班の位置に就いたであろうというようなことを述べたものは曽つて存在しなかつたように思う(三)。また上代における日韓の関係を述べた論著も枚挙にいとまがないが、天智の朝、わが国に百済亡命政権が存在したであろうことを述べたものは見当らない。故にこれは或いは私の創見であるかも知れない。それだけに私としては、それが単なる臆測に止まるものでないことを立証すると同時に、人をしてこの新説を納得せしめるために努力を致さねばならない。故に私は、日本の史料のみに依存せず、ひろく朝鮮及び中国の史料を旁捜して七世紀における東亜の大勢、極東諸国の国際関係を解剖し、日本が善光を首班として百済亡命政権を樹立しなければならなかつた事情を述べ、その国際情勢と見合して書紀、続紀の善光に関する零細の記事を読解するときは、天智の朝に善光を首班とする百済亡命政権が存在した事実を認めざるべからざる所以を論述したが、稚拙の史筆能く人をしてこれを納得せしめ得るや否やを危惧する。冀くば〈ネガワクバ〉、読者の史眼によつて、この平板なる叙述の裡に、七世紀の極東における国際情勢を明瞭に脳裡に描いて、拙文を味読せられんことを。
【注】
(二)野村忠夫氏「律令官人の構成と出自」(大阪歴史学会編「律令国家の基礎構造」所収)参照。
(三)百済王氏にづいては、多くの研究があるが、その中〈ウチ〉出色のものとしては、今井啓一博士「百済王敬福とその周辺」(続日本紀研究四ノ一〇)、「百済王氏と蝦夷経営」(同、五ノ一)、「摂津国百済郡考」(同、五ノ一〇、一一)、「摂津国における諸蕃とその居住地について」(説苑、五ノ三)、「帰化人と河内国」(ひらおか、4、6、7、8、9号所収)、関晃氏「帰化人」(一七〇~一七一頁)等が挙げえられる。しかしこれ等の諸研究は、いずれも持統朝以降の百済王氏、換言すれば、律令国家体制下に、一流の官僚貴族としての地位を与えられた後の百済王氏を主たる対象としたものであつて、百済王氏一族が奈良時代において、何故に一流貴族としての地位を与えられたかという問題については触れるところ殆ど皆無である。

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