礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

杉田水脈議員は、少子化問題に真剣に取り組め

2018-07-31 01:54:50 | コラムと名言

◎杉田水脈議員は、少子化問題に真剣に取り組め

 昨日の続きである。
 杉田水脈議員の発言を読んで、ひとつ疑問に思ったのは、生命の再生産を、「生産」という概念で捉える発想を、いつ、どこで学ばれたのかということである。発言が、これだけ問題になった以上は、その発想の拠ってきたる経済学、哲学などを(もし、そうしたものがあるとすれば)、披露されるよう提案したい。
 大熊信行の場合、生命の再生産を「生産」と捉える自己の経済学を、「国家科学」と呼んだ。これはあくまでも、総力戦体制という国家の存亡が懸かる事態の中で、出るべくして出た「科学」であった。一方、杉田議員の「生産性」発言もまた、「少子化」という日本社会の存亡が懸かる事態の中で、出るべくして出た「発言」だったのだろうか。杉田議員に、もし、そういった危機感があるのであれば、国民にむかって、ハッキリとその危機感を表明すべきである。
 私見によれば、今日の「少子化」問題を招いた最大の要因は、この数十年間の自民党政権が推進してきた、競争原理主義と自己責任路線である。競争原理主義と自己責任路線がゆきすぎた結果、将来をになうべき若者の多くが、「結婚し、子どもを産み、子どもを育てる」ことへのゆとりと意欲を失っているのだ。もし、杉田議員が、「少子化」という事態に危機感を抱き、政治家として、この問題に真剣に取り組もうと考えておられるのであれば、批判を向けるべき対象は、「LGBT」支援者ではない。この数十年間、競争原理主義と自己責任路線を推進してきた自民党政権である。
 杉田水脈議員に申し上げておこう。もしあなたが、「少子化」の問題に、真剣に、かつ全力で取り組もうと考えておられるのであれば、「LGBT」問題などにコメントしているヒマはない。「LGBT」問題は、少子化問題のホンスジではない。あなたが政治家としてなすべきことは、住宅環境の改善、労働環境の改善、賃金・諸手当の改善、長時間労働の是正、産休・育休制度の拡充、保育制度の抜本的な改善、教育の完全無償化などの課題について、実効性のある対策を提案するとともに、その実現を図るべきである。これが問題のホンスジである。つまり、これまで、自民党政権が推進してきた競争原理主義・自己責任路線を転換し、それとは真逆の社会福祉路線を推進する以外にないと思うが、いかがであろうか。

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杉田水脈議員の「生産性」発言と大熊信行の「生産」の経済学

2018-07-30 00:29:22 | コラムと名言

◎杉田水脈議員の「生産性」発言と大熊信行の「生産」の経済学

 杉田水脈〈ミオ〉衆議院議員の「生産性」発言が話題になっている。後学のために、私も、『新潮45』に掲載された〝「LGBT」支援の度が過ぎる〟と題する記事を読んでみた(ただし、ネット上にアップされたもので)。
 問題とされているのは、たぶん次の箇所であろう。

 例えば、子育て支援や子供ができなカップルへの不妊治療に税金を使うというのであれば、少子化対策のためにお金を使うという大義名分があります。しかし、LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない、つまり「生産性」がないのです。そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか。にもかかわらず、行政がLGBTに関する条例や要項を発表するたびにもてはやすマスコミがいるから、政治家が人気とり政策になると勘違いしてしまうのです。

 ここで、「生産性」という言葉が使われているのを見て、私は、大熊信行〈オオクマ・ノブユキ〉が、戦争中に提起した「生産」の経済学を思い出した。
 今、大熊信行が、それを提起していたと記憶する『国家科学への道』(東京堂、一九四一)が、すぐには探し出せないので、そのかわりに、思想史家の河原宏が、大熊信行の経済学について解説している文章を紹介することにしたい。
 以下は、河原宏著『昭和政治思想史研究』(早稲田大学出版部、一九七九)の第Ⅱ部「資源と生活」の第八章〝「戦時下民衆の「生活」と生活科学〟の〝四 社会科学における「生活」〟からの引用である。

    社会科学における「生活」
 大熊信行によると、日本で最初に学問的著述の中で生活科学という言葉が用いられたのは一九三一年に出版された赤松要の著書においてであるという。その後、宮田喜代蔵、大熊信行らもそれぞれ個別に生活科学という構想に近づき、大河内一男も社会政策学の立場から生活の論理を探求する方向へ進んでいった。大熊は彼自身が生活科学という着想をえたのは一九三〇年ごろとのベているが、少くも経済学の研究に携わる前三者に共通していた発想は価格科学としての経済学が見失ったものを、生活科学において再発見しようとする試みだったという。
 それでは既存経済学批判としての生活科学とはなにを意味し、どのようなものとして構想されたのか。ここでは大熊信行の所説を中心に辿ってみよう。出発点は既存経済――そこにはマルクス主義経済学も含められるが、特に近代経済学の――批判におかれる。既存の経済学はすべて物財中心の科学であり、したがって価格科学である。この点で経済学は人間中心の科学であることをやめ、生活が見失われている。例えば同じ食物を調理しても、それがレストランで行なわれれば営利を目的とした生産行為であり、家庭の台所で主婦が行なえば消費行為である。同様に仕立屋が衣料を裁てば生産であり、家庭での裁縫は消費である。この区分けは経済学では当然の常識となっており、それにとって基本的な概念である生産、生産者、生産財、生産力などの用語、また反対に消費、消費者、消費財、消費経済などの言葉もすベてこの思考法によって律せられている。かくて人は家庭においては完全に消費者として扱われ、家庭経済は消費経済以外のなにものでもなく、経済学の思考対象としてはほとんど排除されて、関心の的にもならない。なぜなら、家庭生活は営利を目的としたものではなく、物財中心にではなく、人間中心にくみたてられているものだからである。このような家政経済に注目しない点ではマルクス主義経済学もあまり変わらない。だがこのような思考法は経済学にとってはいかに当然であっても、常識的には奇妙な、むしろ「奇怪で滑稽な」観念であろう。その根本は経済学があくまで生産を営利目的と結びつけている点にある。だが果して生産とはそのようなものか。こうして「生産」という概念の根本的な再検討が求められる。
 大熊によれば生産とは単に物財をつくることだけではなく、もともとは生命に関する言葉であり、生命が育つこと、人間を産み、育てることを意味したという。したがって生産過程には人間の生産と物の生産という二つの系列があり、そのうちでより重要なものはいうまでもなく人間の生産および再生産である。因みに英語のreproductionには再生産と生殖という意味がある。人間の再生産とは生命の存続方式にほかならない。【以下、略】

 杉田水脈議員の言う「生産性」は、あきらかに、生命の再生産(生殖)を意識したものである。これは、大熊信行の発想と共通するところがある。本日は、とりあえず、このことを指摘しておこう。それ以上のコメントは、次回。

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斯鬼宮(シキミヤ)の鬼は、城(キ)の意味(村山七郎)

2018-07-29 06:38:50 | コラムと名言

◎斯鬼宮(シキミヤ)の鬼は、城(キ)の意味(村山七郎)

 昨日は、福田芳之助著『新羅史』(若林春和堂、一九一三)から、「新羅の国号に就て」というところを紹介してみた。
 ここで、福田は、「韓語」の「キ」と日本語の「キ」を比較していた。これは要するに、この時代の「韓語」と日本語との間には何らかの共通性があったという認識を、福田が持っていたことを示している。
 さて、福田はここで、「キ」を「城」の意味に解する説を退けていた。しかしこれは、今から一〇〇年以上も前に示された見解である。今日の学問的到達点から見て、この福田の見解が、なお妥当と言えるのかどうかは微妙であろう。
 とはいえ私が、その「今日の学問的到達点」というものを把握しているわけではない。たまたま、言語学者の村山七郎(一九〇八~一九九五)が、「城〈キ〉」について述べている文章を見つけたので、本日は、これを紹介してみたい。この文章は、村山七郎の論文「稲荷山金石文について」(村山七郎+国分直一『原始日本語と民族文化』、三一書房、一九七九、所収)の一節である。

 九、城【キ】について
 今回の金石文〔稲荷山金石文〕は、雄略天皇の役所(寺)が斯鬼宮【シキミヤ】にあったことを述べる。シキというのは石城【シキ】(=磯城【シキ】)のことである。シキも初期においては、普通名詞の性質を帯びていたのではないかと思われる。鬼はその音価から見て後世の乙類キを表わしたことは明らかであり、「城【キ】」(乙類キ)の意味であることも明らかである。
 ところで、朝鮮の史書『三国史記』(一一四五年に高麗の金富軾らの書いたもの)巻第三十六によると、悦城県はもと百済で悦己県と言ったのを、新羅の景徳王(七四二-七六四)が改めたのであり、また潔城郡はもと百済で結己郡と言ったのを景徳王が改名した、とある。ここから、「城」を百済語で己(古音kieg)で表わし(己は『日本書紀』で一個所、キ乙類を表わすのに用いられている)、これは古代日本語のki「城」に対応することは疑いない。
 それでは、日本語ki「城」は百済語からの借用語であろうか。四世紀に多沙鬼【タサキ】 (多沙城)があり、百済に近い任那の地にあったのであるから、その可能性は否定できない。しかし日本が任那の経営に着手する四世紀より前に、私の言う「倭の言語Ⅰ」の中に城【キ】ということばがあって、それが朝鮮半島から日本に到来したときに日本にはこばれた可能性もあろう。
 三七〇年ころ(タサキワケの活動したのは、そのころ)の日本語の片鱗がわかってきたので、「倭の言語I」の現実性も増してきたように思われる。

 引用文中、kiegのeは、eをひっくり返した字である。また、二か所、出てくるkiのiは、頭の点が左右二つある字である。
 ここで、村山七郎は、「倭の言語Ⅰ」という言葉を使っているが、これは、村山独自の用語で、かつて朝鮮半島で使われていた日本語の祖先に当たる言葉のことである。
 またここで、村山は、斯鬼宮【シキミヤ】の鬼は、城【キ】の意味だろうという見解を示している。この説は、かつて福田芳之助によって退けられたものである。おそらく村山は、福田説のあることを知らず、その上で、このように述べたのではあるまいか。

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新羅(シラキ)における「キ」の意味について

2018-07-28 01:35:01 | コラムと名言

◎新羅(シラキ)における「キ」の意味について

 福田芳之助著『新羅史』(若林春和堂、一九一三)の紹介を続ける。本日は、同書の第一期「創業時代」の第二章「徐羅伐の六村」のうち、「七 新羅の国号に就て」のところを紹介してみたい。

    新 羅 の 国 号 に 就 て
 新羅の称は、一都市の名の、遂に変じて国名と為れるものにて、即ち王城の義なること、前に述べたれば、此〈ココ〉には之を「シラギ」と訓ずるに就いて述ぶべし。新羅また斯盧或は新盧、薛羅、とも記す、何れも「シロ」或は「シラ」の発音なり、而るに本邦にては、出雲風土記の志羅紀、姓氏録の新良貴を始め、一般に「シラギ」と訓めり〈ヨメリ〉。但し日本紀の傍訓によるも、上代は「ギ」を清音にて云ひたるらし、斯る〈カカル〉例は他にも甚だ多し。
 さて「キ」は如何なる意義なるかといふに、従来二説あり。第一説は、「キ」は「クニ」の約なりとあれども、百済高麗を「クタラキ」「コマキ」といひたる例もなければ、新羅をのみ斯く〈カク〉云はんは如何にとの不審もありて、此説は左程〈サホド〉信用せらるゝに至らず。第二説は、「キ」は城【キ】にして即ち新羅城【シラキ】なりとあり、之を細別すれば更に二と為る、一は徐羅伐〈ソラホル〉の伐は、韓語城邑の義なるを以て、之を日本語に訳して、新羅城【シラキ】と云ふといひ、一は半島の古音にも、城を「キ」と訓すと云ふなり、思ふに此両説亦必ずしも然らざるが如し。
 半島の古地名に、熊只県、多斯只県、闕支郡、伊伐支見、青巳県、伐音支県等、「キ」を附するもの枚挙に遑〈イトマ〉あらず。また狗盧【コロ】県を古禄只【コロキ】県、蘇離【ソリ】国を所力只【ソリキ】県、官阿良支停を北阿良停、熊只県を熊神県とも云ひて、同一の地名に、「キ」を或は附し或は附せざることあれば、第二説の乙案は、一応尤なる説の如くなれども、語尾に「キ」音を附着し、或は省略する例は、単に地名には限らず、人名にも、爵名にも、物名にも存するなり。例を挙げて之を云はんに、垂仁紀に大加羅国の王子に勅勑し御間城【ミマキ】天皇の御名を取りて爾〈ナンジ〉が国の名と為せよとあり、去れば国名を「ミマキ」とこそ呼ぶべく思はるゝに、「キ」を略して「ミマナ」と呼べり。次に応神紀に、辰韓より帰化したる秦氏の祖弓月【ユツキ】君とあるを、姓氏録には融通【ユツ】王とも記し、同じく応神紀に、百済の王子阿直支【アジキ】とあるを、古事記には阿知吉師【アチキシ】(吉師は敬称にして名に非ず)とも見えたり。又神功紀に、微叱己知波珍干岐【ミシコチハトリカムキ】、卓淳王未錦旱岐【マキムカムキ】の名あり、波珍干岐は爵名、旱岐は敬称にして、南史新羅伝にも、其官子賁旱岐、壱旱岐、齊旱岐、謁旱岐、壱吉旱岐、奇貝旱岐とあれども、韓史には、波珍干岐を波珍干、子賁旱岐を舒弗邯、壱旱岐を伊尺干、齊旱岐を迊干、謁旱岐を阿干、壱吉旱岐を一吉干、奇貝旱岐を及伏干と記し、すべて岐を省略せり。更に現代語に徴すれば、月を「タル」、唾【ツバキ】を「チユム」と云ふ如く、国語には、「キ」の尾音を附するものも、朝鮮語にては、他音に代へ、また鶏を「タルキー」、雁を「キーローキー」、鳩を「ピーダルキー」など、反対に「キ」を附する例もあり。次に本邦のみの例を挙ぐれば、出雲風土記に、素戔嗚尊を熊野加武呂命(神祖の義)と云ひ、出雲国造神賀詞には、伊奈伎の日真名子、加夫呂岐熊野大神とありて、加武呂加夫呂岐同一の語なるを知るべく、また泥の古語を、「ウ」とも「ウキ」とも云へる事見ゆ。地名にては奈良を寧楽とも記すれども、同時代の紫香楽宮は、「シガラキ」と訓みて同じ楽字を充つる〈アツル〉に係はらず、一は「キ」を附し一は附せず、相楽を「サガラ」とも「サガラク」とも云ひ、邑楽を「オホラ」とも「オホラギ」と本云ふ皆是〈コノ〉類なり。
 是等の例によれば、「キ」は何等の意義を有せざる一種の余音にして、彼我〈ヒガ〉共に或は附し或は附せざることあれども、言語の性質に、何等の加功を為すものにあらず、唯半島にては多く之を打消さんとし、本邦にては務めて之を言ひ表はさんとする傾〈カタムキ〉あるのみ。去れば新羅を「シラキ」と訓するも、亦之に外ならずして、国或は城の義に非ざること、自ら明白なるべし。
 序に云はんに、地理志に、闕城郡本闕支郡、景徳王改名、今江城県、「潔城郡本百済結巳郡、景徳王改名、今因之」、悦城郡本百済悦巳県、景徳王改名、今定山県等あり。是れ「キ」を城と解する一の論拠ならんなれども、此は支或は巳を訳して城と為したるにはあらず、「キ」は即ち有るも無きも差支〈サシツカエ〉なき余音にして、闕支は闕、結巳は結、悦巳は悦の一字に等しきものなり。而るに景徳王時代には、新羅の制度文物大に整ひ、地名の如きも、成るべく従来の土音を廃して、雅馴〈ガジュン〉なる漢風に改めんとするに至り、闕或は悦の一字にては甚だ妙〈タエ〉ならず、遂に何れの地名にも固有せる城字を配合して、之を闕城、潔城、悦城と為したること恰も〈アタカモ〉我〈ワガ〉元明天皇和銅六年、諸国郡県名は好字を著けよ〈ツケヨ〉と勅して、一字名のものは、二字に改められたるに異なる事なし。去れば支或は巳ならざるも、一字名のもの、或は土音にて称呼に便ならざるものは、其中の一字を取りて、之に城字を附したること、槥郡を槥城郡、基郡を富城郡、豆伊郡を杜城郡、古尸伊郡を岬城郡、豆尸伊県を伊城県等、類例数多ありて、支の城に非ざること是にて明かなるべし。

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福田芳之助著『新羅史』(1913)の「序」を読む

2018-07-27 01:40:05 | コラムと名言

◎福田芳之助著『新羅史』(1913)の「序」を読む

 今月一七日のブログで、福田芳之助著『新羅史』(若林春和堂、一九一三)を紹介した。この福田芳之助という歴史家については詳しくない。また、『新羅史』という本の学問的な価値もよくわからない。
 本日は、同書の「序」を読むことで、福田芳之助とその著書『新羅史』について、多少なりとも知見を深めてみたい。なお、「序」を執筆しているのは、支那哲学の泰斗・服部宇之吉(一八六七~一九三九)である。


古人書ヲ著スヤ、往往之ヲ名山石室ニ蔵セリ、蓋シ聞達〈ぶんたつ〉ヲ当世ニ求メズシテ、知己ヲ後代ニ待テバナリ、故ニ其書ニ於ケルヤ、拮据〈きっきょ〉構思惨憺設想、必ズ畢生〈ひっせい〉ノ心血ヲ注ギテ、然ル後ニ成レリ。後人ハ則チ功名ニ急ニシテ、復タ古人ヲ追蹤〈ついしょう〉スルコト能ハズ、是ヲ以テ述作愈々多クシテ、其能ク後ニ垂ルモノハ則チ愈々少シ〈すくなし〉、当今ノ時、古人ニ比スベキ者ヲ求ムルモ、復タ容易ニ之ヲ得べカラズ、今乃チ福田君ニ於テ之ヲ得タリ。君夙ニ〈つとに〉朝鮮語ヲ修メ、因リテ朝鮮史ノ研究ニ志シ、公余群籍ヲ渉猟ス、尋デ〈ついで〉朝鮮ニ駐マルコト数年、遂ニ職ヲ辞シテ、宣ラ研究ニ従ヒ、前後三十有余年、朝鮮史中最モ明ニシ難シ〈あきらかにしがたし〉ト称セラルル上古史ノ研究ヲ大成ス。知友金玉ノ作、空シク篋底〈きょうてい〉ニ秘セラルルヲ惜ミ、之ヲ世ニ公ニセンコトヲ勧ム、君輙チ〈すなわち〉研鑽未ダ到ラズ、肯テ估〈こ〉ヲ求メザルヲ以テ辞ス。適々〈たまたま〉韓国併合ノ事アリ、日韓上古ノ関係ヲ明ニスルコト、最モ必要ナルノ機ニ会ス、知友前言ヲ反復シテ、慫慂〈しょうよう〉スルコト再三、君乃チ慨然之ニ従ヒ、稿本ニ就キ大ニ筆削ヲ加へテ、之ヲ印ニ附セシム。考据ノ精確、剖析ノ犀利、論断ノ妥当ナルコトハ、已ニ〈すでに〉専門史家ノ推称スルトコロタリ、予輩外漢復タ何ゾ蛇足ヲ添へン。但君ノ篤学ナル、夙ニ栄職ヲ抛チテ筆硯ヲ友トシ、名利ニ澹ナル研鑽三十年、肯テ蘊蓄〈うんちく〉ヲ発露セザリシ事ハ、予輩ノ最モ敬服シテ措カザルトコロニシテ、又此書ニ就キテ、特ニ推称セント欲スルトコロナリ。人能ク福田君ノ心ヲ以テ心ト為シテ、此書ヲ読マバ、其得ルトコロ ノ教訓ハ、豈ニ〈あに〉纔ニ〈わずかに〉朝鮮上古ノ史実ノミナランヤ、今ニ於テ、古人ノ風ヲ見ルヲ得タルヲ悦ビ、一言以テ此書ヲ読ム者ニ告グト云爾〈しかいう〉。
 大正二年二月二十三日
         文学博士 服 部 宇 之 吉識

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