礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

鈴木貫太郎の遺稿「嵐の侍従長八年」を読む

2023-01-11 03:58:16 | コラムと名言

◎鈴木貫太郎の遺稿「嵐の侍従長八年」を読む

 本日以降、『特集文藝春秋 天皇白書』(一九五六年九月)から、鈴木貫太郎の回想記「嵐の侍従長八年」を読んでみたい。これは、鈴木貫太郎の「遺稿」だという。

 嵐 の 侍 従 長 八 年
    吹き荒ぶ昭和維新の嵐に抗し、二・二六の凶弾にも
    屈せず、天皇に仕えた武弁一辺の古稀までの八年間
    の秘録を記述する元総理大臣、海軍大将の遺稿

  微妙な宮中席次【略】

  陛下の御先見【略】

  田中義一の苦衷
 田中義一内閣の辞職の問題は、私が侍従長になる前に起つたことで、田中総理大臣から張作霖〈チョウ・サクリン〉を殺したのは日本の陸軍の将校がやつたことで、これを軍法会議に附して厳格な処置を取らなければならないということを上奏している。その事柄は西園寺公望さんや牧野〔伸顕〕さんにも話してあつた。ところがそれを実行するのに田中義一総理大臣は非常に骨を折つた。当時の内閣諸公が、そうすると日本陸軍の名誉を傷つけるということになり、日本の国辱になるから荒立てずに片附けなければならないと、田中君の決心に対して反対した。その為に田中総理の意見は陸軍及び内閣諸公によつて阻まれて実現することが出来ないでいた。その中〈ウチ〉に反対党の民政党から張作霖事件の実情を話せとしきりに迫つて来た。そこで白川義則〈シラカワ・ヨシノリ〉陸軍大臣は、あれは支那人がやつたので日本の陸軍がやつたのではない。併しその駐在軍の権域内で起つたことだから駐在武官は行政処分に附する。と云つたような事で議会に臨もうとした。そしてその事を白川君は陛下に上奏した。
 そこで陛下は先に総理大臣が上奏した事と全く違つた上奏を陸軍大臣がしたので、田中総理の拝謁の際にその両人の上奏の食運いを詰問されたので、田中総理は恐懼〈キョウク〉して御前を退下〈タイゲ〉してからその事を私に話した。そして自分は辞職すると云うのだつた。それに対して私は真に気の毒なことだと思つたが、侍従長として何等返事することが出来ない。勿論総理の上奏には侍従長は侍立したのではない。上奏の際の様子は自分には少しも判らない。総理は内々に私に話されたであつた。
 これが田中内閣の辞職の原因であるが、その時の情勢を後から聞けば、内閣にもいろいろな議論が湧いて、内閣の辞職を総理が一存で決めるのはいかん、今一応事情を申上げて辞職しないように取計らいたいという意見もあつた。田中総理は自分は心が萎えて〈ナエテ〉それは出来ないと断つたと云う。そんなことがあつたからだろう、閣僚の二三が私を訪ねて来て、陛下と総理の間に入つて、お執りなしをしては貰えまいかと云う。私は、それは違う。侍従長はそういう位置ではない。侍従長は総理の洩らされたのを聞いただけで、それ以上は侍従長としてどうしようという事は出来ないと云つて断つた。
 張作霖事件は今日になつて見れば明らかに日本人のやつたものだということが判る。政治家が正直にそれを認め率直に中外に告げたなら、国辱どころか、正義の上に立ち大道を行く政治家として却つて信用が高まつたであろうに、陸軍や政党が臭い物に蓋をする式なやり方をする、公明正大ではない政治、この腐敗が今日をもたらした遠因であろう。私は当時の田中総理に同情する者だが、あの当時政友会の一方では内閣の辞職を宮中の陰謀だと云い、牧野や鈴木〔貫太郎〕が政友会内閣を倒したのだと云つたものである。自己の不正不義を棚に上げてそういう宣伝をしたのであつた。【以下、次回】

 張作霖爆殺事件が起きたのは、一九二八年(昭和三)六月四日、鈴木貫太郎が侍従長に就任したのは、一九二九年(昭和四)一月二二日、田中義一内閣の総辞職は、同年七月二日である。当時、西園寺公望は「最後の元老」で、牧野伸顕は内大臣だった。
 なお、波多野澄雄氏の『宰相鈴木貫太郎の決断』(岩波現代全書、二〇一五年七月)によれば、昭和天皇による田中義一問責(一九二九年六月二七日)は、事前に、牧野伸顕内大臣、鈴木貫太郎侍従長らの間で「協議」が進んでいたという。ただ、牧野と鈴木が、この件で元老の西園寺公望に相談すると、西園寺の意見は、「天皇による首相問責は、明治天皇時代から先例がなく、首相の進退に直接関係するので控えるように」というものであった(七ページ)。

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