礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

ウィキペディア「金子堅太郎」の項の問題点

2023-01-30 01:14:34 | コラムと名言

◎ウィキペディア「金子堅太郎」の項の問題点

 今年になって、ウィキペディア「金子堅太郎」の項を閲覧して驚いた。親交のあった軍人・加藤寛治(ひろはる)の名前が出てこない。ロンドン条約、国体明徴問題、天皇機関説という言葉も出てこない。
 参考文献に、藤井新一の大著『帝国憲法と金子伯』(大日本雄弁会講談社、一九四二)が入っていない。伊東隆ほか編『続・現代史資料 5』〔海軍 加藤寛治日記〕(みすず書房、一九九四)が入っていない。飯田直輝「金子堅太郎と国体明徴問題」(『書陵部紀要』第60号、二〇〇九年三月)も入っていない。礫川全次『日本保守思想のアポリア』(批評社、二〇一三)が入っていないのは仕方ないとしても、清水伸『維新と革新』(千歳書房、一九四二)が入っていないのは、なぜなのか。
「金子堅太郎」の項を執筆しているのが、どういう方かは知らない。しかし、同項においては、金子堅太郎という官僚・政治家における「負」の側面が、巧妙に隠蔽されている。
 特に問題だと思ったのは、次の記述であった。

生涯にわたり、日米友好のために尽力しており、上述のジュネーヴ国際会議出席後はアメリカを経て帰国しており、帰国後、渡米中に調査したことをまとめて「トラストの利害」「米国経済と日本興業銀行」等を発表。日本において憲法制定の功により男爵となった後、ハーバード大学から憲法制定等の功績により名誉法学博士号(L.L.D)を受けている。米友協会会長、日米協会会長を歴任した後、賀川豊彦・松田竹千代・三木武夫らとともに「日米同志会」を立ち上げて会長となる。晩年には日米開戦を憂慮していた。

「晩年には日米開戦を憂慮していた」というのは、本当なのだろうか。
 金子堅太郎が、米友協会会長、日米協会会長を歴任したというのは事実である。しかし、その金子が、加藤寛治海軍大将と連携協力しながら、昭和前期の日本における政情、あるいは世論を、反米反英の方向に誘導していった歴史的事実は、否定できない。また、対米英開戦を聞いた最晩年の金子が、「聖戦完遂のためには米英を撃つて、八紘一宇の大御心を以て四海を光被すべきだ」と述懐した、としている文献もある。【この話、続く】

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