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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

『民法解題物権』(1916)と曄道文藝

2025-03-31 00:55:43 | コラムと名言
◎『民法解題物権』(1916)と曄道文藝

 昨日の話の続きである。
 国立国会図書館のデータによれば、今日、同図書館に架蔵されている弘文堂の出版物の中で最も古いのは、1916年(大正5)8月発行の『憲法解題』で、その次に古いのは同年11月発行の『民法解題物権』である。両書の編纂者は、ともに弘文堂編輯部となっている。そして、三番目に古いのは、1917年(大正6)3月1日に発行された河上肇著『貧乏物語』である。
 この1917年(大正6)3月1日という年月日は、ウィキペディア「貧乏物語」の項に拠った。国立国会図書館が架蔵している『貧乏物語』は、1917年(大正6)4月発行の第7版だが、これがインターネット公開されていないので、初版発行の年月日は確認できていない。
 ちなみに、4番目に古いのは、1917年(大正6)4月に発行された小川郷太郎著『経済講話』である。小川郷太郎(おがわ・ごうたろう、1876~1945)は、大正昭和期の財政学者・政治家で、同書刊行時は、京都帝国大学経済学部教授、法学博士であった。
 これら四冊のうち、『民法解題物権』に注目してみよう。「凡例」によると、弘文堂書房は、当時、高等文官・外交官・判検事・官私立法科大学の受験者を対象とした「受験提要」を分冊の形で発行しており、『民法解題物権』は、そうした分冊のひとつであった。
 その巻頭には、京都帝国大学法科大学教授・曄道文藝(てるにち・ぶんげい、1884~1966)による「物権法ニ就テ」という講説が置かれている。同書の奥付には、「編纂者 弘文堂編輯部」とあるが、実質的な編纂者は、この曄道教授であった可能性もあるだろう。
 いずれにしても、弘文堂の八坂浅次郎は、こうした「受験提要」の出版を通して、京都帝国大学法科大学の教授たちと、一定の交際があったはずである。八坂が、河上肇から『貧乏物語』出版の了解を得られたことは、それほど意外なことではな
 なお、『民法解題物権』に先行して発行された『憲法解題』には、「講説」に相当するものがない。京都帝国大学法科大学教授の名前も出てこない。しかし、この『憲法解題』の編纂にあたっても、学者の協力は不可欠だったろう。八坂は、京都帝国大学法科大学に赴き、憲法学担当教授の市村光恵(いちむら・みつえ、1875~1928)、行政学担当教授の佐々木惣一(1878~1965)あたりに、協力を求めていたのではなかったか。

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河上肇『貧乏物語』と弘文堂

2025-03-30 00:49:51 | コラムと名言
◎河上肇『貧乏物語』と弘文堂

 昨年の五月ごろ、世田谷区内の古書店で『回想の河上肇』(世界評論社、1948)という本を買い求めた。佐々木惣一、瀧川幸辰、恒藤恭、安田徳太郎、津田青楓、末川博、宮川實、長谷部文雄ほかの人々が、回想文を寄せていた。
 本日は、これらの回想文から、津田青楓(つだ・せいふう、1880~1978)の「河上さんの風貌と女の話」を紹介してみたい。ただし、紹介するのは、一から四まで四節あるうちの「二」のみである。

 河上さんの風貌と女の話   津 田 青 楓

          【略】

        
 話と云へば、私なんか一介の画かきで経済学も社会学も知らないのみか、ろくすつぽ学校もやつてゐないのだから相手としては全くとるに足らない話相手なんだが、ただ河上さんは画が好きだつたからまあどうにか話があつた訳なんだらう。
 河上さんは中途半端な学問をしたものより一層まるきり何も知らないものの方が好きのやうだつた。
 例の弘文堂の親爺といふのが全くの無学文盲で、山だしの百姓そつくりといふ風貌なんだ。掌は土いぢりをしてゐる者のやうにゴワゴワして、めうへの人の前に出るときは全面的な謙遜ぶり、腰がひくく、七重の膝を八重に折りと云つたやうなお辞儀の仕方で、何を云つてもただハイハイと肯定するばかりで、意見がましいことは何一つ言はない。河上さんは、之が非常に気に入つたらしかつた。そして、当時中央公論社や改造社や岩波やのインテリ書肆がうようよと鵜の目鷹の目で餌をあさつてゐるなかを一介の露店商人に『貧乏物語』の出版権をまかされたと云ふことはイデオロギーのせゐでなく人物が好きだつたのだらう。
 弘文堂は当時露店で古本をあきなつてゐた平凡な親爺だつたんださうだ、しかし無学な露店商人が河上さんの『貧乏物語』に目をつけ、兎も角も〈トモカクモ〉紹介状もなにも持たずに大学の先生を訪ねて出版を頼んだところは何か特別な才能があつたと思はれる。

          【略】
          【略】

 ここで津田青楓は、「弘文堂の親爺」について、いろいろと語っているが、その親爺の名前さえ記していない。
 ウィキペディア「弘文堂」の項によれば、弘文堂の創業者は、八坂浅次郎(1876~1948)で、同社の創業は、1897(明治30)だったという。
 また、ウィキペディア「貧乏物語」の項によれば、河上肇の『貧乏物語』が出版されたのは、1917年(大正6)3月で、当時の社名は、「弘文堂書房」だった。
 津田は、一介の露店商であった「親爺」が、紹介状も持たずに河上肇を訪ね、『貧乏物語』の出版権を得たかのように書いているが、津田のこの認識は、たぶん誤っている。
 弘文堂(弘文堂書房)が、創業以来、どんな本を出版してきたかは詳しくない。ただ、大正年間に、法律関係の受験参考書を分冊形式で発行していたことは間違いない。それら参考書の中には、京都帝国大学法科大学の教授が寄稿しているものもあった。八坂は、同大学に知り合いの教授を持っていた。彼は、そうした教授の紹介を得て、河上を訪ねたのではないだろうか。【この話、続く】

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  • レプチャ人の顔は日本人そのまま(安田徳太郎)
  • ある予審判事が体験した二・二六事件



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礫川ブログへのアクセス・歴代ベスト35(25・3・29)

2025-03-29 04:20:47 | コラムと名言
◎礫川ブログへのアクセス・歴代ベスト35(25・3・29)

 本日は、礫川ブログへのアクセス・歴代ベスト35を紹介する。
 順位は、2025年3月29日現在。なおこれは、あくまでも、アクセスが多かった日の順位であって、アクセスが多かったコラムの順位ではない。

1位 2016年2月24日 緒方国務相暗殺未遂事件、皇居に空襲
2位 2015年10月30日 ディミトロフ、ゲッベルスを訊問する(1933)
3位 2019年8月15日 すべての責任を東條にしょっかぶせるがよい(東久邇宮)
4位 2024年11月20日 佛、魔、塔などは、新たに作った文字
5位 2016年2月25日 鈴木貫太郎を救った夫人の「霊気術止血法」
6位 2018年9月29日 邪教とあらば邪教で差支へない(佐藤義亮)
7位 2024年11月21日 鉢は、梵語パトラー(Patra)の音写
8位 2016年12月31日 読んでいただきたかったコラム(2016年後半)
9位 2023年12月14日 大江健三郎氏は「一本調子」がかなり改まっている
10位 2024年8月17日 礫川ブログへのアクセス・歴代ベスト50(24・8・17)

11位 2014年7月18日 古事記真福寺本の上巻は四十四丁  
12位 2024年7月3日 その一瞬、全身の毛穴がそそけ立った(山田風太郎)
13位 2021年8月12日 国内ニ動乱等ノ起ル心配アリトモ……(木戸幸一)
14位 2021年6月7日 山谷の木賃宿で杉森政之介を検挙
15位 2024年7月4日 「おばさん、日本は負けたんだ」山田風太郎
16位 2018年8月19日 桃井銀平「西原鑑定意見書と最高裁判決西原論評」その5
17位 2017年4月15日 吉本隆明は独創的にして偉大な思想家なのか
18位 2021年3月4日 堀真清さんの『二・二六事件を読み直す』を読んだ
19位 2018年1月2日 坂口安吾、犬と闘って重傷を負う
20位 2019年8月16日 礫川ブログへのアクセス・歴代ベスト30(19・8・16)

21位 2024年8月19日 陛下のために弁護をする余地すらない(近衛文麿)
22位 2018年8月6日 桃井銀平「西原学説と教師の抗命義務」その5
23位 2022年12月30日 読んでいただきたかったコラム10(2022年後半)
24位 2024年8月15日 御座所にはRCAのポータブルラジオが……
25位 2017年8月15日 大事をとり別に非常用スタヂオを準備する
26位 2023年3月9日 松蔭を斬り、雲濱を葬りたる幕府当局を想起す(愛国法曹連盟)
27位 2023年12月12日 かうした地方を私は一型アクセントの地方といふ
28位 2018年8月11日 田道間守、常世国に使いして橘を求む
29位 2025年3月21日 カルトの手口は巧妙です(杉本繁郎)
30位 2024年9月14日 A・フジモリ元大統領の訃報

31位 2022年8月2日 朝日平吾は昭和テロリズムの先駆か
32位 2024年8月18日 近衛文麿公は、独り晩秋の軽井沢に赴いた
33位 2022年12月20日 「開帳は夜ふけに限る」と敬道師はいった
34位 2017年1月1日 陰極まれば陽を生ずという(徳富蘇峰)
35位 2024年6月19日 国難ここに見る、弘安四年夏の頃

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三文字さんが遺骨の奪取を計画(林逸郎)

2025-03-28 00:58:52 | コラムと名言
◎三文字さんが遺骨の奪取を計画(林逸郎)

 林逸郎『闘魂――東京裁判と橋本欣五郎』(1956、考現社)から、「東京裁判秘話」という文章を紹介している。本日は、その五回目(最後)。

   七つの棺に祈る
 ツイこの頃、復員局から、絞首台で散つた七被吿の遺骨が遺族らに引渡され、その儀式には私も馳せ参じた。しかし、この遺骨が、どんな経路で帰つてきたのか、私はそれを知らない。
 とは云え、死刑が執行されたことだけは事実だ。判決のあつた年(昭和二十三年)の十二月二十三日の未明、巣鴨プリズンで、アメリカ大使(シーボルト氏)、中国大使、ソヴィエット代表らの立会で執行されたのだ。
 手錠がはめられたままだつたので、最後の葡萄酒は頭をつけて呑まなければ口に這入らなかつたそうだ。
    天皇陛下万歳
 と、一人一人が力のかり叫んだ。しかし、その手は手錠のため胸より上にはあげ得られなかつた、と云われる。
 七ツの寝棺〈ネカン〉は、幌自動車に乗せられ、厳重な警戒の裡〈ウチ〉に、小雨の降るなかを保上ケ谷の久保山火葬場に送られた。
 松井さんは、瘠せておられたので、すぐ焼けたが、武藤さんは、肥つておられたので、なかなか焼けなかつた。広田さんの棺〈ヒツギ〉には、どうした訳か、血がベツトリと流れていた、と云われる。
 久保山火葬場で焼かれることを、逸早く探知したのは、小磯(国昭)さんの主任弁護人の三文字(正平)さんであつた。三文字さんは、火葬場の上にある興禅寺の住職、市川伊雄〈イユウ〉和尚と相談し、飛田〔美善〕火葬場長を動かして、遺骨の奪取を計画した。
 この火葬場では、それより僅か半年前に、三文字さんのそうこう〔糟糠〕の令夫人が火葬にされたのだ。その葬式に参列して、私は、胆甕の如き三文字さんの、かつて見たことのない悲しい顔を瞼〈マブタ〉に残したものだ。
 可愛くて何ものにも替え難いお嬢さんと、二人きりの淋しい三文字さんが、この計画を、私にだけ事前にソッと漏らされたのは、失敗の場合を予想し、それとなく後事を托されたものと解するの他はなかつた。
 今日とは違つて、進駐軍の力がオールマイテイであつた頃のことだから、成功はとても覚束ない、と思つた私は、何とかしてこれを阻止しなければ、得がたき親友を、あたら失つてしまうもの、と苦慮したが、ひとたび云いだした限りは、テコでも動かない三文字さんの性格を知つているので、どうすることもできない。ひとりで、心を砕くばかりであつた。
 遺骨は、火葬場附属の共同骨捨穴に投げ込まれ、二十貫目もあろうと思われるコンクリートの花立〈ハナタテ〉で蓋をされた。
 三日ばかり経つたごく寒い夜、三文字さんと和尚と場長とは、外套を頭からスッポリかぶり、犬のように匐つて〈ハッテ〉、骨捨穴に近づいて行つた。友達が来たとでも感違いをしたのか、野良犬が、ケタタマしく吼える。大地をささえる掌〈テ〉は凍りつくように冷たい。今でも、機銃がなりだしそうだ。
 やつとの思いで、花立を除くと、十五尺位下の方で、白骨が、無気味に光つている。
 そこで、火かき棒の先にブリキの皿をつけて、掻きあげ、湿気を去るために焼き直して壺に収め、ひそかに興善寺の本堂に預け、三文字さんの甥で戦死した方の遺骨として、ささやかなおまつりをした。
 翌年の五月三日になり、もうよかろうと熱海の松井石根さんのところへ運び、遺族の方々集つて頂いて、初めて法要をいとなみ、これを七つの小箱に分骨しようとした。
 ところが、東條勝子夫人が、〝待つて下さい。頂きたいことは、やまやまで、その気持は皆同じだと存じますが、若しも遺骨があることが判りました場合、御迷惑は、必ず三文字先生にかかります。それでは、遺族として申訳ございません。どうかこの儘無いものとしておいて頂き度う〈イタダキトウ〉ございます〟と、これを遮えぎつた。〝それは、その通り〟と云うこととなり、松井さんが、日支両国の戦死者の慰霊のために建立せられた、伊豆山の興亜観音の本堂に、興善寺の場合と同じようにして、ひそかに安置することとなつた。
 敗戦の(戦争のとは云いたくない)責任を身を以て負担し、絞首台に散つて行つた七つの魂は、極めて少数の人々に見守られながら、夢のように美しい伊豆の海にのぞんで静かに眠つているのだ。〈190~193ページ〉

 文中、「胆甕の如き」という字句がある。「胆甕の如し」は慣用句で、「たん、かめのごとし」と読む。肝っ玉が甕のように大きいという意味である。

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あらとうと音なく散りし桜かな(東條英機)

2025-03-27 00:26:43 | コラムと名言
◎あらとうと音なく散りし桜かな(東條英機)

 林逸郎『闘魂――東京裁判と橋本欣五郎』(1956、考現社)から、「東京裁判秘話」という文章を紹介している。本日は、その四回目。

   音なく散る桜
 昭和二十三年(一九四八年)四月十六日午後五時十一分、タヴェナー検事が、リプライ〔reply〕が終つた旨を申出ると、ウエッブ裁判長は、厳かに判決云渡〈イイワタシ〉の日まで休廷する旨を宣告した。それを機会に私は、タヴェナー検事と、最後の握手を交わした。
 記者団とのインタービューを終つて、私が、法廷の表玄関に駆けつけたときには、巣鴨プリズンに帰つて行く被告らの護送自動車は、すでに坂道を降りかけていた。法廷が開かれてから二度目の春を迎えた土手の桜は、自動車の上に、吹雪のように散りかかつた。
 私は、スポ一クスマンとして、特に一室を貰つていたが、その室と、被告らの控室とは、ちようど差向〈サシムカイ〉の位置に在り、碧梧桐〈アオギリ〉の葉がくれに、手を挙げて合図を交わしたりなどしたものだ。
 そんな関係で、私の秘書の伊藤純代嬢や、書類整理係の峯村登美子嬢は、被告らから、特にしばしば、その労苦をねぎらわれたものだ。
 私が、記者団との休廷中をどうするかについてのインタービューに忙がしいとき、伊藤さんは東條さんに呼ばれて出てゆき、かねて頼んでおいた色紙の揮毫を貰つてきた。

    あらとうと音なく散りし桜かな

 恐らく、この色紙は、東條さんが毛筆で書いた最後のものと思われる。と云うのは、この日を最後に、筆紙墨凡てを取上げられてしまつたからだ。
 伊藤さんと峯村さんとは、スポークスマン室の窓を開けきつて、千切れるまでにハンカチを振つて、別れを惜しんだ。被告らも、次々に窓からのぞいて答礼をした。なかでも窓から乗り出して手を大きく振つて去つた東條さんが、最も印象的であつたそうだ。
 私が、護送自動車を見送つて、室に帰つたときには、両嬢は机の上に泣きくずれていて、声をさえもあげ得なかつた。
 弁護人側の弁論の始まる頃は、全部ではなかろうが、幾人かは死刑がでるであろう、という感じがしだした。それは止むを得ないことでもあり、或はその方が、国民のある者らに対して、満足を与える結果となるかも知れない、とは思つたが、さて、誰々がそれに選ばれるだろうか、と考えるとき、誰もかれもが、惜しくてたまらないような気がしたものだ。
 私は、弁護人側の弁論が終りに近づいた三月の末に、被告の数だけの色紙を差入れて、再び自由には逢えなくなるであろう私に対して、袂別〔ママ〕の言葉を書きつけて貰いたい、と希望した。或はそれが私に対する遺言となり又日本人全体えの遺言ともなるかも知れないことを、ひそかに心配しながら。
 東條さんは、細い筆で楷書で、

   冬枯れや緑尊し一つ松    英機

 と書かれた。松井(石根)さんは、

   囚 窓 当 両 歳
   如 夢 仏 心 安
   裁 鬼 将 来 襲
   何 時 到 涅 槃
        松井生(花押)

 と達筆で書かれた。広田(弘毅)さんは、

   以 春 風 接 人
   以 秋 霜 自 粛
         弘毅書

 と草書で書かれた。板垣(征四郎)さんは、

   我 不 愛 身 命
   但 惜 無 上 道
        板垣征四郎

 とその性格をそのままのかたい楷書で書かれた。土肥原(賢二)さんは、

   饑 来 喫 飯 倦 来 眠 
        土肥原賢二

 とこれも楷書で書かれた。俳人として知られた武藤(章)さんは、

   春灯に爪のあとよむ牢の壁    章生

 とさりげなく書かれた。木村(兵太郎)さんは、字が拙いから、と云つて書くことを辞退された。如何にも木村さんらしい謙譲さ、だと思つたものである。
 死刑とならなかつた人々のものも、それぞれ立派なものだが、それは今ここで述べることを差控えたい。〈186~191ページ〉【以下、次回】

 最初のところにある「リプライ」とは、裁判用語で、「被告抗弁に対する原告の答弁」の意味であろう。
 また、「袂別」は、原文のまま。ここは、たぶん「訣別」(けつべつ)の誤記であろう。

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