礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

「大いに不穏当なり」奈良武次侍従武官長

2023-01-19 00:17:20 | コラムと名言

◎「大いに不穏当なり」奈良武次侍従武官長

 今月一二日のコラム「加藤寛治軍令部長の上奏をめぐる問題」について、若干、補足をおこないたい。
 その日のコラムでは、『特集文藝春秋 天皇白書』(一九五六年九月)所載、鈴木貫太郎による回想記「嵐の侍従長八年」から、「政争と上奏」の節を紹介した。
 そこで鈴木は、「加藤寛治軍令部長の上奏をめぐる問題」について、みずから説明をおこなっているが、その説明は正確なものとは言いがたい。
 この問題については、波多野澄雄氏の『宰相鈴木貫太郎の決断』(岩波現代全書、二〇一五年七月)にある説明のほうが詳しく正確で、かつ、典拠も示されている。以下に、波多野氏の説くところを引いておきたい。
 引用は、同書の序章「ロンドン海軍軍縮条約問題」の項より。下線は引用者が付した。

 ロンドン海軍軍縮条約問題
 田中〔義一〕の後任には憲政の常道によって民政党総裁の浜口雄幸に大命が降る。浜口内閣の重大な外交問題が、ロンドン海軍軍縮条約への対応であった。若槻礼次郎全権らは、政府に妥協案の可否を請訓した。その内容は、会議以前に海軍部内でとりまとめられ、閣議でも申し合わされた「三大原則」(補助艦総排水量で対米七割、大型巡洋艦の対米七割、潜水艦の現有量保持)にはわずかに及ばなかった。政府にとっては満足すべき内容であった。しかし、国防をあずかる軍令部は、鈴木〔貫太郎〕の後任、加藤寛治軍令部長を中心に、妥協案の受諾に強硬に反対した。反対論の背後には、海軍部内で絶大な影響力をもつ東郷平八郎元帥や、皇族出身で軍事参議官の伏見宮博恭王〈フシミノミヤ・ヒロヤスオウ〉らが控えていた。これを押さえ込むことには困難が予想された。
 一方、鈴木、牧野〔伸顕〕、西園寺〔公望〕の間では七割に固執せず、条約を成立させようとする浜口内閣を後押しすることで合意していた。天皇もまた、軍縮問題の経過報告のため三月二七日に拝謁した浜口に、「世界の平和の為め早く纏める様努力せよ」との言葉をかけている[浜口日記、一九三〇年三月二七日]。
 浜口内閣はロンドンでの妥協案を受け入れるよう全権団への回訓案を閣議決定して、四月一日に上奏を願い出た。軍令部では、浜口による上奏を阻止するため、加藤軍令部長による帷幄上奏をもって対抗しようとした。内閣による上奏予定日の前日、三月三一日、加藤は帷幄上奏を願い出た。本来なら、統帥事項の上奏は侍従武官長が扱うことになっていたが、鈴木は侍従長という無関係の地位にありながら、海軍の先輩、加藤の前任者であることを理由に、加藤の帷幄〈イアク〉上奏を翌日に延期させた。さらに鈴木は、翌四月一日の加藤の上奏をも却下し、二日に延期させた。この間、浜口首相が四月一日に予定通り回訓案を上奏し、裁可を得た。こうして四月二日、現地で日米英のロンドン海軍軍縮条約の締結にこぎ着けた[伊藤二〇一一、一八〇~八七/茶谷二〇〇九、第一章]。
 鈴木による加藤軍令部長の帷幄上奏の阻止という異例の措置は、本来、取り次ぐべき立場にあった奈良武次〈ナラ・タケジ〉侍従武官長も、「大いに不穏当なり」と批判していた[奈良日記、三〇年四月一日]。
 案の定、鈴木が加藤軍令部長に対抗上奏を延期するように説得したことが、側近の上奏阻止として波紋を広げる。まもなく右翼団体や海軍青年将校の間で問題とされ、四月二一日に召集された第五八特別議会でも、野党政友会によって統帥権干犯問題として浜口内閣に対する攻撃材料とされる。〈八~一〇ページ〉

 波多野氏は、加藤軍令部長の帷幄上奏を鈴木侍従長が阻止したことを、「異例の措置」と捉えている(下線)。ここは、注意しておくべきところである。
 さて、一九三〇年(昭和五)三月・四月のロンドン海軍軍縮条約問題(署名は同年四月二二日)に関わった浜口雄幸首相は、同年一一月一四日、東京駅で銃撃され、翌一九三一年(昭和六)四月一三日に首相を辞任、八月二六日に亡くなった。同じく、この軍縮条約に関わった鈴木貫太郎、牧野伸顕、西園寺公望の三名は、一九三六年(昭和一一)の二・二六事件で、襲撃の対象とされたのであった(牧野は危うく難を逃れ、西園寺への襲撃は直前に中止された)。

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