礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

読んでいただきたかったコラム(2016年後半)

2016-12-31 04:49:08 | コラムと名言

◎読んでいただきたかったコラム(2016年後半)

 早いもので、2016年も、今日で最後である。
 恒例により、今年度後半で、読んでいただきたかったコラムを10本、挙げてみたい。

※読んでいただきたかったコラム・10(2016年後半)

 ・11月15日  TPPの承認と阿波丸事件請求権の放棄

 ・11月21日  戦時下、盆踊りが復活する(1942年夏)

 ・8月21日   緑十字機の「燃料切れ」は破壊工作か

 ・12月22日  それはテラジマがよくない、弱い者イジメだ

 ・10月4日   では再交渉を考慮して見てはどうか(1945・8・12)

・12月23日  湖口に機雷を布設してないか(シンプソン少将)

 ・10月19日  社会大衆党と三多摩壮士の接点

 ・8月31日   美濃部達吉のタブーなき言説

 ・9月2日    マックアーサー元帥の手は震えていた

 ・8月13日   幸福実現党本部に家宅捜索(2016・8・2)

◎礫川ブログへのアクセス・歴代ベスト50(2016・12・30現在)

1位 16年2月24日 緒方国務相暗殺未遂事件、皇居に空襲
2位 15年10月30日 ディミトロフ、ゲッベルスを訊問する(1933)
3位 16年2月25日 鈴木貫太郎を救った夫人の「霊気術止血法」
4位 14年7月18日 古事記真福寺本の上巻は四十四丁        
5位 15年10月31日 ゲッベルス宣伝相とディートリヒ新聞長官
6位 15年2月25日 映画『虎の尾を踏む男達』(1945)と東京裁判
7位 16年2月20日 廣瀬久忠書記官長、就任から11日目に辞表
8位 15年8月5日 ワイマール憲法を崩壊させた第48条
9位 15年2月26日 『虎の尾を踏む男達』は、敗戦直後に着想された
10位 16年8月14日 明日、白雲飛行場滑走路を爆破せよ

11位 16年12月6日 ルドルフ・ヘスの「謎の逃走」(1940)
12位 13年4月29日 かつてない悪条件の戦争をなぜ始めたか     
13位 13年2月26日 新書判でない岩波新書『日本精神と平和国家』 
14位 15年8月6日 「親独派」木戸幸一のナチス・ドイツ論
15位 16年8月15日 陸海軍全部隊は現時点で停戦せよ(大本営)
16位 16年1月15日 『岩波文庫分類総目録』(1938)を読む
17位 15年8月15日 捨つべき命を拾はれたといふ感じでした
18位 16年12月15日 イー・ザピール「フロイド主義、社会学、心理学」
19位 15年3月1日  呉清源と下中彌三郎
20位 16年8月24日 本日は、「このブログの人気記事」のみ

21位 16年12月16日 マルクス主義の赤本、フロイド主義の赤本
22位 16年1月16日 投身から42日、藤村操の死体あがる
23位 14年1月20日 エンソ・オドミ・シロムク・チンカラ     
24位 16年12月8日 ビルマのバー・モー博士、石打村に身を隠す
25位 16年6月7日 世界画報社の木村亨、七三一部隊の石井四郎を訪問
26位 16年12月12日 旋盤を回しながら「昭和維新の歌」を歌う
27位 16年12月14日 法令の改廃は今後もつづくであろう(1949)
28位 15年11月1日 日本の新聞統制はナチ政府に指導された(鈴木東民)
29位 16年11月20日 多胡碑の文面は81文字か
30位 16年8月31日 美濃部達吉のタブーなき言説

31位 13年8月15日 野口英世伝とそれに関わるキーワード   
32位 16年12月25日 ライオンのような顔が青ざめて見えた
33位 16年2月16日 1945年2月16日、帝都にグラマン来襲
34位 16年12月1日 プロペラはボス部の工作が難しい
35位 16年12月19日 緑十字機事件と厚木基地事件
36位 16年12月13日 岩波書店『六法全書』1949年版の「前がき」
37位 16年2月14日 護衛憲兵は、なぜ教育総監を避難させなかったのか
38位 16年12月9日 東京に4万人の幽霊人口を発見(1945年11月)
39位 16年11月29日 岡本勝治の『航空発動機主要部品工作と段取』(1944)
40位 16年8月16日 論文紹介「日の丸・君が代裁判の現在によせて」

41位 16年10月10日 公布時の国家総動員法(1938年4月1日)
42位 16年5月24日 東條英機元首相の処刑と辞世
43位 16年11月1日 出来ばえは上乗とはいえない
44位 16年12月3日 「生キテヰル英霊」は41,464人
45位 16年6月13日 マトモなことを言うとヒドイ目に遭う
46位 16年6月14日 大政翼賛会は解散、大日本婦人会も解散
47位 16年8月20日 緑十字機、鮫島海岸に不時着(1945・8・20)
48位 16年8月22日 桃井銀平論文の紹介・その2
49位 16年12月20日 終戦は御前会議決定でゆるぎないものである
50位 16年12月29日 その拳銃で西園寺を撃て(三上卓海軍中尉)

次 点 16年12月7日 アメリカに到達した風船爆弾は31個

*このブログの人気記事 2016・12・31(7位以下に珍しいものが入っています)

 ◎A級戦犯の死刑執行に、なぜ「絞首」が選ばれたのか

 

 

 

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フランス革命史を読んで想を練る西園寺公望

2016-12-30 01:35:52 | コラムと名言

◎フランス革命史を読んで想を練る西園寺公望

 上原文雄著『ある憲兵の一生――「秘録浜松憲兵隊長の手記」』(三崎書房、一九七二)を紹介している。
 本日は、昨日に引き続いて、第二章「青雲の記」のうちの、「五・一五事件」の節を紹介する(同節の三回目=最後)。

 翌日〔一九三二年五月一九日か〕はいよいよ元老西園寺〔公望〕公爵が興津から上京した。特別仕立の列車で、警視庁、神奈川県警察本部は五十メートルに一人の巡査を、沿線に配置するという厳重警戒であった。公爵は秘書と女中頭お綾さん以下の御手伝いを連れて、駿河台下の別邸に入ったのである。
 私は、加藤〔伯治郎〕分隊長の命令で、公爵の身辺護衛のため、私服憲兵として斎藤上等兵外三名を伴って、別邸内で公爵の在京期間中の護衛勤務に服することになった。
 別邸の門脇〈カドワキ〉には、警視庁の警部補が請願巡査として小宅に起居して、常時警護に服しており、こんどの入邸によって門外には、警察の厳重な警戒が敷かれていたのである。
 われわれは、公爵の起居する離れと庭一つへだてた別棟の勝手と女中部屋と納戸〈ナンド〉のある建物の一室に詰めて、警護にあたった。
 襖一重の隣室には、お綾さんが連れてきた女中四名が起居する。お綾さんは離れの公爵の部屋の方に付添っているのである。
 われわれは背広に、拳銃をつけたまま、交互に仮眠をとるが、いわゆる寝ずの番である。われわれの警戒区域は屋内であり、もちろん公爵の居間を中心に警戒するのであるが、公爵の意向で寝所〈シンジョ〉付近を避けて、一室で警戒することになっていた。
 正門付近には警察の警衛本部があり、邸の周囲は警官と制服憲兵が配置されて厳重な警戒網が張られている。
 最初到着の夜は、われわれもほとんど仮眠もせず不眠不休の警戒にあたった。
 幸い何の異変もなく、翌日〔五月二〇日か〕はいよいよ公爵は参内であった。私は玄関で見送った。
 公爵が参内して邸内が不在になると、いく分気も楽になる。
 女中さんに招かれて、勝手で食事をする。公爵も女中さんも、われわれの食事もみんな公爵の食事と同じであるという。まっ赤になる程煮えた大根の味噌汁は格別の味であった。公家の生活は質素なものであると感じたのは、食事のことばかりではない。
 公爵の不在中、お綾さんが坪庭で洗濯を始めた。公爵の下着はもとより、ガーゼの切れのような物を何枚となく洗っては干していたので、
「女中頭さんがお洗濯ですか、大変でございますね、その布切れは何にお使いになられるのですか?」
 と聞いてみた。するとお綾さんも気軽に、
「公爵の身に着けるものは全部妾〈ワタシ〉が洗うのどす、公爵はチリ紙はお使いならしまへん」
 とのことであつた。
 また前夜公爵の部屋は、午前二時頃まで電灯が輝いていたので、
「昨夜公爵は遅くまで起きていらっしゃったようですが、何をなさっておられたのですか?」と尋ねてみた。
「御読書をなはっていやしたんどす。ずっとフランス革命史をお読みなさっていやはります」
 という。この重大な時局に、明日の宮中参内を前にフランス革命史を読んで想を練り、元老として御下問に奉答するのかと、深く感じ入ったものである。
 宮中から戻った公爵は、部屋に籠ったままである。秘書の原田〔熊雄〕男爵が入室したほか、訪問客はなかった。
 われわれは重大な身辺護衛勤務に服している責任を感じて緊張はしているものの、襖の向うには用車を終えて床につく女中さん連の若い熱気が、こちらの血気盛んな男性の熱気と対峙し、女中さん連を刺激するのか、キャッ、キャッとはしゃぎ廻っている。
 こちらは使命遂行中である。特に先任として勤務している私は一層緊張して、部下に静粛を強いていた。
 翌朝食事のとき、お綾さんが
「上原はん、ゆんベ男はんの声が大きいおましたさかい気つけはってね」
 と言われたので、
「女中さん連も大分騒々しいようでしたが」
 というと、「公爵は女子はんのお声やったら、いくらそうぞうしうてもかまやしまへんのどっせ」
 とのことであった。やがて斎藤〔実〕海軍大将に組閣の大命が降下して、西園寺公爵は再び興津坐漁荘〈ザギョソウ〉に引揚げるとともに、この身辺護衛勤務は終った。【以下略】

 上原文雄著『ある憲兵の一生』の紹介は、このあとも続けるが、明日の大晦日、および年明けの当初は、いったん話題を変える。

*このブログの人気記事 2016・12・30(8位以下に、やや珍しいものが入っています)

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その拳銃で西園寺を撃て(三上卓海軍中尉)

2016-12-29 04:53:50 | コラムと名言

◎その拳銃で西園寺を撃て(三上卓海軍中尉)

 上原文雄著『ある憲兵の一生――「秘録浜松憲兵隊長の手記」』(三崎書房、一九七二)を紹介している。
 本日は、昨日に引き続いて、第二章「青雲の記」のうちの、「五・一五事件」の節を紹介する(同節の二回目)。

 私が当直控室の臨時監視を解かれたのは深夜十二時過ぎのことであった。
 私は当直控室で監視をしながら、先刻加藤分隊長の〝まだ自決しないか?〟と言われた言葉のように、これ等の士官は一殺多生の任務を果して来たのである。一人や二人の自決者が出てもよいと思っていた。小沼や菱沼のような右翼浪人ならいざしらず、軍人精神をたたきこんだ軍人なら、ここで自決してこそ軍人らしい刺客となり歴史に残ることであろうと思っていたのである
 この時の挿話を一つ記しておく。
 東京毎日新聞の三原信一記者は、京大を卒業するとすぐ入社して、憲兵司令部担当記者として憲兵隊に出入していた。
 この人は近江の寺院の出身というので〝三原坊主〟と愛称されるほど憲兵と親しくなって、いた。
 私が当直室で監視をしているところへ、どこから潜入して来たのか、のっそりと入って来た。各門は警戒の憲兵が固めているのに! あるいは事件勃発前に入っていたのかも知れない。いづれにしてもこんな場所へ入って来て、新聞記者という身分が決起士官に覚られては大変と思い、
「三原君は今日は私服勤務ですか、いつ頃帰って来られましたか?」
 と、さも同僚憲兵らしく話かけてその場をつくろった。三原君は素早く人員などを調べたことであろう。すぐ出ていったが、警戒が厳重で今度は外に出て行くことができないので、翌日の夕刻まで憲兵隊の構内に罐詰されてしまった。この間各所を潜行して事件の大要を入手し、いわゆる特種をあつめて帰社してほめられたらしい。
 三原君が戦後毎日の社会部長に昇進し、伊那市の図書館へ文化講演に来られた際、二十年振りで往時の懐旧談をしたことがある。
 数日後捜査取調べや検証が終って、海軍士官は大津〔浦賀町大津〕の海軍刑務所へ護送することになった、各分隊に分散して取調べをうけていた海軍士官七名は、東京憲兵隊本部に集められて、ここから自動車七台に分乗して、横須賀まで護送するのである。自動車一台に士官一名と護送憲兵二名ずつが同乗した。憲兵は私服である。途中犯人奪還などを考慮して目立たないようにするためであったが、護送憲兵の私服用のモーゼル拳銃が不足なので、十四年式拳銃の大きなやつを、裸で皮帯のところへ差し挟んで所持した。
 私は三上〔卓〕中尉を護送することになった。
 その日〔五月一八日か〕は快晴無風の好天気であった。ハイヤー七台が列をなして京浜国道をばく進する。ただ異様に感じたことは、この日天理教の「ひのきしん」で法被〈ハッピ〉姿の信者がところどころの路側で道路の清掃をしていたことである。
 横浜を過ぎ横須賀街道に入って、いくつかのトンネルを通って、沈黙のまま約二時間、途中何事もなく大津刑務所までの護送を終った。
 大津刑務所に着いて拘置所の独房まで送り最後に別れるとき、
「何か伝言でもありましたなら、内密にお伝えしますが?」
 と、挨拶のつもりでいうと、
「叔父貴によろしく言ってくれ」
 と言うので、
「叔父とはどなたですか?」
 と問い返すと、
「真崎〔甚三郎〕によろしく言ってくれ」
「ほかには何かありませんか?」
「あす西園寺〔公望〕が上京すると聞いているが、その持っている拳銃で西園寺を撃て、それもできまい」
「そればかりはどうも、では御元気で」
 と、こんな会話をして別れた。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2016・12・29

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まだ連中、自決しそうに見えぬか(加藤伯治郎)

2016-12-28 04:39:49 | コラムと名言

◎まだ連中、自決しそうに見えぬか(加藤伯治郎)

 上原文雄著『ある憲兵の一生――「秘録浜松憲兵隊長の手記」』(三崎書房、一九七二)を紹介している。
 本日は、第二章「青雲の記」のうちの、「五・一五事件」の節を紹介する。この節もかなり長いので、適宜、区切りながら紹介してゆく。

 五・一五事件
 
 五・一五事件が発生したのは、昭和七年〔一九三二〕五月十五日である。
 この日私は日曜日で休務していた。
 うららかな初夏の日和で、庁者を囲む、土堤〈ドテ〉のからたちの垣も青い芽を伸ばし、和田倉門あたり宮城前の芝生も青々として、堀端の柳も青い枝を垂れて、風もない静かな日であった。
 私たちは道場で柔道の稽古をして、汗を流すために構内の風呂に入っていた。
 風呂から出て神田方面に散策しようとする午後三時前後のことである。
 当直憲兵が血相をかえて入浴場に走ってきて、
「陸相官邸の憲兵からの急報で、首相官邸へ海軍士官が侵入して犬養〔毅〕首相を殺したらしい。すぐ集合せよ」
 と怒鳴るように伝えて、詰所の方に駈けて行き呼集をかけていた。
 みんな風呂から飛び出して
「裸で殺されてはたまらん」
 とばかり半裸で詰所に駈け込んで軍服を着用し、事務所に向おうとすると、西門脇の銀杏の木の下あたりで、一発銃声が聞えた、振り向くと土堤に海軍士官が二人立っていて、宮城前大通りの堀端まで追いかけて来た警官に拳銃を向けて威嚇している。
 玄関に走り付けてみると、受付の渡辺上等兵の机の前にも海軍士官が二人立っている。
 渡辺上等兵が立って敬礼すると、机の上に拳銃を投げ出して、
「俺達は、今犬養を殺して来たから、憲兵司令官に取次げ」
 と言った。私も海軍士官に敬礼して
「とにかくこちらへ」
 と、とりあえず当直控室に案内して招じ入れた。
 事務室にはもう特務曹長も登庁して来ていた。渡辺上等兵は拳銃を持って、特務曹長に報告している。
 続いてまた海軍士官二名が到着した。
「ほかの者はまだ来ないか?」
 というので、
「先刻お二人が来て、こちらの部屋におりますから、こちらへ」
 と当直控室へ招じ入れた。
 こんなわけで私は、当直控室の監視のようなことを引受けてしまった。
 次々と海軍士官が現われる。そのうちに陸軍士官学校の学生が十一名と私服の青年が現われて当直控室は一ぱいになってしまった。
 分隊長加藤伯治郎〈ハクジロウ〉少佐は急報によっておもむろに登庁して分隊長室に入った。
 事務室には、各方面からの電話報告が次々と知らされ、陸相官邸憲兵は直ちに首相官邸に赴き、その状況を知らせてくる。非常呼集によって参集して来る隊員も次々と到着し、隊内はごった返したような混雑となり、靴の音、ベル音で騒然となった。
 海軍士官は制服帯剣。こちらは詰所から班けつけたままの丸腰である。士官連中も沈黙していて私語もせず、ある者はイスに腰掛け、ある者は当直用寝台に腰をおろす者もあるが、多くは直立のまま何事か考えている。
 間もなく、憲兵司令部構内各門には警戒のため憲兵が配置され、新聞記者から外部いっさいの者の出入が禁止された。
 分隊事務室から二階の本部へ、別棟の憲兵司令部への往来がはげしくなり、隊内は緊張し対策が構じられているようであった。
 私が監視に就いてから一時間程たった頃と思う、分隊長室から呼出しがあった。
 分隊長加藤少佐は、
「どうだ、まだ連中自決しそうに見えぬか?」
 と言われた。
「みんな、口をこわばらしていますが、そんな気配は見受けられません」
「もう少しそのままにしておけ」
 ということであった。暫らくして八字髭を立てた加藤分隊長が、肩をいからせるように重い足どりで控室に入って来た。
 海軍士官の誰れかが、
「敬礼」
 と大きな声で合図すると、一斉に立って分隊長に敬礼する。分隊長は眼鏡の奥から光った瞳でギョロッと一同を見廻したまま、無言で立っていたが、やがて控室を出てそのまま二階の本部隊長室の方へ歩いて行った。
 憲兵隊全般の動静としては、午後六時頃には東京憲兵隊は隊下全員の非常呼集が行なわれ、午後八時には宇都宮、名古屋両憲兵隊より約五十名の応援が発令され、午後十時には近衛、第一の両師団より百五十名の補助憲兵の出動が下達〈カタツ〉されていた。
 憲兵司令部構内はもとより、宮城各門陸海軍両省、官邸、市内重要個所に警戒体制がとられ、憲兵、補助憲兵が配置されたのである。
 事件関係者に対する捜査活動も始められて、陸軍士官候補生が先ず牛込分隊に分割移送され、続いて海軍士官が赤坂分隊と渋谷分隊に分割されて、麹町分隊には主謀格三名程が残され取調べが開始された。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2016・12・28(7・9位に珍しいものが入っています)

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仮眠用の寝台に純白の毛布と羽根入り枕

2016-12-27 07:53:19 | コラムと名言

◎仮眠用の寝台に純白の毛布と羽根入り枕

 上原文雄著『ある憲兵の一生――「秘録浜松憲兵隊長の手記」』(三崎書房、一九七二)を紹介している。
 本日は、昨日に引き続いて、第二章「青雲の記」のうちの、「浜口首相暗殺事件など」の節を紹介する(同節の三回目)。

 この混沌たる事象の中で、日本人に一つの目標を示し、新しい趨勢を与えたものは、満州事変の勃発であった。
 昭和六年〔一九三一〕九月十八日満州事変勃発の日私は、靖国神社の取締勤務に服していて、境内の憲兵詰所で号外によって知った。
 独立守備隊が行動を開始して、次々と戦果をあげていることが、号外の鈴の音とともに伝えられて来る。
 私は深夜靖国神社の境内で、この事件の将来を予想し筆をとって手記のようなものを書いた。
(これは転勤で紛失してしまっておしいことをしたと思う)
『この事件は拡大する。第一、蒋介石の国民革命軍は北上によって、今や北京、天津をおさえ、英、米、独はこれを支援して、満州における日本の既得権益を抑圧しようとしている。したがって関東軍の行動には、外部列強国の反抗を誘致することは必定〈ヒツジョウ〉である。
 一面国内においては、自由主義者や社会主義者はもとより、政界、財界中にも反対するものがあろう。
 そこで軍部は事を始めたからには徹底的に事件を拡大して戦果をあげることによって民心を満洲に引き付け、議会の賛同を得るために一層軍部による政界への強圧が行なわれるであろう。
 軍部がこの際一般の世論に押され、政党や財界の干渉によって不拡大方針をとるようなことがあれば、この時こそ国内の左翼社会主義運動は勃興して、社会主義革命が成功する結果となるのではなかろうか?』
 というような判断をしていた。
 事変発生によって、分隊は警備計画により参謀本部へ憲兵を派遣することになり、私は佐野伍長と共に参謀本部の警備に就いた。
 参謀本部玄関脇の一室が憲兵詰所に与えられて、仮眠用の寝台が二台用意され、純白の毛布に羽根入り枕が並べてあった。
 白髭の守衛長の話では、〝これは広島大本営当時の調度備品である〟ということであった。
 日露戦役以来二十数年にして、日本の平和は再び臨戦態勢に入ったのである。
 参謀本部玄関に立っていると、金谷〔範三〕参謀総長、南〔次郎〕陸軍大臣などがあわただしく出入りする。参謀連中が肩をいからせて勇ましく出入りする。
 総長や大臣が出てくると、報導〔ママ〕関係の記者が取り囲んで質問する。答えがないと自動車まで追いかけて質問する。それ等を払いのけて身辺護衛にあたるのである。
 その頃軍は不拡大方針を発表したかと思うと、林〔銑十郎〕朝鮮軍司令官は独断で朝鮮軍を越境出兵したと伝えられて来る。
 かくて満州事変の本格的出兵が決するには数日の経過があったのである。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2016・12・27(8位以下に珍しいものが入っています)

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